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小説『走る。』 1話

<あらすじ>
ひとめぼれしてすぐに走り出す愚かな男、松田走一郎、24歳。運命の人だと思い込んで追っていったその人が導いた先には……。
仕事×恋愛×アート×運命!

 その時、心臓をグッと掴まれた。
 その時、キュウンと絞られる音がした。
 その時、時間が止まった。

 目の前の景色が吹っ飛ぶ。
アクション映画でおっきなガラスが割れる時のように派手に。
真っ白な世界に彼女一人が立っていて、彼女から放出される魅力の針が心に刺さったような、そんなふうに見えた。

 おれにとって恋とは、逆境のことだ。
彼女は坂の上、こっちは坂の下にいた。
一瞬だけ目が合った。

その長い一瞬の後、おれに背中を向けて彼女は去ってしまった。
ここから走っていっても、この坂の傾斜ではすぐには追いつけないだろう。
来た。逆境だ。

 松田走一郎。二十四歳。
女ってやつはいつでもこっちから追いかけなければ捕まらない。
運命の出会いは突然に現れてドーンと突き放す。

 壁のような坂が目の前に立ちはだかっている。
それを越えなければ彼女は捕まえられない。
とりあえず坂を全力で駆け上がってみる。
息を切らしながら辺りを見回すが彼女の姿はない。
彼女は白いワンピースに大きめの帽子をかぶっていた。
我ながらよく覚えている。懸命に探すが彼女の姿はどこにもない。
「ハァ、ハァ。無理か」
 目の前の道は三つに分かれている。
「くそぉ。よう考えろ。この三つうちのどれかや」
追いかけた後のビジョンなどない。考えようにもそもそもその材料がない。
「いや、待てよ。あんなに綺麗な人が曲がるわけがない」
 ピーンと閃いてまっすぐ走った。

 目の前には富士山が見える。
暑くて苦しいはずなのに、でっかく涼しげにそこに在る富士山が目に入ると走るのが気持ちよくなった。
惚れた女のためにガムシャラになっている自分がもしかしてカッコいいんじゃないかと思った。

 瀬戸内海にある島で生まれ、大阪にある大学に行き、静岡の機械系メーカーに営業で就職した。入社二年目だ。
故郷の島はしまなみ海道にも入れず、過疎の一途をたどっている。
実家には年に一回、正月の時に帰るぐらい。しかし夏になると時々、海が恋しくなるんだ。
都会の中にいると、時々ふっと、「自分はなんのためにここで働いているのだろう」と思うことがあった。自分がひどく小さく感じるのだ。
それでも世界の流れの中で生きていくしかないことはわかっているので、ガムシャラに走ることで、その問いを突き付けられることから逃げているのかもしれない。不器用でとりあえず突っ込むというこの性格は、大学時代によく馬鹿にされた。
島ではそんなことはなかったので、初めはすごく驚いた。
自分の中にあるものをそのままで出すことが段々と難しくなっていくように感じた。それでもゴールを求めて走ることを止めたくはなかった。

 走っていくと駅が見えてきた。
さすがに駅前では人が増えてきた。
白いワンピースと大きな帽子を探しながら走る。

その時だった。遠くのビルに入っていく白いワンピースの女の人が見えた。
「おお! やった! 奇跡や!
 やっぱりおれはあの人と結ばれるべきなんや!」
と、ガッとその女の肩を掴んだ。
その瞬間、ハッとして、「あれ? こっからどうすればいいんやろ?」と思って、スーッと熱が引いていった。やばい!

 前にもこんなことがあった。
出勤時に電車で見かけた綺麗な人を、勝手に運命の人だと思い込んで追いかけていって、同じ電車に乗りこんだ。
ここまではいいが会社とは逆方向の電車だと、気づいた時にはもうゆっくり電車は動き出していた。
結局、我に返った後はどうやって話しかければいいかわからなくて、ただただ彼女をちらちらと見ながらなかなか次の駅につかない特急電車の中で、会社に体調不良の連絡を入れるに至った。
それ以来、彼女を見ることもなく、運命は彼女とはつながっていなかったとわかった。
冷静になってから考えたらヤバいやつだということは流石にわかった。

