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政治講座ⅴ1377「習近平の生い立ちと権力欲」

「知彼知己者百戦不殆」は孫子の兵法である。そこで、中国共産党の指導者の習近平の生い立ちからプロファイルを見てみよう。今回はその報道記事を紹介する。
蛇足:交流サイト(SNS)最大手、米フェイスブック(Facebook)は18日、盛んに喧伝(けんでん)されている中国の習近平(Xi Jinping)国家主席のミャンマー訪問中、ビルマ語から英語への翻訳で習主席の名前が「Mr Shithole(ミスター・シットホール=ミスター・くその穴)」と誤訳されていた。「中国の国家主席、Mr Shitholeが午後4時に到着」と発表され、続いて「中国の国家主席、Mr Shitholeが下院の芳名帳に記帳した」と投稿された。フェイスブック上でビルマ語から英語に訳された際の誤訳の原因となった技術的問題を解決したとされたが、これはAIが悪いのか、翻訳のアルゴリズムと言うプログラムを作ったプログラマーが悪いのか。
何にせよ、忖度しないAIだから成せる業であろうか。人間なら例の如く粛清されるであろう。多分、このアルゴリズムを作ったプログラマーは粛清されたのであろう。嗚呼!怖いな!

     皇紀2683年9月21日
     さいたま市桜区
     政治研究者 田村 司

父は16年間の投獄、姉は餓死…文化大革命で苦痛を味わった“習近平”がそれでも“毛沢東”の背中を追う異常な理由

『ラストエンペラー習近平』より #1

エドワード・ルトワック 2021/09/ 文春新書

 独裁体制の傾向を強め、他国に対する強硬な外交体制「チャイナ4.0」を推し進める“皇帝”習近平。同氏は中国建国に貢献し、国務院副総理(副首相)習中勲を父に持っていたため、毛沢東による文化大革命の際には、“党の子ども”として苛烈な経験をした。それにもかかわらず、現在の習近平は毛沢東を尊敬するよう中国国民に求めている。果たして習近平の本心とは。

 ここでは国際政治学者のエドワード・ルトワック氏による『ラストエンペラー習近平』(文春新書)の一部を抜粋。習近平が先導する中国の政治システムの実態について紹介する。

過酷な文革体験

 中国が「チャイナ4.0」という最悪の戦略に回帰してしまった大きな要因のひとつは、「皇帝」である習近平のパーソナリティに求められるだろう。そこで習近平の経歴を少し詳しくみていきたい。彼の前半生は苛烈なものだった。それはまず、「革命の英雄」を父に持ち、その父が激しい権力争いのなかで残酷な迫害を受けたことに始まる。

 習近平の父、習仲勲(しゅうちゅうくん)は中国の中央部にある陝西(せんせい)省に生まれ、10代で共産党組織に身を投じた。
陝甘辺区(せんかんへんく)ソビエト政府で主席となったのはわずか21歳のときだった。
当時、中国共産党は国民党軍から逃げるために、1万2000キロ以上にも及ぶ大移動をおこなっていた。この「長征」のなかで主導権を握ったのが毛沢東である。10万人の兵力を数千人にすり減らすような過酷な逃避行だったが、この「長征」の最終目的地となったのが陝西省だった。そこでは若き習仲勲らが共産党の根拠地を死守していたからだ。
共産党政府は同省の延安を臨時首都とした。もし習仲勲らの根拠地が潰されていたら、いまの中華人民共和国は存在しなかったかもしれない。
中国建国後、習仲勲は国務院副総理(副首相)などの要職に就いた。彼ら中央指導者は多忙を極めていたため、子弟のために全寮制の幼稚園や小学校をつくった。1953年生まれの習近平も姉や弟とともに、そうした全寮制の学校で育てられたのである。いわば彼らは「党の子どもたち」だった。

 ところが1962年、父・習仲勲は反党的な小説の出版に関わったという嫌疑をかけられ、全ての要職を奪われてしまう。それから習仲勲は1978年まで16年間も投獄や拘束といった迫害を受け続けたのである。母親の斉心も革命運動に参加、八路軍でも兵士として戦ったが、文化大革命では公の場で批判を浴びせられ、暴力もふるわれた。

 文革の嵐は、当時、中学生だった習近平をも襲った。紅衛兵によって生家を破壊され、十数回も批判闘争大会に引き出されて、あげくに反動学生として4回も投獄されてしまったのだ。そのため、中学から先は正式な教育を受けられなかった(のちに推薦制度により、清華大学に無試験で入学)。さらには陝西省の寒村に下放(青少年を地方に送り出し、労働を体験させること)され、黄土を掘りぬいた洞窟に寝泊まりさせられるなどの苦難を味わっている。

 姉は文革中に餓死したと伝えられるが、妹も下放され、素手でレンガをつくる作業を強制され、食うや食わずの生活を経験している。

 重要なのは、これらはすべて、「毛沢東の党」によって行われてきたということだ。そもそも文化大革命自体、毛沢東が他の共産党のリーダーたちを潰すために行ったのであり、実際に中国共産党は「毛沢東の党」となった。それが中国全体にとって巨大な災厄をもたらしたことは言うまでもない。

