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BRICS時代の選択: サラリーマン駐在員子息としてのブラジルの再訪

こんにちは。@tsukasahiranoです。

私の最も古い記憶は、ブラジルにあります。3歳から7歳の時に、父の転勤でサンパウロに住んでいたためです。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものです。もしもこの経験がなければ、移住先にブラジルという国を選ぶことはなかったでしょう。

ある国にいざ住もうとしてみるときに、実際にその国を訪ねて自分の目で見たか、というのは、判断する上で重要です。やはり人に聞いた話や想像だけでは、そこに旅行に行くか行かないかならまだしも、移住までの判断には至りません。もしも自分に、より多くの国に滞在した経験があれば、ブラジルではない国を選んでいたのかもしれません。

ブラジルに旅行でやってきてハマって、その後に住み着いてしまう人がたまにいますが、これも実際に見た結果での選択なのだから、その人の気持ちはよく分かるのです。

しかし、そもそも海外移住を考えなければ、自分はブラジルにやってくるどころか、日本すら出ていなかったのです。それを考えることになったきっかけは、次のようなものでした。


日本の教育100%

幼くして父のブラジル転勤に家族として帯同した後、6歳になる頃に日本に帰国。26歳になるまでの約20年間は、日本で暮らしました。

埼玉県に住み、小学校を卒業後、東京都内の中学校・高校・大学と進学し、就職も決めました。2000年卒なので、就職氷河期の真っ只中もいいところです。

日本で暮らす間、自分がかつてブラジルに住んでいたことを思い出すことがなかったわけではありません。しかし、だからといってブラジルを特別に意識しながら暮らしていたわけでもありませんでした。

元気と時間が有り余っていた中学・高校生時代は、学校が休みになる度に、JRの学割の切符を買い求めて、日本国内を歩き回りました。大学時代には、埼玉から北海道まで自転車で、鍋・釜にテントを担いで旅行しました。その時に、自らの意志で海外を出歩いて見てみることはしませんでした。

就職活動の時も、面接で自分の略歴を語るときに「幼い頃にブラジルに住んでいた」という自己紹介をした記憶はありません。それほどまでに、「純・日本育ち」の人間になっていました。

大人になって再び訪ねた、光り輝くブラジル

就職活動を始めた理由も、単に周りがそうするからという安易な考えでした。大学を出たら、当然どこかの会社には就職するものだ、という考えを持っていました。

繰り返しますが、超氷河期と言われていた2000年のことです。折しもITバブルの真っ只中。経済学部の学生でしたが、システムエンジニアに憧れ、IT関連企業を片っ端から受けていました。

数社から内定を得てひと息ついていた頃、父が2度目のブラジル勤務の命を受け、再度赴任しました。そこで大学の卒業旅行という名目で、父をサンパウロに訪ねてみました。

2001年2月。真冬の日本から飛んで行った15年ぶりのサンパウロは夏真っ盛りで、目に入るもの全てが、色鮮やかに輝いて見えました。

そして、自分もそこに昔、確かに住んでいたのだなということも実感しました。

ブラジルで仲良くしていた両親の知人らと会ったり、記憶にうっすら残っていた場所に行くたびに、ブラジルに住んでいた記憶が、単なるフワフワとした思い出としてではなく、もうちょっとはっきりとしたリアルな人生の一部だったことに気付きました。

キャリアとBRICsの重なりが見えた

同時に、サラリーマン駐在員として2度にわたりブラジルで仕事をすることになった父のキャリアを、これから社会人になる自分に重ねて見つめることにもなりました。

そしてブラジルという国自体も、80年代~90年代前半のハイパーインフレを乗り越えて経済が安定し、再び日本企業の目が向かおうかとしていたところでした。BRICsという言葉が生まれたのも、この少し後の2003年のことだったようです。

折しも、会社でのキャリアの一歩を踏み始めるその直前にブラジルの土を踏んでしまったことで、頭の片隅のどこかで、常にその体験を大事にしている感覚がありました。

将来の可能性を秘めたブラジルという国を、仕事や生活のフィールドにする ── おぼろげながらも、それをイメージするようになっていきました。

それは実際に日本での会社生活を始めてみて、より具体的な道として見えてくることになります。

次回は、日本での会社生活で考えていたことを記してみます。

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