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〝言語化できない生きづらさ〟と対峙した休学前半。

いつもしれーっと好きなように綴っているnoteですが、今回は外に発信するつもりで書いてみようと思います。

僕は2021年の上半期、非常に価値観が変化しました。

それに伴って、自分の生きてる世界の見え方もだんだん明るくなってきたんです。
そんな半年間の過程をぎゅぎゅっと詰め込みます。

自己紹介もまだなのですが、そこらへんにいる1人の大学生のストーリー。興味ある方は覗いてみてください。


❏ 休学という決断

2021年3月31日。

僕は慌てて教務課に行き、担当の教授から判をもらい、
1枚の紙ペラを提出した。

その瞬間、僕に1年という猶予が与えられた。


決断する力強さを兼ね備えていなかった僕は、
ボヤっとした「休学したい」の気持ちをハッキリできないでいた。

迷い初めてから2ヶ月。
気づいたら、締切の3時間前まで迫っていた。
時間に追われて、やっとハッキリできた。

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休学した理由はまた別のときに詳しく書きますが、
最も大きな理由は「このまま就活したらもったいない」という気持ちでした。

ご縁に恵まれ、どこか運命的なものを感じる、心を満たしてくれる「ワークキャンプ」という活動との出逢い。

これを深めずして、中途半端に「大学3年生だから」
という謎の風潮に呑まれ就活したくありませんでした。


❏ 僕が抱えていた〝生きづらさ〟の正体

そんな慌ただしい休学劇から半年。
振り返ると、この上半期はワークキャンプの探求というよりも、自分自身にある

言語化できない生きづらさ

と向き合った期間でした。

無自覚のうちに、僕はだんだん自分の感情の発散、心の奥底にある願望に蓋をしていました。
そんな状態であったが故に、知らないうちに、みるみる自信が失われていってたんです。

なんだか、どうしても自分に意識が向いてしまう。


           僕が抱えていた『生きづらさ』の正体は

     『ナチュラルな自分を出せない苦しさ』でした。


僕は、なぜか生きづらさの呪縛に囚われていたんです。
無自覚にいつも不安を抱えていました。

これまで、その不安の感情に目を向けてるようで目を向けてこなかった。
「大丈夫、大丈夫」って言い聞かせてごまかす感じ。

心が出すSOSのサイレンに「大したことねぇや」って
強がって、放置。
実は心の中は負の感情や不足の感情で蠢いているのに、我慢して乗りきる。そんな日々でした。


実はとっても弱い心の持ち主だったんですね。

そんな自分を見つめ直し、
この半年、

「自分は何のために生きていて、本当に本当に望んでいるあり方・生き方ってなんだろう?」

という問いに、ひたすら目を向けていました。


この半年間やってきたことを表現するなら、

               “ 本来の自分を解放するための葛藤”

「本当はこんな自分でいたい!」という気持ちに素直に、それを外界に表現できる状態を目指して。。

ときには目を背けたり、逃げちゃったりしながら、
自分が願う状態を見つめ続けることにしました。


❏ 僕の思考のクセ

自覚しておらず、最近気づいたのですが、
僕はどうやら感受性豊かな人間らしいのです。
(「感受性豊か」の定義は人それぞれだと思いますが。)

感受性の平均値みたいなのって分かんないから、
人一倍いろんなことを敏感に感じやすいことが、自分の特徴だと認識していなかった。

というか、「何かを感じる」ことが当たり前すぎて、
特別意識することがなかった。 

感受性豊かって、喜怒哀楽が分かりやすく表情に出る人ってイメージがあって。。
でも、僕みたいに、外に放出されていないけど、心の中で敏感に色んなことを感じている人もいるんですね。
(たまーに、溜め込んでたものがブワッと溢れるときがあります)


そんな感性で湧き上がる感情を自ら認識し、拾い上げているものは意外と一部しかなくて。。

とても繊細であり、多感。

これ、伝わるかな?


