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小説『走る。』 5話

週が明けると仕事が忙しくなっていた。

客先で商品の不具合があったのだ。
その回収やら謝罪やらで、自分の客先のみならず、ほかのところにもヘルプで行かなければならなかった。
残業に残業が重なり、土日には出張が入り、とても教室に行く余裕などなかった。

その次の週には少し落ち着いた。が、それでもまだ忙しく、土曜日にも仕事が入り二週連続で教室には行けなかった。

忙しさの中で紗良さんの顔を思い浮かべては少し癒されていた。
そのたびにりこの笑ってる姿もいっしょに浮かんできて、少し元気が出てきた。
お客さんの中にはすごく怒っている人もいた。
不具合が出たのだから当然と言えば当然だ。
その度に、妙に冷静にその人を観察してしまった。
人は確かに、目に見える以外のエネルギーを発しているなぁと謝りながらのんきに考えていたりした。そして、あの時に描いた猫の絵が気になった。

思ったより冷静でいられたが、目まぐるしく動く目の前の状況を前に、心には確実に疲れがたまっていった。

この三週間でたくさんの人と触れ合った。
普段付き合っている人とは違う人をたくさん見た。
改めて、世界にはいろんな人がいるなぁと、当たり前のことを思った。
忙しくなればなるほど、いろんな人を見れば見るほど、絵が描きたくなった。
「そういえば、次は色をつけようと言ってくれてたな」
教室が恋しくなった。

 金曜日になった。
明日はやっと、教室に行ける。
三週間ぶりだ。

七時に家につき、ふぅっと息をついた。
ベッドの上に放ったカバンの中からスケッチブックが見えた。
描きかけの土手からの風景画が見えている。
そしたら、むくむくと描きたい気持ちが起こってきて、スケッチブックを持って土手に行ってみた。
当然のように辺りは暗くなっていてなにもできなかった。

「ふぅ。無理か」
そう呟いて座った。
残念なはずが顔はにやけていた。
広い土手に心が喜んでいる。

久々の何もしない時間が嬉しい。
空が広い。
段々と目が慣れて星が見えてきた。
店や教会の明かりが川に映って綺麗だ。

黙ってぼーっとしていると、いきなり電話が鳴った。
「うわ!」
びっくりして大きめの声を出してしまった。
知らない番号だ。
「もしもし」
恐る恐る応答する。
「もしもし、古澤絵画教室です!」
「え!」
紗良さんだった。
「お久しぶりです。お仕事忙しいんですか?」
にこやかな紗良さんの声。
急な緊張で心臓がバクバクして苦しい。
「な、な、なんで、番号……」
「入会の時に番号書いてもらったじゃない!
 ところで明日は来られます?
 来られるならうちの猫を連れていきますよ」
「あ! 行きます! 仕事が大変で……。ありがとうございます!」
「そうだったんですか。
 わかりました!
 では明日。楽しみにしてますね。」
そういって電話は切れた。

ふーっ。一気に息を吐き出す。
どうして紗良さんの時だとこんなに緊張してしまうんだ……。
なんだかどっと疲れた。
猫を毎週連れてきてくれていたんだろうか。
申し訳ないな……。

ぐるぐると回る頭と一緒に土手でぼーっとしていた。
風が気持ちよく、草の上に寝ころんで空を眺める。
なんかロマンチックなことしているなと思い、だれも見ていないのに恥ずかしくなった。
と、その時、顔の上が急に影になった。
首を曲げて上を向くと、そこにはジーパンにTシャツ姿のりこがいた。
「や」
ビクッとして、あわてて起き上がった。
りこは軽く右手をあげ、ニコニコとしている。
なぜか少し息を切らしている。

「教会から出てきたらアナタが寝っ転がってるのが見えたから。
 走ってきちゃった」
はにかむりこ。暗がりだからか、妙に大人っぽく見えた。
「なんや、びっくりさせんといてよ」
言葉とは逆に、りこの笑顔を見ると心が落ち着いていく感覚があった。
安心?かな?これは。
りこはニコニコしながらこっちを見ている。

「久しぶり!」
あれ? こんなに素直なやつだったか?
「お、おう。最近忙しくてね。って、え? 教会?」
「そうよ? 私、クリスチャンなの。それも敬虔なね!
 あそこのおっきい教会があるでしょ?
 あそこに小さいころから行ってるの」
「へぇ。祈ったり、話を聞いたり?」
「そうそう! あ、今度遊びに来てよ!
 劇をするのよ。子供たちに混じってだけどね。
 ステンドグラスがキラキラしててすごくキレイなの!」
「へぇ。いいねぇ。行くよ!」
教会に興味があるわけではなかったが、楽しそうに話すりこから目が離せなくて、気が付いたらそう答えていた。まあ断る理由もない。

その後も土手の暗い中、いつまでも話していた。
たわいもない話が楽しくて、久しぶりにはしゃいだという感じだった。

気が付くと九時半で、時計を見てびっくりした。
「さすがに未成年をこんな時間まで外に出しておくわけにはいかない」と思い、
「あ、もうこんな時間か!
 じゃあここまでやな。また明日」
「えー! まあ、そうだね。じゃ!」
りこは少し甘えた感じで残念そうに、しかし去り際にニコッと笑って走って帰っていった。
その後ろ姿を、りこの家の近くの曲がり角で見えなくなるまで目で見送ってから帰った。