「毛沢東チルドレン」として

 ところが、習近平は、その毛沢東を、「偉大なリーダー」として国民に尊敬するよう求めているのだ。米中間の衝突が激しくなったここ数年間に、習近平は「毛沢東の演説や著作を研究せよ」と指示し、ことに『持久戦論』などをよく読めと奨励している。これは毛沢東が劣勢な中国共産党が旧日本帝国にどうしたら勝てるかを説いたものであった。2016年の全国人民代表大会(全人代)では、チベット自治区の代表が胸に「習近平バッジ」をつけていたことが、「毛沢東以来の個人崇拝の復活」と話題を呼んだ。また文化大革命についても、習近平は「改革開放の30年によってその前の30年を否定しない」と発言しており、近年の歴史教科書からも文革を批判する文言が姿を消している

 そして習近平は、これまで江沢民(こうたくみん)や胡錦濤(こきんとう)の行ってきた少数のトップ幹部による集団指導体制を脱し、自分ひとりに権力を集中させ、死ぬまでその椅子に座り続ける「皇帝」になろうとしている。そのモデルが毛沢東なのだ。習近平が目指しているのは毛沢東との一体化であり、ある意味では実際の毛沢東以上に、より完璧な毛沢東になろうとしているのである。

 毛沢東は習近平の家族に過酷な運命を強いた人物であり、習近平自身も非情な扱いをされている。それなのに、なぜ毛沢東との一体化を目指すのだろうか

 多くの幼児虐待の専門家が認めていることだが、外部の人間が、子どもが虐待を受けていることに気づいても、その子ども本人が虐待をしている親の元に留まりたいと思うケースは少なくない。

 そうした子どもたちは、自分が間違っているから親に𠮟られているのだ、と考え、今よりももっといい子になろう、親の言うことに従い、「正しい行い」をすることで許しを得よう、と考えてしまうのである。

虐待された父を追う毛沢東チルドレン

 習近平のケースは、まさにこれに当てはまる。彼にとって毛沢東こそが「虐待する父」なのだ。

 これは習近平だけではない。たとえば習近平のライバルとされ、後に汚職とスキャンダルで失脚した薄熙来(はくきらい[元重慶市党委員会書記])だ。彼の父、薄一波(はくいっぱ)も国務院副総理を務めた中共八大元老(編集部注:1980年代から90年代にかけて党の最高指導部を凌ぐ権威を持っていた集団)の一人だったが、やはり文革で失脚、母は自殺し、自身も中学卒業後に5年近い監獄生活を送っている。それにもかかわらず、薄熙来は、革命歌を歌わせたり、「腐敗幹部」狩りを行ったりするなど、文革を彷彿とさせる大衆動員の手法で、重慶に「王国」を築き上げたのである。

 習近平も薄熙来も「父なる毛沢東=共産党」に許され、幹部への道を進んだ。虐待された父から、お前の態度は正しいと認められたのである。それが彼ら“毛沢東チルドレン”の「毛沢東が行っていた以上に、毛沢東的な政治を目指そう」という行動となってあらわれているのだ。

漢民族への同化を強いる民族政策

 そうした習近平の性格を端的にあらわしている一例が、前にも触れた理不尽な民族政策である。たしかに毛沢東の時代にも、民族弾圧は行われた。特にチベット、モンゴルなどでは指導者たちを中心に、多くの人が命を失ってもいる(文革では多くの漢民族も迫害され命を落とした)。しかし、いま習近平は、チベット人、モンゴル人、ウイグル人というアイデンティティを完全に剥奪し、漢民族に同化させようとしている。これは毛沢東さえやらなかったことだ。

 たとえば毛沢東はウイグル人たちがウイグル語を話すことを禁じようとはしていない。チベットにしても、寺院は徹底的に破壊されたが、その住民を漢民族にしてしまおう、とは考えていなかった。それは彼がスターリンの民族理論を下敷きにしていたからだ。ソ連では、ロシア革命に際して諸民族の指導者たちが大きな貢献をしたこともあり、共和国や自治区といった形で、民族のアイデンティティは尊重する、しかしその上に共産党がありソ連政府がある、といった統治を行っていた。つまり、中身が共産主義なら、器はそれぞれの民族のままでよい、というわけだ

毛沢東より極端な政策

 だが現在の習近平の共産党は、ウイグル、モンゴルなどに大量の漢民族を送り込み、漢民族の土地にしてしまおうとしている。さらには遊牧民的な生活を完全につくりかえ、中国の産業に貢献するような人間に仕立て上げるのだ。ウイグル語やモンゴル語の教育を禁止することは、民族の根を断つことである。そして、それに従わないと北京が判断したウイグルの人々は、片っ端から収容所に送り込んでいるのだ。そこまでのことは、文革期の毛沢東でも行わなかった。まさに習近平は、毛沢東よりも極端に毛沢東主義的な政策を行おうとしているのである。

 そう考えると、私が「チャイナ4.0」と呼ぶ、極端な対外強硬路線も理解できるだろう。中国は今、習近平という非常に破壊的な人格を持つリーダーによって、政策が決定されているのである。

 民族問題について私から習近平にアドバイスがあるとしたら、それは、「中国東北部に人を派遣して、満州族を探してくる」というものだ。ウイグル、モンゴル、チベットを帝国のメンバーに組み入れたのは、清をつくった満州族だったからだ。漢民族がこれらの地域をうまく支配できたことなどない。だから漢民族への同化しか思いつかない習近平は失敗し続けているのである。