僕のあるある事例を3つあげます。

何か役割や責任を担うとき(みんなを仕切るときなど)、
「みんなの中心なんだからちゃんとしなきゃ」
って気持ちが盾になって、その裏に強くある
「不安」や「みんなに本当はもっとこうしてほしい」
といった感情にアクセスしようとしない。
目上の人や尊敬する人・すごいなと思う人を前にすると、
体がキュッと固まって、自然体でいられない。
窮屈になって、萎縮する。
大勢(複数人)の前でスポットを浴びると、
心がザワザワして、まるで人の目線の縄に縛られたみたいになって、前に出て発言しなくなる。
遠慮する。良いことを言おうとする。心がかたくなる。
つくった笑顔になる。
思うように言葉が出ない。


優等生みたいなところがあって、
謎の「責任感」や「良い子ちゃん」モードが先行しちゃうんですよね。

「きちんとやる」「ちゃんとやる」の圧が前のめりにやってきて、その裏にある「プレッシャー」や「孤独感」は無視。

「~しなければならない」「~すべき」という
誰かが作った暗黙のルールに縛られ、自由を失う。


これが僕にとって最大の
「自分らしく、ありのままでいられない」要因でした。


多感で、本当は感じてるものたちを外に放出し、表現したいのに、
脳内に知らぬ間に埋め込まれた暗黙のルール、つまり、「思考のクセ」によって、

「この場ではこんな自分でいなきゃいけない」
「人前ではちゃんとこうしていなきゃいけない」
「あの人がああしてるようにやるといいな」

に苦しめられていました。

無意識のうちに、我慢しちゃってたみたいです。


たまーに「育ちがいいよね」なんて言われてたのも、
こういう「普通に良い子」な感じを受け取られてたのかな~と思ったり。
別にそんなことないのにな~自分、、って思ってたのが懐かしいです。(笑)

そんな優等生君で、無駄にちゃんとしすぎようとする
潜在的な自分に苦しめられていた。

この半年間もまた、解放したいと思っていても、どうしても殻にこもってしまって、勝手に苦しんでいました。


❏ 負ってきたもの

こんな優等生君思考のクセが生まれたのには、原因があるはずです。そんな「思考のルーツ」を解き明かしてきました。 

3月末~7月に参加していた
(株)はぐくむのLIFE DESIGN SCHOOLというプログラム。仲間と共に、過去の痛みから、今この瞬間にもがき苦しむ様など、全てを分かち合ってきました。

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自分1人ではしんどくて逃げたくなるようなことも、
お互いに励まし合い、助け合いながら、自分にしか分からないオリジナルのHISTORYを探求してきました。


そんな過程を通して、生きづらさのルーツがこれまで負ってきた3つの傷に大きく起因していたことに気づきました。
(自分で傷と言うのもなんですが、「傷」とすることで
強さに変えられる気がするので、こう表現します。)

〇 家庭環境
〇 中高時代
〇 昨年、コロナ禍で務めた学生団体・代表の経験

詳しく書いてたらキリがない?(笑)ような気がするので、まとめながら綴っていきます。
(でも、長くなってしまいました…笑   byあとがきさん)


① まずは家庭環境。

少し家庭内の事情も含むのであんまり大っぴらにしたくないのですが、簡単にまとめるなら、家族の仲が悪い。

会話がない。というか、したくない。
そんな空気感で包まれていた。

僕は3人男兄弟の末っ子なのですが、
親同士も仲が良くなさそうだったし、それに影響を受けてか兄弟間も仲が悪くなった。
ぶっちゃけ、仲良くしようと思わない。
だから、家族に自分のことを見ててくれたなぁ、愛情かけてもらったなぁ、って思ったことがなかったです。

最近まで、「愛情」って何なのか分かんなかった。
「愛」という言葉は僕にとってキレイすぎて、嘘っぱちで、気持ち悪いとさえ思ってた。

つまり、僕は愛情を受け取れる状態で育ってきてなかったんですね。
家族の仲がギクシャクしていて、たとえ親が愛情をかけてくれていたとしても、それを素直に受け取れる状態ではなかった。

