見出し画像

はみ出してでも、生き抜く。

私に普通の人と同じ道を歩むことは、今でも誰かに許されていないのかもしれない。


例えば今、この記事を書いている人間が左利きであるとしたら、どういうイメージを思い描くだろうか。

近年における脳科学での研究では、直感力に優れているとか感受性が豊かであるなどと、様々な事例が明らかにされてきている。

元から左利きでも親をはじめとした方に半ば矯正されてきた一昔前と比べ、ある種「注目の的」なるものとなって、周囲の見方や考え方はいくらか緩和されてきたと思う。


しかし特定のところでは、その独特ある思考回路や読解力から、普通の人よりもある意味で「変わっている」と揶揄されているかもしれない。

ほとんどの人にとっては共感しにくい価値観を持つことから、ひょっとしたら変人呼ばわりされることもあるかもしれない。

おまけに言葉で会話したりわかりやすく纏めたりすること自体についても、人一倍苦手とされるデータが浮上しているらしい。

それが仮に事実であれば、時折相手にとっても自分にとっても、何を伝えようとしているのかわからなくなる事態に遭遇することもあるだろう。

まるでこれまで引かれてあったレールが途切れ、乗っていたトロッコもろとも奈落の底に突き落とされるように、突然言葉を失ってしまう場面がー。


故に私は、昔から自分が左利きであることに悩まされ続けてきた。そして今も時々、ふとしたことで苛まれることがある。

10代の頃それぞれの学校で共に過ごしてきた同級生の中で、自分と同じ左利きだった人間は多くはない。割合でいえば1クラスおよそ30〜40人いるうち、1人か2人しかないというところである。

実際問題ほとんど右利きの者しかいない空間では、自分の意見を受け入れてくたり共感してくれる人はなかなかいないものだった。

そのたびに人と肩を並べられるように懸命な努力をしてきた。だが結局、何一つ足並みを揃えられることはなかった。

頑張り過ぎて一歩先に踏み出てしまったか、もしくは頑張る方向を間違えたあげく周回遅れにされているか…いや、どちらかと言えば常に後者に回る方が多かったと思う。

しまいには「自分は人と比べて劣っている」とさげすむようになり、気がついた頃には自らの意思を持たなくなってしまうのだった。

「自分は始めから人とは異なった道を歩んでいた」という自己暗示が根強く残ってしまい、自信が弱者だということに対して卑屈に走ってばかりいたのである。


これを長い間病的なものとして患っていたら、やがて人生を諦める形で自ら命を絶っていたかもしれない。なのに今も、のうのうとしながら生き永らえている。

それはたぶん、自分自身が抱えている弱さについて「諦める」ことや「開き直る」でもなく「受け入れる」ことを、とっさに選んだのだと思う。

きっかけはいくつかあるにせよ、例えとして一ジャンルの音楽に影響を受けたり、一人の偉人の言葉に感化されたりと、その場でたった一つだけを明確にして挙げるには少々難しい。

ただその一方で、錯綜し続ける日々の積み重ねによって今日こんにちまで生かされていることも事実である。

これまで何度も地獄のような絶望感に浸っていたり、幻滅させられるような経験を無理矢理されてきた。おそらくこれからも、同じようなあるいはそれ以上に険しい困難に、何度も立たされることになるだろう。

自分の半生が周囲の人間より普通じゃないものであれ、価値観も考え方も共感を得ることがないにしろ、何より捻れた意志でもって貫き通すことに変わりはない。

これまでとこれからも茨の道を突き進むことになろうとしても、私は何者でもなく何者にもなれない私でいる限り、世のことわりを一歩はみ出してこの世を生き抜く。

最後までお読みいただきありがとうございました。 またお会いできる日を楽しみにしています!