独裁者は不安で危うい存在

 そうした習近平の破壊的な行動は、彼が独裁体制を強化するにつれて、より極端になっている。それは二つの次元で進行している。

 ひとつはシンプルに、誰も習近平のやることに反対できない、ということだ。こちらのほうはわかりやすい。習近平に異を唱える人物はいなくなるか、いつ排除されるかわからないという恐怖で沈黙させられているのだ。

 もうひとつは、独裁体制というものは実はきわめて不安定なシステムであり、独裁者とは不安で危うい存在だということだ。

 私が習近平に対して、人間として哀れみを感じるのは、彼がいかに強力な独裁者であっても、毎晩、眠りについたあと、翌朝、無事に起きられるという保証のない状態に置かれ続けているという点だ。彼は誰かを怒らせるか、逃げ場のないほど恐怖させてしまい、夜に暗殺者を送りこまれるかもしれない。「臣下たち」が結託し、いきなり拘束されて罪の自白を強制されるという可能性もある。


独裁という弱い権力システム

 またこれは中国の政治システムの脆弱性にもつながっている。中国は共産党による一見、盤石な権力体制を築いてきた。しかし、その最大の脆弱性が、習近平による独裁であり、特に死ぬまで権力の座に居続けられるとした憲法改正なのだ。つまり、習近平に不測の事態があったとき、いまの中国はそれに対応できないということである。

 アメリカならば、仮にバイデンが急に体調を崩し、執務できなくなっても、ほとんど何の問題もない。カマラ・ハリス以下、大統領を代行する順序が18番目まで決まっているからだ。さらにいえば、アメリカで最終的に政治の方向を決めるのは国民であり、重大な事態が起きても選挙でその意思を問えばいいのである。これは日本など他の民主制の国でもいえることだ。

 しかも習近平は自らの後継者候補を明らかにしていない。これも当然で、していないというより、できないのだ。なぜなら後継者を決めた時点で、人々の忠誠は「皇帝」と「後継者」に分散してしまい極端な独裁制が揺らいでしまうからである。

 その意味で、独裁制は「弱い」権力システムだといえる。権力が集中すればするほど、独裁者の失敗や、その決断に対する違和感は、大きな「ノイズ」となって、支配の根拠を動揺させる。そうした「ノイズ」を取り除くために、独裁者はますます自分に権力を集中させ、異分子を徹底的に排除しなければならない。今、習近平がやっていることは、それである。それは彼の支配を強めると同時に、崩壊の危険性を高めているのである。

習近平の経歴

1953年6月15日、北京市に生まれる。
1965年、中学校である北京市八一学校に入学したが、
1966年5月の文化大革命の発生により学校が解散された。
この事により習の学校教育が中断された。
習は世界最強の囲碁棋士の1人に数えられる聶衛平と北京25中学からの友人で、聶によれば中国人民解放軍の劉衛平少将との3人で「北京25中学の三平」と呼ばれていたとされる。八大元老でもあった父の習仲勲が迫害された文化大革命において反動学生として批判された。
紅衛兵によって十数回も批判闘争大会に引き出され、4度も監獄に放り込まれた。

1969年1月から7年間陝西省延安市延川県に下放される中、1974年1月に中国共産党に入党した。下放された同地で生産大隊の党支部書記を務めている。
1975年、時は文化大革命の期間中で全国普通高等学校招生入学考試が中断しており、中学1年以降に正式な教育を受けていない。しかし、「工農兵学員」という模範的な労働者・農民・兵士(個人の政治身分)の推薦入学制度を経て、国家重点大学の清華大学化学工程部に無試験で入学し、有機合成化学を学んだ。
1979年4月に同大学を卒業した後、国務院弁公庁及び中央軍事委員会弁公庁において、副総理及び中央軍事委員会常務委員の耿飈の秘書をかけ持ちで務めた。
1985年にアメリカ合衆国を視察で訪問し、当時のアイオワ州知事で後に駐中国大使のテリー・ブランスタッドと親交を結んでホームステイをした。
1998年から2002年にかけて、清華大学の人文社会科学院大学院課程に在籍し、法学博士の学位を得た。しかし、海外の複数メディアから、論文の代筆の疑惑が報じられている。
廈門副市長、福州市党委員会書記を経て、2000年に福建省長となった。
2002年11月、張徳江に代わって49歳で浙江省の党委員会書記に就任し、この時期に浙江省軍区党委員会第一書記、南京軍区国防動員委員会副主任、浙江省国防動員委員会主任を兼任した。
2006年9月、上海市で大規模な汚職事件が発覚し、当時の市党委員会書記の陳良宇が罷免された。
翌年の2007年3月24日、書記代理を務めていた上海の韓正市長に代わって上海市党委員会書記に就任した。これにより、第17期の党中央政治局入りは確実とみられた。
同年10月の第17期党中央委員会第1回全体会議(第17期1中全会)において、一気に中央政治局常務委員にまで昇格するという「2階級特進」を果たし、中央書記処常務書記、中央党校校長に任命された。上海市党委員会書記は兪正声が引き継いだ。中央党校校長時代は「幹部は歴史を学べ。世界四大文明の中で中華文明だけが中断せずに今日まで続いている」と述べた。後年にエジプト・イラク・インドなどを集めた「世界古代文明フォーラム」の共同設立を唱える習の歴史観や思想戦略が既に形成されていたとされる。