さらには、中学受験をしたことで小さいうちから
どこか「何かができる自分でないとダメ」という価値観が培われてしまった。
「~できる自分」のことしか受け入れられなかったんですね。自分の存在そのものを承認し、好きでいることが難しかったです。

今になってやっと、思春期から少しだけ大人になって、親への感謝の気持ちを持てるようになってきました。
めちゃくちゃに葛藤したあげく、招待状のお手紙を渡して、やっとの思いでLDSの最終Forumで親にこれまでの感謝の言葉を伝えることができました。

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でも、それでも、全てが丸くなった訳ではない。
素直になれない自分はまだまだいて、これからもずっと向き合っていく葛藤ポイントなんですよね。


思春期の多感な時期に家が居場所ではなかった。
ありのままの喜びや不満を出すことができなかった。
自分の存在そのものを愛せないようになっていた。

これが、1つ目の傷。

                                  ................

② 2つめは、中高時代のこと。

僕は人見知りで友だちを作ることが上手ではない。
どこか人を恐れて、ビクビクしがち。

中学受験をして中高一貫の男子校に入学しました。
自然な形で地元の友だちと離れ離れになり、新しい環境に飛び込む。

何もかもが新しくなった世界。
こう言ってはあれかもしれないですが、
中高一貫の男子校というのは特殊で、言葉を選ばなければ、かなり歪んでいました。

僕で言えば、一部の友だちに依存したり、
仲間はずれにされたくないからいじめをして、自分のポジションを確立させたりと。
今考えると本当にひどいヤツでした。

悪事をすることで、自分のことを肯定する。
そんな悪の連鎖が悪質な絆を生み、手が付けられない集団をつくる。

中学を卒業し、高校野球に一生懸命になってからは悪事をはたらくことはなかったですが、もう、人との普通な関わり方が分からなくなっていたんですよね。

話しかけられたらたどたどしい自分になるし、
かと言ってそんな自分を悟られたくないから強がった自分で過ごす。

1人でいることが多くて、「周りからしたら自分変な奴に見られてるんだろうな」って思いながら過ごしてた。

幸い野球っていう大大大好きで、みんなと打ち込めるものがあったから、心が大ケガするまでに至らなかったですが。。

そこで感じた孤独と寂しさ。
なんだか不思議と今もやや名残があります。
当時と現状を比較したら、見違えるくらいハッピーな生き方してますけどね。
そういう意味ではなんだか運をもってる人間だとも思います(笑)

                                    ...............

③ 3つめは、昨年1年務めた学生団体での委員長の経験。

これは最も記憶が鮮明な痛み。
傷負ってたんだって気づいたのは最近なんですけどね。

それくらい、自分に余裕がない中で過ごしてきました。

インドネシアや中国でのワークキャンプ(ボランティアの一種)や、日本のハンセン病療養所に訪問する活動。
(詳しくは割愛します。一応こんな活動してるよ~のHP貼っておきます。 https://fiwctokai.weebly.com/  )


コロナでこれまでやってきた活動は全くできない。
僕は持ち前のムダに強すぎる責任感を発揮し、空回り。

自分のせいで団体潰れるんじゃないか?ってひたすら焦り、追い込まれてきた1年でした。

感情的で素を出せる、安心感ある団体カラーの中で、
1人焦る自分。

もがいてもがいて、新たな手を打っても
自分のネガティブな状態も相まって、すんなり受け取ってもらえる感じがない。

もうどうしようもなくて、ただひたすらに悩み苦しみ、
みるみるうちにメンバーのことを信頼できなくなる。

そして、自意識過剰になり、ついには先輩にも当たってしまうようになり、ゲームオーバー。


本当に周りの見えていない状況でした。
とにかく団体のことで目が覚めて、起きてから寝るまでずっと頭の中が団体のことで支配されていました。

近くにだれも助けてくれる人がいない。
当時は自分の状態すべてを分かってくれる人は誰もいないんだ。。って思ってました。

状態を言葉で伝えるのは難しいですが、
あ、これを「孤独」っていうんだな、って感じでした。

自分を責めて責めて責めあぐねて、ついには
「あ、自分この団体にいない方がいいわ。」
って思ってました。
これが地獄みたいな悪循環のピーク。


それによって、
大学入って新しい環境になり、だんだん癒えてきていた昔からの古傷が再発しちゃったんです。

「人のことが怖い。どうせ嫌われてるんだろうな。」
「どうせ自分はダメなんだ。。」

自己肯定感が爆下がりし、傷はどんどん深くなっていきました。
気づいたら、人に見られてる環境がすごく怖くなっていて、人がいる中でありのままの自分を出すことができなくなっちゃいました。