次の日の土曜日。
教室に行くと紗良さんが猫を抱いて席のちかくで他の人と話している。
相変わらずの美しさで、心がボッと熱くなった。
「そういえば、黒猫の絵にどう色付けするんだろう」と、いまさら思った。

席に着く。
「おはようございます」
紗良さんに声をかける。
振り返る紗良さん。
いい匂いがする。

「あ、おはようございます。
 久しぶりですね。今日は色を付けるんですよね。
 一緒に買いに行った画材は持ってきましたか?」
にこやかに話す紗良さんに心は踊った。
 
そして本日のウォーミングアップがスタート。
教室の真ん中にはどっかの民族の長老の家に飾られているような牛の頭蓋骨が置かれている。
なんだか珍しくそれっぽいお題だなと思った。
目の穴から向こう側の骨が見えていて、それを描くのが難しかった。

あっという間に時間が経ち、ほかの人がどうやって描いたのかが気になって、教室をぐるっとまわってほかの人の絵を見た。
案の定、自分とは遥かにレベルが違う完成度の絵だらけだった。
特にりこの絵は面白かった。
人とは違う角度で、実物そっくりだがそうではないような。
りこは描くのが楽しいんだと思った。

自分の作品を描く時間となり、黒猫の絵に色を塗り始めた。
色を付けていく作業はとても楽しかった。
黒一色の猫の色塗りの何が楽しいのだろうと思ったが、光の当たり方や毛並みのつや、同じ黒でも全然違う黒がたくさんだった。
また、目に色を入れることで説得力みたいなものが上がった気がした。

仙人や紗良さんのアドバイス通りに色を重ねるとどんどん良くなっていった。
白に近い色で線を一本を入れるだけで印象が全然違った。
なんというか、リアルさが増し、雰囲気が出る。
鉛筆の時点でも、どんどん表現できることが広がって楽しかったが、色を加えるとそれがさらに増した。それも無限に広がる感じがする。
自由を感じた。
自由を感じれば感じるほど、自分が自分に勝手に持たせている縛りも、強く感じるようになった。
それを発見し、時には壊せて、快感だった。
どんどんとのめり込んでいっていることを感じた。

途中で仙人が、
「忠実な色でなくてもいいですからね。
 現実の色は最高の見本ですが、あなたの眼を通した時点であなたのものです。
 ただ、インスピレーションには従ってください」
と、言った。

二時間後、絵は完成した。
出来上がった絵を三歩離れてみてみると、「へったくそだなぁ」と、思わず笑えてしまった。
バランスも悪いし、グラデーションも汚い。
周りの人の作品を見た後だとなおさらへたくそに思えた。
それでもとても愛しく、愛着が湧いている。
目の前の黒猫が自分の中に入ってしまったような、そんな気持ちになった。

「ふーん。いいじゃん!」
急に後ろからりこが出てきてビクッとなった。
「うん。すごくいいよ。まだへたくそだけど。なんか楽しそうな感じ!」
「へ、へたとかいうなよ」
と、言いつつ飛び跳ねるぐらい、内心喜んでいた。
「ふふ。褒めてるんだよ。
 なんか人柄が伝わってくるっていうか、小手先で描いてない感じが、すごい良い! 才能あるよ!」

仙人にもアドバイスをもらい、少し褒めてもらえた。
そしてりこといっしょに帰った。
 
昨日に引き続き、りこと土手を歩く。
気持ちのいい青空。
りこはいつにも増して素直でニコニコしながらしゃべり続けている。
こっちの役割はたまにあいづちをうつだけで、話はどんどん進んでいく。
やっぱり落ち着く。自然体で楽しくいられる。りことなら。
「まあだいぶ年下だしな」
そう思うと、なんとなく喉のあたりがもやもやした。

去り際にりこが、
「あ、今度ね、教会でゴスペルに合わせてライブペイントするの!
 即興で絵を描くのよ。手伝ってくれない?
 筆を渡したり、色をつくってもらったりするだけなんだけど……」
「へぇー! そんなこともするのか!
 もちろんいいよ! 面白そうだ!」
「ほんと?!
 来週の土曜日の午後なの。教室が終わってからなんだけど」
「うん! いけるいける!」
初めてのイベントにワクワクして帰った。見送ったりこのうしろ姿もとてもうれしそうだった。なんとなく走って家に帰った。

夢を見た。
黒猫が近づいてくる。
じっとおれの方を見つめている。
鋭く光る眼を時々まばたきさせている。
ゆっくりと、ゆっくりと目の前に近づいてくる。
猫が大きくなっているのか、自分が小さくなっていっているのかはわからない。
自分と同じ大きさで近づいてくる。
不思議と怖くない。
そしてついにぶつかり、混ざりあった。
その次の瞬間、猫の目線になって土手にいて、
上を向くとりこに抱きかかえられていた。
りこは大人びた表情で暖かかった。
りこがこっちを見て、にこっと笑ったところで目が覚めた。


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他の話はこちら!

1話:https://note.com/tsuka_joji/n/n5583b0044819
2話:https://note.com/tsuka_joji/n/n3de35a7b0edb
3話:https://note.com/tsuka_joji/n/n75a490bf8ad4
4話:https://note.com/tsuka_joji/n/n25725ac0238f
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8話:https://note.com/tsuka_joji/n/n26779c4f714b
9話:https://note.com/tsuka_joji/n/na878ee652ff5
最終話:https://note.com/tsuka_joji/n/n24cb28548056

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