 肩を掴まれ、振り返って不思議そうな顔でこっちを見るワンピースの女性。
なにも言葉が浮かばず、凍り付いてしまいダラダラと汗が流れだしてきた。振り向いた彼女の顔は透き通るほど美しくて、さらに汗をかいた。
走っている時はあんなにも大胆にいけたのに、話すとなると急にモゴモゴと口ごもる。あの電車の時と同じだ。
頭は動いているし、伝えたい想いはあるのに、口から出す形の『言葉』にならないのだ。

そのとき、彼女が「あっ」という顔をしたから救われた。
「もしかして、ここの絵画教室に来たんですか?」
嬉しそうに聞いてきた彼女の笑顔がまぶしくて、気づいた時には、
「初心者ですが」
と、答えていた。

 絵画教室はビルの5階にあった。古いビルでエレベーターなどなく、階段で5階に上がる。
怪しい『古澤絵画教室』と書かれたドアを開けると、溜まっていた油の臭いがくさかった。
中には十人ぐらいが円になって画材を前にして座っていた。
「どうぞ。ここに座って描いて」
そう彼女が言った。
言われるがままにそこに座って、なにか描けるものをと、メモ用のノートとシャーペンを出したが、周りの視線が痛い。
そもそも初心者が来るような場所じゃないのだ。もっと美大とか芸大とかに行っている人がこういうことをしないといけないんだ。そう思うといたたまれなくなった。
感情の赴くままに彼女に声をかけてしまったことがだんだんと悔やまれてきて、いっそ席を立って部屋を出てしまおうかと悩んだ。
とその時、別室に行っていた彼女がバスローブ姿で出てきて部屋の真ん中に立った。
そして目の前でバスローブをパサリと落とした。

 目ン玉が落ちるかと思うぐらい驚いて、じっと見てはいけないと思ったが彼女の堂々としたそのしぐさは、一つ一つがとても美しく、目が奪われてしまって離せなかった。
爪の先まで綺麗で、薄汚れた教室の中で輝いて見えた。
不思議なことに、憧れの彼女の裸に対して、まったくいやらしい気持ちが湧いてこなかった。
正直、女性の裸を生で見たことはあまりない。いや、まったくうれしくない身内のハプニングを除けば皆無だ。
それでもその時は美しい自然を見たような感動で、全く反応しなかったのだ。帰り道に思い返したときには想像だけで完全に反応していたが。

 彼女は右足に重心を置いて両手で胸と下半身を軽く隠すようなポーズをとった。周りの人たちが一心不乱に彼女のスケッチを始める。
男の方が割合は多かったが中には女の人もいた。
いずれにしてもすべからく地味だ。すごく集中していることがわかった。

 「どうしてそんなに急ぐんやろう。絵ってゆったり描くもんちゃうんかな?」と、不思議に思ったが、二十分でポーズが変わってしまうことが後でわかり、納得した。
そこで、せっかくだし自分もとりあえず描いてみようと思った。
二十分ではとても描ききれないので一つ目のポーズと彼女の顔を一時間かけて丁寧に描いた。
「まつ毛長いなぁ。うわ、目キレイ。真面目そうで繊細な整った顔やなぁ」
 ぶつぶつつぶやきながら描いていると、段々周りは白く塗りつぶされていって、視界には彼女の姿だけ。再び二人の世界へ入っていけた。

そう言えば、幼いころは絵を描くのが好きだった。
あの頃はなにもきっかけがなくても、絵を描きたいときに描いていた。
最終的になにを描いていたかは全く覚えていないけど、真っ白い世界にスーッと入っていく感覚はあの時と同じだ。どうしてやめてしまったんだっけ。小学校が終わるころには、絵にまったく興味がなくなっていた。

 昼の時間になって、休憩ということになった。
さすがに会社に戻らなくてはいけない。実は絵を描きはじめて少しして、外回りの途中だったことを思い出して焦っていた。
営業の主な仕事は、客先を何軒か回ることで、残業は多いが昼頃には自由時間を作ることができた。