人を信頼できない。

1対1で関わるならまだ大丈夫なんですが、複数人いる中だと怖くなって自分を出せないんですよね。

自分が出なくなると、無意識のうちに自分の存在に自信がなくなっていってしまう。


僕は知らないうちに「自信がない人」になってしまったんです。誰のせいでもなく、ただ、自分で自分を追い詰めることによって。

もともと自分の存在自体に自信を持っていた訳ではないですが、大学生になり、好きなようにアクションすることでだんだん自分のことを好きになっていく気配があった。

でも、その流れはせき止められてしまって、
自分が望むBeingとはかけ離れていってしまいました。

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❏ 込み上げてくる悔しさ

で、長々と自分のアイデンティティを振り返ったんですが、このnoteを発信するに至ったのには訳があります。

そんな、自分で自分の可能性を塞いできた弱々しくて脆い自分に、やっと、負けないようになってきたんです。

つかむらくん、ちょっとだけ強くなったんです。


8月、僕は死んでいました。(笑)
極端にいえば、生きる気力を失っていたんです。

          「あぁ、自分って生きる意味ないなぁ。」
                    「もう何もしたくないなぁ。」

って。
自分がこれまで関わってきた物事を全て断ちました。

もう何かに縛られて、息苦しさを感じたくないって。
人のやり方に囚われたくない。
これまで手に入れた持ち物をぜんぶ手放して自由になりたいって。


1回全てフラットにしてみたんですよね。


これまでの自分だったら、とりあえず目先のやらないといけないなと思うことをやろうとしてたけど、
何にも囚われずに、ただひたすら自分の感情や欲のままに生きた。


家から1歩も出ず、1日食って寝て、ダラケる。
たまに湧き上がってきたものをひたすら殴り書く。
ちょっとだけマジメに勉強したくなったら勉強。
でも基本的にYoutube見てグダーってしていて。

それはそれはある人からみたらクソみたいな生活だったでしょう。
でも、それが自分にとっては最高で、なんだか溜まっていたものが浄化されていくようでした。


身近にいる人の言葉や行動には一切触れず、必要最低限でしか人と関わらないことで、何の価値観にも囚われなかった。

たまに意味不明な熱が出たりすることもあって、
どうしても無気力状態になるしんどさもあったけど、
何もかも空っぽの状態からリスタートできたんですよね。

人からあれこれ言われる環境ではなく、
「自分の心の中から湧いてくる言葉で自分と向き合う」ことの大切さを学びました。

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[空っぽの状態から湧き上がってきたものたち]


で、リセットされた0の状態から歩みを始めてみようと思い立ったときに、湧いてきた感情。

それが「悔しさ」でした。

僕がこの半年間でできたこと・できなかったことを振り返り、今後の軸を定めるときに気づいたこと。

結局は、自分起点で動かないと気が収まらない。
人がやってる事では満足しない。人の正解のマネではなく、自分から、自分起点で新しい価値を創造したい。


僕、実はめちゃめちゃエネルギー溢れてるんですよね。ダイナミズムさがあるのを自覚している。
これは、僕が授かった命の1番のギフトかもしれないです。

これまで、僕は「人のやり方・正解」が大好きでした。
人が作った正解たちから良いものを抽出して、自分の中に凝縮する。
そんなイメージで生きてきました。

リスクが最小限であるし、人がやってるのを模倣したら確実に成功する。そうしたら自分の頭で考えなくていいし、努力しなくていい。
無意識に、楽で失敗しないことを求めてたんですよね。
成功っていう満足を得ることしか頭になかった。