中国共産党第17期政治局常務委員には、胡錦濤直系である共青団出身の李克強も習と同じ第5世代の中核として選出され、習と李のいずれかがポスト胡錦濤となると見られたが、習が李よりも党内序列が上であり、胡自身も党総書記就任までの2期10年を中央書記処書記として経験を積んだことを考えると、習がポスト胡錦濤に一番近い存在であった。
習はかつて中央軍事委員会弁公庁秘書や南京軍区国防動員委員会副主任などを務めており、第17期政治局常務委員で唯一国防文官の経歴を有する人物であった。
この事は習と軍部との結びつきを強める一因ともなった。

日本訪問

2008年3月15日、第11期全国人民代表大会第1回会議で国家副主席に選出された。2009年12月には国家副主席として日本を訪れ、環境に優れた先進技術施設として安川電機の産業用ロボット工場を視察した際に経営陣から伝えられた創業者の安川敬一郎と孫文ゆかりの逸話に感銘を受けて「とても感動した、我々はこの日中友好の伝統を受け継いで発揚するべきだ」と発言して中国の公用車である紅旗の組立用に作られたロボットの披露に拍手を送った。
一方で訪日の際に起きた天皇特例会見の問題は鳩山由紀夫内閣時代の日本で論争を巻き起こした。

軍事委員会副主席

2010年10月18日に習近平は第17期5中全会で党中央軍事委員会副主席に選出された。党中央軍事委員会は共産党が国家を領導するという中国の政治構造上として、事実上の最高軍事指導機関である。副主席として党中央軍事委員会に入ったことで、習は胡の後継になることが事実上確定した。さらに同月28日、全国人民代表大会常務委員会の決定によって国家中央軍事委員会副主席に就任した。しかし、習が党中央軍事委員会副主席の地位を獲得するまでには紆余曲折があった。2009年9月の第17期4中全会で党中央軍事委員会副主席に選出されるという見方があったが、結局選出されなかった。その理由として、背後で胡直系の共青団出身の李克強を推そうとする勢力と、江沢民系の上海閥(上海幇)と呼ばれる勢力との間に生じた権力闘争が原因だとする見方があった。
これによると、習は上海閥の流れを汲む人物であり、共青団系の勢力が躍進している現在においては党内基盤が弱くなっているというものだった。しかし、江沢民だけで無く、共青団系で最長老の1人である宋平も習の強力な後ろ盾になったとされる。
結局、2010年10月の第17期5中全会で習は党中央軍事委員会副主席に選出され、胡の後継者としての地位を確立した。
これは各派閥の妥協の結果とされ、特定の派閥というよりは軍部の強い支持を受けてのものとされる。
習を支える陝西閥(陝西幇)、陝軍、之江新軍などの習近平派は後に台頭することになる。

党総書記・最高指導者

2012年11月の第18回全国代表大会を以て胡錦濤・温家宝ら第4世代の指導者は引退し、11月15日に開催された第18期1中全会において習近平は党中央政治局常務委員に再選され、党の最高職である中央委員会総書記と軍の統帥権を握る党中央軍事委員会主席に選出された。
習近平の総書記就任には台湾の馬英九総統が国民党主席の名義で異例の祝電を打っている。
2013年3月14日、第12期全人代第1回会議において国家主席・国家中央軍事委員会主席に選出され、党・国家・軍の三権を正式に掌握した。翌日、李克強を国務院総理(首相)に任命し、中国共産党の第5世代である習・李体制を本格的に始動させた。

2014年1月24日に開催された党中央政治局会議において、中国共産党中央国家安全委員会の設置と習の同委員会主席就任が決定された。この組織は国家安全に関する党の政策決定と調整を行い、国内の治安対策も掌握する。そのため、党中央国家安全委員会は外交・安全保障・警察・情報部門を統合する巨大組織となり、同委員会主席を兼任した習に権力が一層集中することとなる。一方、李克強が主導する中華人民共和国国務院の影響力低下の指摘もある。

2017年10月の第19回全国代表大会と第19期1中全会では、第6世代から政治局常務委員を選ばず、より自らに権力が集中した2期目の習李体制を発足させ、党規約的には「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」(習近平思想)を明記させており、個人の名を冠した思想は毛沢東・鄧小平以来とされる。習政権では企業に共産党組織を設置する「党建」を推し進めて企業への統制を強めており、2017年時点で党組織は国営企業に9割で民営企業でも5割超に達し、外国企業の7割にも党組織が設立されており、3時間21分に及んだ第19回党大会での演説でも「党政軍民学、東西南北中、党に全てを領導させる」と述べてさらなる統制強化を示唆している。
また、この発言の「党領導一切(中国語版)」の他、習が唱えてきた一帯一路中国の夢人類運命共同体四つの全面・四つの意識(中国語版)や「強国」・「強軍」といったフレーズなども党規約に盛り込まれた。

