見出し画像

児童期の経験について少し考えてみました その2 ~学校での自己選択・自己決定~

 前回記事「児童期の経験について少し考えてみました~不登校のメリット・デメリットもふまえて~」をまとめた後、関連付いて書きたくなったことが出てきたので、思うがまま(誰かから聞いたことや書籍等から学んだことも含め)書き連ねていきます。


 不登校児童・生徒が増加傾向というのは、様々なニュース等でご存じかと思います。今回は、子どもたち一人一人の状況やどのようにすべきか、という論点ではなく、不登校が生じやすい状況になっているのではないかという構造上の問題や、それに関連する雑感等についてざっくりと書いていきます。


1不登校は子どもにとって数少ない選択肢
 

 不登校理由は様々です。学校に起因するものであれば、子ども同士のいじめ、学習についていけない、教師との関係…主として家庭でのものになれば、両親を含めた家庭環境の変化、生活リズムが安定しない…理由が明確なものであれば、周囲は納得感があり対応の糸口もつかみやすくなる場合もありますが、本人すらはっきりとした理由がわからない場合も多いです。

 今回は、それらの理由についての分析や対応等ではなく、子どもがそれらの理由で、学校生活も含めた現状にうまく適応できなくなった時の「選択肢」に視点を当ててみます。


 みなさんご存じの通り、義務教育段階であれば、住所に合わせて入学する学校は決められています。これは、誰もが学校に通えるようにとした場合、とても効率の良い方法です。何せ、多くの場合は徒歩で通学できます。


 学習内容(正しくは教育課程…いわゆるカリキュラム)も、全国であまり変わりはありません。学習指導要領により定められた内容です。生活科や総合的な学習の時間など、地域や学校によって差異があるものもありますが、同じ学校であれば隣の席の子と違う学習をするという場面は、大変少ないのではないでしょうか。


 つまり「みんな違ってみんないい」とは言うものの、学校というシステム自体はとても画一的なのです。このこと自体はあまり珍しい記述ではないかと思いますが、結構根は広く深く、また、それによる恩恵も大きいことを、批判的な方も承知しておく必要はあるかと思います。(これについては、また元気があるときに改めて整理します)
 個々の教員の努力ではいかんともし難い状況です。

 これらのことを子どもの立場に置き換えると、自分が苦しい状況に置かれた時…選択肢が大変限られている、ということです。


 例えば、学習が難しいとき…国語も算数も、内容は選べません。

 カリキュラムで定められているし、もう少し頑張ればできそう…という場合でも、個別で時間を生み出す等しかできません。仮にその子が、社会科ではびっくりするくらい短時間でものごとの特色を捉えられるから、それで浮いた時間を算数に充てたい、としても、システムがそれを許容していません。


 
 例えば、アスペルガー傾向がやや強く、周囲の理解や支援があった方が生活しやすい子…学級数の少ない学校であれば、子ども同士も把握しやすく、学校での組織的支援が組みやすいかもしれませんが、住所が数百メートル違ったがために大規模校に通うことになり、クラス替えの度に本人は適応に精一杯、支援する側も引き継ぎが煩雑…


 これらの場合、子どもには効果的な選択肢が少ないのです。


 そんな子どもにとって、「学校に行かない」という不登校の選択は、自分の苦境を打破…はできないかもしれないけど、少なくとも改善するかもしれない、限られた選択肢を行使した状態ともいえそうです。


2そもそも、学校において子どもが選択する場面って?


 このように考えると、学校ではあまり子どもが選択する場面がないように思われます。

 しかしながら、実は学校教育では、子どもの自己選択・自己決定は、とても重要視されるべきものなのです。


 生徒指導という言葉があります。(生活指導ではありません…勘違いしている人も多いですが)生徒指導について、まず確認します。
 以下に示すのは、文部科学省発行「生徒指導提要」の冒頭の一部です。


 生徒指導とは、一人一人の児童生徒の人格を尊重し、個性の伸長を図りながら、社会的資質や行動力を高めることを目指して行われる教育活動のことです。


 もはや学校教育の全てをカバーするもの、というくらいの定義です。まさか校則がうんぬんかんぬんとか、違反した場合に…などという些末なものではないようです。

 生徒指導では、子どもが自己実現をする力を高めていくことを重視しています。
 その自己実現について、次の様に述べられています。


自己実現の基礎にあるのは、日常の学校生活の場面における様々な自己選択や自己決定です。そうした自己選択や自己決定の場や機会を与え、その過程において、教職員が適切に指導や援助を行うことによって、児童生徒を育てていくことにつながります。ただし、自己決定や自己選択がそのまま自己実現を意味するわけではありません。選択や決定の際によく考えることや、その結果が不本意なものになっても真摯に受け止めること、自らの選択や決定に従って努力することなどを通して、将来における自己実現を可能にする力がはぐくまれていきます。また、そうした選択や決定の結果が周りの人や物に及ぼす影響や、周りの人や物からの反応などを考慮しようとする姿勢も大切です。自己実現とは単に自分の欲求や要求を実現することにとどまらず、集団や社会の一員として認められていくことを前提とした概念だからです。


 小難しい引用で申し訳ないですが、つまるところ、自己実現は、日々の自己選択・自己決定の積み重ねによって、その基礎ができる、ということです。


 でも、学校で子どもが自己選択・自己決定する場面って、どのくらいあるのでしょう?


学習内容は選べません
多くの場合、座席も決まっています
道具も決まっています
給食メニューも決まっています
昼休み…小学校などで、クラス遊びがある日には(遊ぶ内容を決めることもありますが)、一部の子が決めてしまって、従うしかない子もいるかもしれません
清掃活動…一部の優れた実践をしている学校は、清掃場所を決めていない場合もありますが、下手をすると清掃の仕方すら決まっています。


 もちろん、子どもが何も選択肢をもっていない状態…例えば、清掃の仕方がわからない、遊び方をあまり知らない、というのであれば、そこでみんなで同じことをして学ぶ、というのは十分ありだと思いますし、子ども同士が教え合ったり、認め合ったりできれば、大変喜ばしいことです。


 ただ、そうではない、そもそも子どもが選択・決定する状況すら与えられていない場面が、学校では多くを占められているように見受けられます。


3実は自己選択・自己決定を重要と言っているが…


 これは自分が強く思うものですが、義務教育は残酷ともいえる一側面をもっています。

 自己選択・自己決定が重要と掲げておきながら、これだけ自己選択・自己決定がしづらい義務教育の場を子どもに提供しておいて、義務教育が修了に近づくと、進路選択という、重要な自己選択・自己決定を迫るのです。


すごく乱暴な言い方をすれば、それまで散々「言うこと聞きなさい」としておきながら、中学校卒業が近づくと「自分で考えなさい」という、支離滅裂な指導をしていることになります。



 これでは、例えば高校等を選ぶ際に、偏差値によって選ばざるを得ない子ども(と大人)が多くいることも、無理はありません。


 自己選択・自己決定の経験があまりに乏しく、自己選択・自己決定をする尺度(ものさし)が養われていない子が数多くいるでしょうから。



 これだけ世の中が多様になってきていれば、人々が幸せに生きるためには、自己選択・自己決定の重要性はさらに増してくるでしょう。


 子どもが、自己選択・自己決定をできる場面が少しでも増えることを、願ってやみません。



最後までお読みいただきありがとうございました^^

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?