失敗すること、価値がないことをするのを過剰に恐れていた。非常につまらない人間でした。
でも、結局そんな楽をして苦しむのは自分で。
溢れるエネルギーは全然使われない。
むしろ、腐っていく。

そんな特性に気づき、これまでのやり方を変えてみました。

人が良いねって言ってくれそうな当たり障りない生き方ではなく、自分の道を自ら切り拓いていく楽しさを味わいにいこうと。

すると、ようやく光が見えてきたんです。



❏ 望んでいた〝inner peace(内なる平和)〟

⚪️  穏やかさ
⚪️  人と比較せず、自分の人生を生きる
⚪️  命の躍動 ~エネルギーを使いきる~


「無意識・無自覚に感じている生きづらさ」の裏には、
必ず強く願い、強く望む理想の生き方があります。

そんな想いを持っていた自分の理想と、なかなか叶っていかない現状とのギャップに、必ず葛藤が起こる。

そこには社会の時代背景やこれまで僕が述べてきたような思考・価値観のクセなど様々な要因があります。


そんな

生きづらさ→素直に願う生き方でめいっぱい生きられる

世界観にシフトできてきた自分だからこそ、
そのプロセスを分かち合いながら、人と接することができるのではないか、と思っています。

この経験はあらゆる場面で生かされる
自分にとって最大の強みになるんじゃないかなって。


そんな風に、自分の弱さを享受できてきたことにより、
単に過去を「痛み」や「苦しみ」と捉えるのではなく、
人生という広い視点で見てみて、

「自分の生きる意味」を見い出せるようになってきました。自分に愛を向けられるようになってきました。

「自分を愛する」余白が生まれてきたんですよね。

これこそ、自分が望んでいた inner peace。

ほんのりとした明るさが広がっていて、
穏やかで朗らか~な世界になりました。


今、僕は、大切にしていきたい

           『 愛・感謝・謙虚さ・熱さと穏やかさ 』

を日々心に刻みながら過ごしています。

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❏ これから  ~誰のために、何がしたいか?~


ここまで自分の変化を長々と綴ってきました。

自分の変化してきたところはものすごく自信になるし、誇りを持てるし、自分の好きなところになる。

けど、だからこそ、過去を振り返っただけで満足しないように。自分の些細で大きな変化への喜び・満足は一定数味わったので、ここでスローダウンせずに。

変化ばかり詠っていても見込みがないので、
nextの方向性を示します。

半年間、ひたすら自分のありたい姿・願う生き方の探求をしてきました。自利を突き詰めた結果、利他の面も考えられるようになってきたんですね。

そんな新たな発見も踏まえて綴りたいと思います。


〇 だれのために命を使いたいか?

大切なWhoの視点。
高校生まではひたすら野球ばかりで、球投げて、打って、チームが勝つことで満足していた。

でも、大学に入ってワークキャンプに出会ったことで、価値観は一変。「自分の大切なだれか」に喜びを感じてもらうことに、たまらない幸福感を得ることを知った。
自分が好きな、大切な人と何気ない場を共にしていることに幸せを感じるようになった。

自分の命を使い、使命を果たす。
どんな人に向けて自分の命を躍動させたら、心が動かされるのかな、、って。

僕には1つの特徴があります。
それは人の「痛み」「苦しみ」「悲しさ」「寂しさ」に
異常なほど敏感であること。

心に負ってきた痛みが少なからずあるからこそ、
人のちょっとした辛い心理状態にすぐ勘づく。

だれ1人として置いていきたくないし、1人も傷つけたくない。
逆に自分が不用意に傷つけるような言動をとってしまったときは、死ぬほど引きづります。
自分をめちゃくちゃ責める。
(昔の自分だったら考えられないですけどね。笑)


1人がキラキラ輝いている明るさ以上に、
1人の些細なドヨンとした暗さが気になる。

これは自分の特徴なんだと思ったんです。
自分のこれまでの人生が反映されてるのだと思います。
だったら、その自分らしい特徴を存分に生かしたアクションをしていきたい。