2018年3月11日、全国人民代表大会は国家主席と国家副主席の任期を2期10年とする制限を撤廃し、習近平思想を盛り込む憲法改正案を賛成2958票・反対2票で成立させた。この憲法改正案をめぐっては中国国内外で波紋を呼び、中華民国大総統から中華帝国皇帝に即位した袁世凱・洪憲(袁世凱の定めた元号)・張勲復辟(張勲が清の廃帝である愛新覚羅溥儀を復位させた事件)・登基(皇帝即位の意)・倒車・(時代への逆行の意)などといった言葉が中国ではグレート・ファイアウォールで規制された。17日、習近平は国家主席に全会一致で再選され、定年で党政治局常務委員を退いていた盟友の王岐山も反対は1票のみで国家副主席に選ばれ、共に任期は無制限となった習国家主席(総書記)による「習近平核心体制(中国語版)」(習終身体制)が事実上確立したとする見方もある。

2013年3月17日の第12期全人代第1回会議の閉会式において習は国家主席として就任演説を行い、「中華民族は5千年を超える悠久の歴史を持ち、中華文明は人類に不滅の貢献をしてきた」・「中華民族の偉大なる復興という中国の夢を実現するため引き続き奮闘、努力しなければならない」と述べてナショナリズムを鮮明にし、外交政策においてはヨーロッパまで及ぶ広大なシルクロードを勢力下に置き、鄭和の艦隊がアフリカの角にまで進出したかつての中国の栄光を取り戻すという意味を込めて巨大な経済圏構想である「シルクロード経済ベルトと21世紀海洋シルクロード」(一帯一路)を打ち出した。

習は第18期として初の党中央政治局会議を主宰し、胡錦濤前指導部のスローガンであった「『小康社会』(いくらかゆとりのある社会)の建設」を全面的推進を確認して、前指導部の路線継承を示した。同日、中央軍事委員会拡大会議に出席した習は、軍に対し「軍事闘争の準備が最も重要という立場を堅持し、国家主権、安全、発展の利益を断固守らなければならない」と強調した。

習が党中央軍事委員会副主席に就任して以降の中国は北朝鮮の核開発を批判しなくなるなど、中国の外交に明らかな変化が現れたとされる。例えば、胡錦濤政権において国務院総理(首相)を務める温家宝は、様々な外交問題で保守派から「弱腰」と批判されたり、政治改革の断行を訴えたことなどで党内で温は孤立してしまっていると言う。温自身、2010年11月中旬にマカオを訪問した際、任期を半期残した段階で自身の引退について述べており、「権力闘争に敗れ、意気消沈していることの現れである」とする香港紙もある。また、習が副主席に就任して以降は、北朝鮮のような独裁国家を擁護したり、豊富な資源を有する発展途上国と「国益」と言う観点から結びつきを強めているとされる。副主席就任後に北朝鮮を初の外遊先に選んで金正日と会談するなど習は当時の北朝鮮の金正日政権とは一定の関係を築いたものの、金正恩体制からは張成沢の粛清と党総書記就任後の習の韓国訪問に始まり、国連の対北経済制裁決議で米中は一致し、訪中した崔竜海の冷遇と対照的な韓国の大統領朴槿恵の厚遇や訪朝した劉雲山の映像削除など中朝関係の冷却化が伝えられた一方で中朝友好協力相互援助条約による軍事同盟や経済的には北朝鮮が貿易の9割超も中国に依存する関係を続け、
2018年3月に最高指導者就任後初の外遊で訪中を「当然の崇高な義務」と表明した金正恩と初対面してからは「きみ」(你)「あなた」(您)と呼び合い、同年6月に行われた史上初の米朝首脳会談の際は移動用に政府専用機を金正恩に貸し、習の誕生日に中朝の血盟を強調する祝賀をおくった金正恩は翌2019年の自らの誕生日まで4度も中国を訪問し、同年6月に中国の指導者としては14年ぶりに訪朝した習に殆ど同行して習の顔を描いたマスゲームで歓待するなど友好ぶりをアピールした。

2019年3月にこの年で最初の外遊先にイタリアを選び、コリエーレ・デラ・セラへの寄稿でローマ帝国とのシルクロードや北京(大都)でクビライに謁見したマルコ・ポーロなどを引き合いにイタリアとの歴史的な繋がりを強調し、イタリアは先進7カ国(G7)で初めて習の唱える「一帯一路」に協力する覚書を締結する国となった。しかし中国「一帯一路」からイタリアが離脱しようとしている。

2013年に党機関紙の廈門市の記者が、習近平の名前を1文字間違えたという理由で停職処分を受けている
2014年6月18日には習近平指導部が「正しく世論を導くシステムを整える」として「記者の資格制度を厳格にする」という方針を発表するなど、報道機関への圧力・言論弾圧を強めている海外メディアに対する厳しさも強くなっており、NHKによれば、取材の妨害や記者の一時拘束などが非常に増えているという。また、弁護士の浦志強とウイグル独立の主張には賛同しない穏健派ウイグル人学者のイリハム・トフティ、ジャーナリストの高瑜など理性的な方法で社会改革を訴えてきた者たちの逮捕が続出しており、無期懲役などの厳しい判決を受けている。