最後にあの人と話がしたいと思って辺りを見回していると彼女がバスローブ姿で部屋から出てきて、おれを見つけて近づいてきてくれた。
「どうだった?描けた?」
「いやぁ。難しいですね。でも静かに集中できて楽しかったです」
 話しながら内心はドキドキだ。
彼女の方が年上のようで、優しく微笑みながら会話を進めてくれた。
描いた絵を見せると、線が正直でいいと褒めてくれた。
おそらく初心者に対するお世辞だろう。
ただおれにとってはそんなことはどうでもよかった。彼女が自分の運命の人かどうか、それが最重要課題だ。
「この後、ご飯でもどうですか?」「また、会ってくれませんか?」「連絡先教えてもらえますか?」聞きたいことは、今度はちゃんと言葉として、頭にポンポンと浮かんでくるが、口からは出ない。言おうとしても彼女の目を見ると言葉が心の奥に吸い込まれて行ってしまう。
そうこうしている間に、渋い色の着物を着た絵画教室の先生と思われる男性が奥の部屋から出てきて話しかけてきた。
「初めての方ですか! どうでした?
 ちょっと見せてもらえますか? どれどれ、ふむ」
邪魔しないでくれよ。と、思いつつ、営業職で身に着けたにこやかな対応をする。顔は仙人のような立派な髭を蓄えた初老の先生だ。
ニコニコとしながら、
「おお。良いじゃないですか。デッサンは初めてですね?」
「は、はい」
パッと見ただけで見抜けるのか。すごいな。と、思ったが、周りの人と比べると圧倒的に下手だし、まあわかるか。その後も仙人のテンションは高い。

「線がいい。迷いがない。自分の感情や直感に素直な人なんですね。
 いったん集中すると突っ走ってしまう。
 そして自分が恥ずかしいとあまり思わないんですかね?
 自分をさらけ出すことができる。
 自分を愛することのできる人なんですね。私は好きですよ、この絵」
どうせ初心者を絵画教室に入れたいためのお世辞だろうと考える頭とは裏腹に、心はめちゃくちゃ喜んでいた。
魂がグーッと熱くなっていく感じがした。
仙人はニコニコしながら、
「これから、もっとうまくなりますよ。
 どうです?うちに入りませんか?」
やっぱり。勧誘だ。そりゃそうか。教室やし。と、頭では考えていたが、気が付くと口はしっかり、
「入ります」
と、答えていた。「頭と口は距離があるなぁ」と思った。
不思議な心持ちだったが、彼女が嬉しそうに笑ってくれたのでまあいいかと思った。

 教室を出て会社に向かう。その途中で、立ち食いそばを食べる。
午前中に起きたことがあまりに目まぐるしくて、頭の理解が追い付かなかった。
 まず家から客先に訪問に行ったんだよな。軽く挨拶して、昼過ぎまで喫茶店でも行って時間をつぶそうと思ってたんや。
そしたら目の前に天使みたいな人が現れて夢中で追いかけたら、その先には絵画教室。ヌードモデルが彼女で、今、その絵画教室に入会した、と。
 我ながらすごい。アホだ。笑けてきた。
しかしまさしく今日は運命の日で、彼女は導きの天使なんちゃうか。
いままでの一目ぼれとは全然違う。今回はいける。運命や。
わくわくしてきた。よーしっとそばを吸い込んだら伸びててぜんぜんおいしくなかった。
彼女との出会いを喜んでいたこの時は、本当に人生を変えることになる、絵との出会いを、さほど気に留めていなかった。

 夢を見た。
 真っ暗な部屋に裸の彼女が立っている。
 夜だから暗いのか。昼間は白かったのに。
 暗いけど、彼女の姿はハッキリと見えた。
 彼女の白い肌が発光しているようだった。
 自分はそれをじっと見つめている。
 彼女もまた優しい目でこっちをじっと見つめている。
 段々と二人の距離が近づいていっていることに気付く。
 意識したらやっとわかるぐらいにゆっくりと。
 気づいた瞬間に少しずつ早くなっていった。
 そしてついに、すぐ目の前に迫った。
 鼻と鼻が触れ合いそうになっている。
 それでも止まらない。
 身体をそらして離れようとするが、逃げられない。
 いよいよぶつかるというところまできた。
「うわぁぁ! ぶ、ぶつかる!」

その時、目が覚めた。
目が覚める直前に目の前に広がった景色があった。
感覚的にぼんやりと頭に残っている。
ゆっくり思い出してみる。
宇宙空間のようにたくさんの星があり、電気みたいな線でつながったり離れたりしている光景だった、ような気がする。
不思議な夢だ。普段はそんなに夢を見ないのにな。
もう一度寝てみたが夢は見なかった。


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