ちょっとした生きづらさや、存在否定をしてしまっている人、自分のキャパ以上に心身を稼働してムリして頑張ってしまう人、原因はよく分からないけどイキイキと自分らしく生きることができていない人など。

具体的に挙げたら様々な方がいらっしゃると思いますが、どこか自分の思い描く理想と現実が噛み合っていない人に何かしたい。


もっと詳しく具体的にはこんな人なのかな…というのは、何かここに書くのはちがうと思ったので、
自分の中でひっそりと日々深めていきます。

                                 ....................

〇 何をしていきたいか?

僕がやりたいこと。
それは、大切な人と一緒に幸せになっていくこと。

ただ自分だけが幸せを感じることではなく、
一緒に幸せを感じていける、幸せな想いが伝わり合う瞬間を生むようなことがしたい。

つまり、
幸せになっていく過程を共に分かちあっていくこと。
→何かしら不満を生む不自由を抱えている問題の本質に目を向ける。氷の核からじわじわ溶かしていくように。


そして、僕の存在そのもの、僕がやっていくことが、
結果的にさっき綴った人たちをはじめ、どんな人にとってもの居場所になったら嬉しいな~って思います。

「何かしてる自分じゃなくて存在そのものが尊いこと」

「自分にもみんなにも、それぞれの人に生まれ持った素敵なものがたくさんあって、みな等しく愛されること」

「あ、意外と自分らしく自分が好きなように生きられる平和な環境があるんだなぁってこと」

「ときにはのんびりと、一休みしながら自分のペースで生きていいんだなってこと」


僕にとって居場所とは、
自分らしく一生懸命に何かに没頭できたり、
外部で負った傷を癒したり、
疲れた時に好きなだけゆったりのんびり休める場所。


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具体的に、やっていくことは大きく2つ。
共通するのは「直接的に人と関わっていく」領域で輝いていきたいということ。


◆ コーチング [1対1]
(人生のストーリーに入りこみ、お互いの心に残るような関わり合いがしたい)

⋯⋯自分の存在そのものがみんなにとって居場所に。

1対1での対話を通して、その人にとって人生の1ページになれるようにサポートをし、一緒に歩みたい。
その人が抱えているよりコアな部分に、自分の持ってる繊細さと優しさで丁寧に関わっていきたい。



いつでも関われるとっつきやすい存在でいて、
少しでも自分のコーチングを受けてくれる人が

その人がなりうる最高な自分自身になったり、
心の中で願い望んでいることを見つけて、
その人自身が願っている人生に向かって歩んでいけるようにお手伝いできたら、最高に嬉しいなと思います。


◆ ワークキャンプ  [1対n]
(家族のような関わり合いから、お互いの人生が素敵に彩られたり、生きる環境そのものが良くなっていくような活動がしたい)

⋯⋯日常的な関わり合いから、関わる人どうしお互いの心を共有し、まるで家族のような関係から幸せの循環を生む。
自分のエネルギーとパッションを少しずつ周りに伝播していき、出会う人と関わる中で、みんなが自分らしく生きられる環境をつくり、少しずつ社会へと広げていく。
結果としてより良い社会・自分が創造したい社会の創造に向かっていけたらと思っています。

想いから共鳴し、自然に湧いてくる気持ちから
大切な人と一緒に何かをやる。
ご縁・運命で出会った人から、繋がっていく地域・社会の環境と接点を持ち、心が満たされる活動をしていたい。

人と人を繋ぎ、人と地を繋ぎ、人と社会を繋ぐ。

理想は、ワークキャンプ活動そのものが居心地の良い場であり、かつ、ワクワクを生む秘密基地のような空間。
そんなことを学生の延長で大人になっても楽しみながらやって、豊かに人生を謳歌していたいなぁっていうのが今の将来への気持ちです。

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僕の特徴として、何か幸せになれていない原因があるなら、その原因に直接的アプローチしたいんですね。