2014年10月20日の第18期中央委員会第4回全体会議においては「全面依法治国」として法治主義を掲げて「法治」という言葉を58回も使って中国を人治国家から脱却させることを訴えた
この四中全会では胡錦濤前指導部の掲げた徳治主義的な路線にも配慮して「法による国家統治と徳による国家統治を結合する」と決定した。
習近平体制になってから「法治」は政府の様々なキャンペーンでの標語となっている。中国公民の「非文明行為」(規律や社会秩序を無視する行為)に対して胡錦濤体制では電光掲示板などで八栄八恥としてモラル・マナー意識の向上を呼びかけていたが、習近平体制からは街頭ビジョンなどで個人情報の晒しまで行うといった法的な責任を負わせるようになった。

2016年4月28日、全国人民代表大会は、中国国外と繋がるNGOが中国の体制を脅かすという習指導部の警戒感を強く受け、「海外NGO国内活動管理法」を成立させた
同法は習指導部の下で審議が始められた。「海外NGOの活動に法による保護を与える」と謳う一方、海外NGOが「中国の国家安全や国家利益を損なってはならない」と定めた海外NGOの監督を警察当局に担わせると明記し、NGOへの捜査権限を与えて国家分裂や政権転覆などを企てたと見なせば刑事責任を追及し、中国での活動を2度と認めないというものである。資金の流れや中国人スタッフの管理も厳しくする。海外NGOと交流のある国内NGOにも監視が及ぶため、中国の大半のNGOが影響を受けると日本の報道機関が報じた。

2016年11月7日、全国人民代表大会は「サイバー主権(英語版)」と称する国家主権をサイバースペースに確立するとして「インターネット安全法」を成立させた。自ら設立した「中央インターネット安全情報化指導小組(中国語版)」で主任を務める習が管轄している中国サイバースペース管理局(英語版)による情報統制が正当化される内容から人権団体などから懸念を呼んだ。2014年からは烏鎮でロシアなどの各国首脳やアリババ・テンセント・ソフトバンク・アマゾン・マイクロソフト・フェイスブック・アップル・グーグルといった国内外のIT大手企業の経営者などや「インターネットの父」の一人であるロバート・カーンも集めて中国のネット検閲を正当化する世界インターネット大会(英語版)を定期開催している。

2017年4月に習の主導する「千年大計」(1千年に渡る大計画)として河北省に雄安新区を設置した。

習近平政権の最初の5年だけで、184人の軍幹部が汚職で取り調べを受けて起訴され有罪判決を受けたといわれる。こうした粛清の後、習は自分に近い陸軍軍人を海軍トップにすえるなど実績を何ら考慮しない人事を行って軍人たちから顰蹙を買っている。軍事パレードで左手で敬礼するなどの習の行為についても人民解放軍の軍人たちは呆れており、表面上は習近平礼賛を合唱しながらも、心中では習を軽侮しているという。軍人たちの不満から、軍事クーデターが起こる可能性も強く指摘されており、習は暗殺におびえているともいわれ。

汚職対策

2012年11月15日の第18期1中全会終了後、党総書記として初の記者会見に臨んだ習は就任スピーチで、深刻化している党員の汚職問題に取り組み、社会保障の改善など民生を重する姿勢をアピールした(中共十八大以来的反腐败工作=反腐敗キャンペーン)。
しかし、トランスペアレンシー・インターナショナルが2014年12月3日に発表した2014年の腐敗認識指数で、中国は2013年の80位から100位に後退した。トランスペアレンシー・インターナショナルは、腐敗摘発が「政敵の追い落としを目的にしている」と指摘している。なお、2022年の腐敗認識指数は180の国・地域中65位(同位はキューバとモンテネグロ、サントメ・プリンシペ)で0.45であり、2014年を境に汚職の多い国として分類されながらも理由は不明であるが2013年の0.40から改善されている。

2013年1月の党中央規律検査委員会全体会議上、習近平は「大トラもハエも一緒に叩け」と反腐敗の号令をかけた。
党内の腐敗が中国という国を滅ぼすとの強い危機感を訴え、汚職・腐敗の撲滅が共産党政権の安定と継続を保証するとの硬い決意で取り組み始めた。
2014年3月、かつて軍事委員会副主席などの要職を歴任し、制服組のトップに君臨した徐才厚が摘発され、同年6月党籍剥奪処分を受けた。徐は刑事裁判あるいは軍事裁判にかけられる予定だったが、前制服組が規律違反あるいは汚職の罪で処分を受けるのは前例のないことであった。
そして、「刑は常委に上らず」(「刑不上常委」、礼記の「刑不上大夫」から出た言葉、政治局常務委員経験者は刑罰を受けないという意味)という鄧小平以来の慣例を打ち破り、汚職・腐敗摘発の本命でもあった周永康元政治局常務委員が、2014年10月の政治局会議において、規律違反・機密漏洩などの罪状で立件が決定し、同年12月はじめには、党籍剥奪の処分をうけ、正式に逮捕・粛清された
さらに2014年12月末、胡錦濤前総書記の側近であった前中共中央弁公庁主任の令計画(全国政治協商会議副主席、党中央統一戦線工作部長、中央委員)が「規律違反容疑」で失脚した。前党総書記の秘書にまで、習近平の「汚職・腐敗摘発」の対象となったわけである。
またさらには、これまで「聖域」であった軍にも及ぶ
徐才厚に続き、軍事委員会副主席経験者である郭伯雄も摘発された。その他の摘発された高官として、薄煕来(重慶市党委員会書記)、周本順(河北省党委員会書記)、蘇樹林(福建省長)らがいる。
規律違反で処分した党幹部は、2013年で約7700人、2014年で約2万3600人、2015年で約3万4000人である。
反腐敗を掲げてから3年後の2016年1月ごろには、薄受刑者や周永康受刑者のような政権中枢にいた「大トラ」退治は一段落したという見方が党関係者や外交筋には広がっている。
習近平は2016年の最初の視察先に薄元書記の「独立王国」と呼ばれた重慶を選び、薄元書記が始めた長江の港湾開発プロジェクトを高く評価し、自ら唱える経済圏構想である一帯一路構想に重慶が貢献するように励ますなど、相次いだ大物幹部の粛清によって自らの権力基盤が固まったことからくる余裕をみせた。また、中国科学院と中国共産党中央規律検査委員会は官僚を監視して自動的に腐敗を防止するAIシステムを開発して2012年から7年間にわたって約8721人の汚職官僚を処分した。

