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最初で最後の花火に

7月某日、地元では4年ぶりに夏祭りが開催された。コロナ禍での自粛期間からようやく解放されたこともあり、駅前の道路はあちらこちらで久々に姿を現した屋台や露店と練り歩く人の群れに埋め尽くされ、これまで溜まりに溜まっていた何かから解き放たれるように、以前までの活気を取り戻していた。

そして今年も花火大会がおこなわれた。それだけは幸いなことに昨年から再開されていて、スターマインや水中花火にフィナーレを飾るナイアガラまで、多彩な花火が一瞬にして形づくり、夏の地元の夜空を鮮やかに彩っていた。

私の実家はとあるマンションの4階部分にあり、西向きのベランダから花火を眺めることができる。両親は毎年この季節になると、そこから眺めていたのであった。
特に母は花火を見るたび、私が生まれくる頃に病院の一室から、美しく咲き誇るような数々の刹那を眺めていたことを思い出している。
そして、見終わったその日の日付が差し変わる前にあなたは生まれてきたんだよと、私繰り返すように語っていた。

20代の頃に東京に移り住んだ私自身も、こうして実家から眺める花火は数年ぶりのこととなった。ただ、昔みたいに無邪気な子供だった頃のままでいられたら、現在も純粋に楽しむことができただろう。

今はそこから見上げて出てくる感動というものが、人と比べて乾き過ぎて底から湧いてこない。
とある出来事をきっかけに、花火そのものが「綺麗」なものではなく、「儚い」ものとして記憶の奥底に刻まれてから、いくら近くからあるいは遠くから眺めても真っ直ぐな感情がオモテに出てこなくなってしまったのだ。

この夏祭りに自ら足を運ぶ機会もなくなってしまった。悪友をはじめとする友人たちは地元に残っていないし、大半の同級生たちとは学校を卒業して以来、連絡を取り合うこともなくなっている。
きっと皆、恋人と一緒にいるどころか既に結婚して家族と共に過ごして、今頃は夏祭りを楽しんでは会場近くから花火を眺めているに違いない。

無論、私には結婚どころか恋人という大事な相手もいない。そんな中で一人、夏祭りに出かけたところで純粋に楽しめる確証もない。そもそも、単独で人混みに埋もれてこようだなんて思わない。

いつか大事な人と一緒に手を繋いで花火を眺めることができたら…、という宙に浮きっぱなしにしていた希望的観測は、どこかに置き去りにしてきてしまったらしい。

夜空の向こうに彩緑鮮やかに輝き放つ花火を横目に、私は頬杖をつきながら無心のまま一人窓越しに眺めていた。
やがて最後の花火があがったら何かが変わるのだろうかと、フジファブリックの「若者のすべて」が不意に頭の中に流れ込んできた。

結局今年の夏も私はそれらしいことをせずに、8月31日という終わりを迎えようとしている。
9月を過ぎても、まだ厳しい暑さはまだ続くだろう。東京での暑さも大概だが、数年ぶりに地元で過ごした夏の暑さも、相変わらずのものだったと実感している。

来年は、来年の夏は、いったいどうなっているのだろうか…。

今年見た最初で最後の花火が心に刻まれるように、記憶の片隅に降ろされることなく今も鳴り響いている。

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