その人の心の中に何か問題やモヤモヤがあるなら、コーチングを通して、原因を探り、自覚してもらい、
ゆっくりありたい心の持ち方に変化を遂げるサポートをする。

環境に原因があるなら、ワークキャンプを通して、一緒に関わり合う中で、小さな動きでも良いから癒しや喜び・気づきを生むようなアクションをする。


今伝えられるレベル感はこんな感じです。


自分の中ではやっとのことでちょっぴり明確さが出てきて、方向性が見えてきたなぁと思うんですが、
考えてること・思ってることはこの1年で大して変わってないんですよね。
でも、色んな体験の蓄積があってほんのり言語化できるようになってきました。

とはいえ、まっだまだ抽象的なのも自覚しているので、
日々の取り組みから、より深めていきます。
何年もかかりそうですけど、ゆっくり見えてくるものを味わいたいと思います。


❏ まとめ ~この半年間で変わってきたこと・変わらなかったこと~

〈変わってきたこと〉
・「こんな自分でいなきゃ」「こういうキャラでいよう」
▷ ▷ ▷ 自分のキャラ作りとかいちいち考えることなく、ナチュラルな、素の自分でいられるように。

・人の正解の縛りの中でチャレンジ
(誰かがつくった正しさ・ルール・当たり前に固執する頑なな状態)
▷ ▷ ▷ 自分の好きなように、やりたいように。
自分のペースで、自分にしか見い出せない答えを柔軟に見つけていく。

・なにかに怯えて不安な状態
▷ ▷ ▷ ちょびっとだけ勇気を出し、自ら人生の舵を切ることに、喜びや楽しさを感じられるマインドに。

・ネガティブで、自己肯定感低くて、何もできない自分・嫌いな自分にばかり目を向け、知らず知らずのうちに自分のことを責める状態。
▷ ▷ ▷自分のことが好き。自分の良いところ・好きなところにたくさん目を向けて、明るくポジティブでいられるように。「自分には生きてる意味がある」「生きている価値がある」と無条件に受容し、自分で自分のことを承認できるように。
〈変わらなかったこと〉
自分の好きな人たちと好きなことをして、
自分が最も幸せを感じ、満たされる瞬間を求めて動いていきたいっていう、自分の全てのエネルギーの原動力。
持続性ある幸せを感じ求めて生きていきたいという想い。


誰かがつくった「こうするといい」の思想に知らぬ間に染まる。そして、 その思想に共感してしまうと、自分の頑固さも相まって、それが「絶対こうだよね」といつの間にか自分の考えのようにすり変わってしまい、人の正しさの思想から抜け出せなかった。
自分が心で本当に本当に望んでいることを拾えなかった。

「きれいな考え方に染まりやすい×柔軟性のない頑なな考え方」
は、本当に生きづらかったです。

一方で、ずっと変わらなかったことがあったことにも
気が付きました。

自分にとっては当たり前なことで、全然特別なことをしてるつもりはありませんでしたが、
でも、それがいつのまにか自然と望む生き方になっているなぁと感じています。


❏ さいごに


僕は休学する前からこの1年間くらい、ちょっとしたマイナスの感情に流されまくって生きていました。
こんなはずじゃないのになぁ、ってどこか思っていた。
本来はもっと好き勝手動いて、イチイチ悩んだりすることなく前を向いてるつもりでした。

でも、たとえそんな自分でいても、本当にイキイキしている自分ではなかったでしょう。
繕って、誤魔化していただけだった。

コアな自分は外に表現できないまま、無理して、我慢して、見合わないやり方で頑張っちゃうだけだったと思います。


殻にこもった「周りに合わせた普通の自分」でいるのではなく、やっぱり自分らしく生きたい。
自分らしい自然体な状態でいたい。

それがたとえ他者から否定されたり、人から何と言われようとも、「確固たるナチュラルな自分」で過ごしていたい。

今は純粋にそう思うんです。


かんたんには不安や恐れは拭えません。
でも勇気を出して、今の目の前のことに集中し、1歩踏み出してみること。

そんな中で自分が1番幸せを感じる
人と関わったり、人と深く繋がっていくことへの楽しさ・喜びを存分に感じていくこと。

・人と関わる喜びを感じたいのに、自意識に囚われる自分
・正解がないものを探究したいのに、正解に縛られる自分

人のことを恐れているけど、人のこと大好きなんです。
普通に染まることに安住して楽でいたいけど、
本当は自分で自分の人生を歩みたいんです。



誤魔化した偽りの自分ではなく、自分を解放した状態で。
自意識に囚われた状態ではなく、純粋に生きる楽しさを。

                                   .............