中央規律検査委員会では習の盟友の王岐山に中央での会議の全権があり、王岐山に次ぐ副書記で習の最側近の一人で北京大学に14歳で入学した経歴から政府内で神童の誉れが高い李書磊(中国語版)に汚職撲滅運動を推進させており、海外への逃亡犯を追跡する「国際追逃追臟工作弁公室」のトップに任命している。
2014年には海外に亡命した汚職官僚100人の国際手配を行ってその3分の1が引き渡されており、2015年から中央規律検査委員会は中華人民共和国公安部などともに海外に逃亡した汚職容疑者を国際手配などを用いて取り締まる「天網行動」と呼ばれる作戦を行っている
2016年には世界各国の警察機関が加盟する国際連合に次ぐ巨大な国際組織である国際刑事警察機構(インターポール、ICPO)が中国公安部の孟宏偉を総裁に選出したことによりICPOが習近平体制の汚職撲滅運動に利用されることが懸念され、米国に事実上亡命した中国人富豪の郭文貴の国際手配の際は中国による政治利用を指摘されている
2017年9月に北京で開催されたICPO総会の開会式で「中国は世界で最も安全な国」と述べて「法治」の重要性を演説した習は発展途上国の2万人の警察官を養成する「国際法執行学院」と100カ国での科学捜査研究所の設立や通信設備の支援などICPOへの中国の影響力拡大を宣言した。
2018年にその孟宏偉もICPOの照会を無視して汚職取締の名目で逮捕した際は国際基準よりも国内事情を優先した中国当局の恣意的な法執行が批判された。

また、中央規律検査委員会と並ぶ汚職取締機構として「国家監察委員会」も設置している。

脱貧困と共同富裕

2015年11月29日付けの中国共産党の機関紙『人民日報』によると、同月27日と28日の両日、習近平総書記は「脱貧困」に向けた重要会議を開いた。会議で習総書記は「貧困を解消し、庶民の暮らしを守ることは社会主義の本質的な要求であり、我が党の重要な使命だ」と述べたと演説した。発展が遅れ気味な22の省と市の幹部に「脱貧困に取り組む責任書」に署名をさせた。「責任書」には、脱貧困を最優先の課題とすることや、うわべだけを取り繕って中央の予算支援を無駄にしないことなどを誓わせている地方幹部に政策の徹底を書面で署名させるのは異例のことである。外交筋は、「反腐敗」に次ぐ政治的キャンペーンになる」と見る。
貧困や格差の解消は大衆の支持を得やすく、党内で異論を差し挟みにくい点で、反腐敗と共通する。反腐敗キャンペーンは、習政権の基盤固めにつながった。「脱貧困」の推進は、鄧小平以来の雄改革開放路線が曲がり角に来ていることをも示している。鄧小平による社会主義の大義に縛られず市場経済を導入するという鄧小平によるこの現実的な考え方は、「まず一部の人々を豊かにさせ、その後豊かになった者がほかの人々を引き上げて共同富裕を目指す」という先富論として知られた。今回の習総書記による「脱貧困」政策は、一部の人々を豊かにさせるという段階から、次の「共同富裕」の段階に入ったという認識であると考えられる。「共同富裕」を目指すことが、発展優先の現実路線から、社会主義の理念を優先することに傾くことにつながると考えられるからである。

ウイグル統治

ウイグル人の住民が漢族住民及び武装警察と衝突した事件は、中国当局の発表(2009年7月19日現在)では、死者197名、負傷者1,721名に上る犠牲者が出たとしている。

一方、亡命ウイグル人組織の世界ウイグル会議の発表(2009年7月10日現在)で、中国当局や漢族の攻撃により殺されたウイグル人は最大3,000人と発表している。しかし、当時の習は解放軍の指揮権を有する中央軍事委員会にも武装警察の指揮権を有する中央政法委員会にもポストを持っておらず、軍事行動の責任がとれないことから、一般的には、江沢民時代から新疆を統治していた当時の自治区党委員会書記兼新疆生産建設兵団第一政治委員の王楽泉が責任者だとされている。

2013年4月には警官とウイグル人住民の衝突が発生し、21人が死亡する事件があった。世界ウイグル会議のラビア・カーディル主席は2013年6月20日、東京で会見を開き、習の最高指導者就任後、「中国政府の民族政策は以前より厳しくなった」と批判した。

2014年に習が初めて新疆を視察した際はウルムチ駅爆発事件が起き、ニューヨーク・タイムズの報じた政府の内部文書によれば、これを受けて習は新疆工作座談会での秘密演説で一部の強硬派が主張するイスラム教の規制や根絶は否定しつつソビエト連邦の崩壊やアメリカ同時多発テロ事件も挙げて経済発展を優先した胡錦濤前指導部と安全保障より人権を優先した欧米はテロ対策に失敗したとして「人民民主独裁の武器を躊躇無く行使せよ。情け容赦は無用だ」と述べてテクノロジーの活用を指示し、「対テロ人民戦争」「厳打暴恐活動専項行動」を掲げ、同年12月には新疆ウイグル自治区人民政府主席だったヌル・ベクリを国家発展改革委員会副主任兼国家エネルギー局(中国語版)局長に抜擢しており、ウイグル族高官が中央の要職に就くのは異例なためにウイグル重視の姿勢をアピールする習の狙いがあったとされる。

2016年に習近平は、陳全国を新疆ウイグル自治区の朱海侖(中国語版)党委員会書記を党委員会副書記兼政法委員会書記にそれぞれ抜擢して翌2017年2月に武装警察・公安部・民兵を集めた決起大会で朱海侖が「人民民主独裁の強力な拳で、全ての分離主義者とテロリストは粉砕する」と演説して以降新疆ウイグル自治区では、再教育キャンプへの大規模な強制収容と洗脳が始まった。

国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)の入手した政府の内部文書によれば、監視カメラや携帯電話などから個人情報を収集してアルゴリズム解析する「一体化統合作戦プラットフォーム」(IJOP)のAIと機械学習に基づくプレディクティブ・ポリシング(英語版)で選別されたウイグル人が2017年6月時点で約1万5千人も予防拘禁された。また、数十から数百メートルごとに便民警務站(派出所)や武装警察を配置し、ウイグル人住民はQRコードで管理され、自動車の全車両やメッカへのハッジの際には追跡装置が装着され、モスクなどに張り巡らしたAI監視カメラによって人種プロファイリングで識別され、様々なハイテクで顔認証・虹彩・指紋・DNA・声紋・歩容解析など一挙手一投足を監視される「世界でも類のない警察国家」完全監視社会の実験場となっている。

ウルムチ郊外には、8,000人以上もの男性の髪の毛を剃り、両手足を鉄鎖で巻いた状態で鉄格子の付いた部屋に監禁する大規模な収容施設があり、ここでは、ひたすら習近平を称賛するシナ語(漢語)の文言を音読させるなどの肉体的・精神的虐待を、国家方針にもとづいて実行している。女性用の施設でも男性同様に髪の毛をそられ、「何かの薬を飲まされ、生理が止まらず死亡した」女性がいる。習近平によるこうした暴行や殺人行為は、欧・米・日本のメディアや人権団体によって批判されているが、徹底的な社会統制は香港はじめ他の中国の地域でも行われるようになってきている。

尖閣諸島と南シナ海

習近平は2016年、中国人民解放軍幹部の非公開会議で、「尖閣諸島や南シナ海の権益確保は『われわれの世代の歴史的重責』だ」と述べ、習政権の最重要任務と位置付けていたことが2022年10月、内部文献調査により判明した。会議では、南シナ海の軍事拠点化を指示する内容の発言もあった。
習発言の約100日後に中国の軍艦が初めて尖閣諸島周辺の排他的経済水域の接続水域に侵入しており、これ以後、軍事的圧力を強めて強硬姿勢を明確にしていることから、習発言が背景にあったことが確実視される。

習近平は、バラク・オバマがアメリカ合衆国大統領の地位にあった2009年から2017年の8年間、南シナ海の領有権問題で対立するフィリピンやベトナム周辺の7つの岩礁島の実効支配を固め、岩礁を埋め立てて人工島をつくり、滑走路や港湾施設、レーダー施設などの建設を行って、軍事要塞化を進めてきた。さらに、兵員のみならず民間人を派遣して常駐させ、軍事の拠点としている。

尖閣諸島に対しては、2018年10月の日中首脳会談の前後にも、中国海警局の船が排他的経済水域の接続水域に頻繁に進入し、2019年には領海侵犯を繰り返すようになった。海警局は、習近平の軍制改革によって2018年以降、指揮系統が中華人民共和国中央軍事委員会に編入された「第二の海軍」で、その任務は従来の漁民保護から領海保全に変更された。

2022年10月の中国共産党大会で習近平指導部が異例の長期政権に突入したことで、新任期の5年間で具体的な成果をあげることを目指すものとみられ、近い将来、尖閣諸島に武力侵行を開始するものとみられる。


参考文献・参考資料

父は16年間の投獄、姉は餓死…文化大革命で苦痛を味わった“習近平”がそれでも“毛沢東”の背中を追う異常な理由 | 文春オンライン (bunshun.jp)

習近平 - Wikipedia

政治講座ⅴ907「人工知能(AI)を盲信するな」|tsukasa_tamura (note.com)

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