僕はずっと生きている中で違和感を感じていました。

心のモヤがいつもある感じ。

不安や傷つくのを恐れて、自分を出すことを恐れていました。だからこそ、自分を解放したい。強くなりたい。

そのモヤの正体が一体何なのか。
人の力を借りながら穴を掘って見つけ、それを認識し、言語化し、外に発信し、やっと人にさらけ出しても大丈夫かな、というところにまでなってきました。

わざわざ発信しなくてもいいかなとか思いつつも、
外に表現してみることで「破れる何か」があるような気がして。

       自分の人生に対して、自ら突き抜けていきたい。

素直な自分を出せていたら、どんどんサイクルが回せていたことでしょう。もしかしたら、今全然ちがうところで生活していて、全然想像もつかないようなことをしているかも知れません。

でも、こうやって自分を出せないで、望んでいるように進んでいかないのも自分だなぁと思っていて。
これこそが自分のペースなんだなと感じています。

これからも自分のペースで、ゆっくり、自分の好きなことをめいっぱい楽しんで生きていきます。
それが何よりも幸せなことなんだろうなと。


大学生の過ごし方も多様になってきました。
色んな道がある。明日で運命が変わってしまうことも全然ありえますよね?

自分には自分だけの進みたい道があって、
その道を切り開いていくためには、自分が編み出した進み方で、半歩ずつでも前進していくことが大切なんだなと気づきました。

人のやり方がチラついて、自分もそうやろうとするんですが、そうやったら自分のオリジナリティが失われる。
その苦しさに葛藤してきた。

自分のペースでぼちぼちゆっくり。

早く答えを手に入れたいという衝動にかられるんですが、回り道して、遠回り遠回りな生き方が自分に1番ピタッとハマるような気がします。
(たまに現実と照らし合わせて早く進んでみることもしてみながら。)


            「本当はこうでありたい」という理想と
   現実でそうあれない自分との狭間で巻き起こる葛藤。

葛藤し続けることで、葛藤への対処法を知り、少しずつ強くなって、無理して肩肘張らず、だんだんと本来持っているナチュラルな状態に近づいてきました。

今思うと、それまでの道のりが不安定なのも当たり前だし、それは本当の意味で現実の自分と向き合っている何よりの証拠だったんだと、
これまでの道のりにちょぴり誇りをもてています。

まだ完全にニュートラルな状態になったわけでは無いので、この葛藤はこれからも続いていくと思いますが、
今この瞬間にできることが見えているなら足をとめず、
1ミリずつでもいいから乗り越えていきたいです。

これから、もっともっと自分の可能性を信じて歩んでいきます。この先に待ち望んでる喜びも、大きな壁も、
全てに謙虚さを持って、全てを味わいながら、
楽しむ気持ちで進んでいきます。

                                 .................

これが今の自分の書ける素直さ100%の文章です。
読んでくださった方、いつもお世話になっている方、
何かしらの形で関わり、恩恵を与けてくださる方。

僕は人のことが大好きな分、実はそれぞれの人のことをかなり覚えています。
思い出に残っている瞬間は大切に脳に蓄積しています。

この場を借りて、いつも本当にありがとうございます。


少しずつ進んでいく自分の成長を、
これからも温かく見守ってくださると大変嬉しいです。


それぞれ目の前のことでお忙しいところ、
長く、拙い文章を最後まで読んでくださり、
ありがとうございました。

みなさん、こんな僕ですが、
今後ともよろしくお願いいたします ☻

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