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小説『走る。』 8話

 そこからの一週間は描きまくった。

浮かんだアイデアもあいまいなものなので、何回もスケッチをしては描き直した。
教室で仙人にアドバイスをもらうことも考えたが、これは一人でやるべきだ、やりたいと思った。

りことわかれて、そこから家に帰り、すぐにスケッチブックを取り出した。
朝まで描いて、寝て、起きてからも描いた。
月曜と火曜も、どうしても絵以外のことをしたくなくて、体調不良と言って会社を休んだ。
仮病を使って休むのは初めてのことで、少しの罪悪感があったが今は目の前の絵に集中するべきだと感じ、そうすることにした。

水曜からは会社には行った。
前のトラブルが落ち着いてからは特に問題も起こらず、通常業務をそそくさと終わらせて定時で帰った。
うちに着いたら急いで絵に取り掛かった。
とにかく寝る間も惜しんで描き続けた。

何度も何度も、描けば描くほど、自分のイメージの余分な部分がそぎ落とされていくような感覚が、面白くて仕方がなかった。
しかしそれと共に、自分の傷が浮き彫りになってきた。
描いていく中で、あいつのあの時の言葉、母親のあの時のあの表情、兄貴と友達とのあの会話、というように、その場面とその時の苦い気持ちが頭の中に広がった。
そしてそれが今の自分の傷になっているとわかった。
その傷に触ること、触られることが怖いんだと気付く。
恐れは敵意となり、攻撃となり、人を傷つけ自分も傷つける。傷つけてきた。
自分のむき出しの心を初めて自分で見ている。
つらくもあり、新鮮でもあった。
今まで自分は比較的幸せな方で、恵まれた環境で育ってきたと思っていた。
傷なんて特にないと思っていた。
が、実際にはこんなにもあったのだ。
そしてそれが、段々と、心に重くなっていった。

土曜日になり、絵画教室はサボった。
一日中、部屋にこもって描いた。
絵はすでに2枚目に差し掛かっていた。

日曜になり、さすがに一回外に出るかと思って、河原を歩くことにした。
昼過ぎの春の日差しはポカポカとしていて、気持ちがよかった。
草の上に座ってぼーっと眺めていると、あのカトリック教会からたくさんの人が出てくるのが見えた。
そうか、礼拝か。
りこの姿を探している自分に気づく。そして見つからなくてがっかりした自分にも気づいた。

なんとなく教会の前まで来てしまった。
玄関の扉は空いており、ミスターパウロがあのキリストの絵の前に立っていた。
こっちに気が付いてニコッと微笑み、
「おおー! 松田サンじゃないですか! 来てくれたんですか!」
と、話しかけてくれた。

「こんにちは。礼拝があったんですね」
「こんにちは。
 そうです。楽しいですよぉ。ぜひ来てください」
本当に楽しそうに話す。
その時、なぜかわからないけど、自然と口が、
「あの、話を聞いてもらえますか?」
と、言っていた。
ミスターパウロの大きな体がなんでも受け止めてくれそうな気がしたのかもしれない。

そこからは一方的にたくさんのことを話してしまった。
よく考えると、急に来て、一度会っただけの間柄で、長い時間一方的にしゃべり続けるなんて失礼な話だ。
なのに、ミスターパウロは聞いてくれるだけじゃなく、「ほう」とか「へぇ」とか、本当にしっかりと聞いて受け止めてくれた。
こっちはこっちで、心の中をブワーッと出しているだけで、なんのまとまりもなく話し続けた。
りこのこと、絵のこと、自分の傷のこと、不思議とミスターパウロには全部言えた。
むしろ言いたいことに言葉が付いてこないのがもどかしかった。
それでもミスターパウロは焦らせることなく、むしろ無限に時間があるかのように話を聞いてくれた。

「今、ぼくすごく心の中が忙しいんです。
 たくさん考えることがあって、ずっとぐるぐる同じところを回っているような感じで、
 全然答えにはたどり着かないのにアイデアはどんどん浮かぶんです。
 どうすればいいかわからないけど、それをただ絵にしてるんです。
 ただそれも技術がないからへたくそで。
 いましゃべっててもそうですけど、ぜんぜん中にあるものと外に出てくるものが違う感じで。
 自分がこんなにも心の中を知らないなんて思ってなくて、
 でも勝手に蓋してたとことか、見たくない自分とか、欲望とかがどんどん目の前に現れて、
 それに向き合うことが初めは前に進むことだと思ったけど、
 それもおんなじところをぐるぐるしてるだけでむしろ後退してるんじゃないかって気がしてるんです。
 考えがどんどん進んでいって、いろいろ心がわかってくると、自分の醜い部分が見えて嫌いになっていくところと、いままで見ないようにしていたところを正直に見れるようになって段々と好きになっていく自分の両方がいるんです。変ですよね?
 こんな僕が人を好きになって、幸せにする、なんてできるんですかね? 
 歳の差とか立場とか、考えだすとわけがわからなくなってきて仕方がないんですよ。
 ミスターパウロ、どうすればいいと思いますか?
 なにが正解なんでしょう? ぼくは…………」
出せば出すほど止まらなくなる。
それは涙でやっと止まった。
ミスターパウロは優しくうなづいている。

そしてゆっくりと口を開いた。
「松田さん。話してくれてありがとう。
 私、とてもうれしかった。
 あなたは神に愛されていますよ。
 りこもそれがわかったから惹かれたんでしょう。

 今、あなたは変わる時なんだ、と思うんです。
 成長の時だ、と。
 人間の成長の時ってね、階段みたいに一度に来るんですよ。
 そしてその答えが見えたとき、見える世界も生き方も、まったく違うものになっていますよ。
 よかったですねぇ。
 そしてその答えはすでに、いや、初めから、あなたの中にあるんじゃないかと思います。

 安心してください。あなたの悩み、苦しみの先に、
 確かに自由や幸せがあると、私は知っています。
 ゆっくりじっくり、考えてください。
 あなたの傷は癒されますよ。
 その愛を受けるために今、成長のときなんでしょう。

 松田さん、この絵が好きですか?
 私も好きです。苦しさや痛みが伝わってくる。
 あなたの苦しさや痛みも、すべてここにあります。
 だから大丈夫です。
 大丈夫。私、祈ってますから」
目をあげるとあの絵があって、背景の色が柔らかくなったように見えて、
自分が許されたような気がした。

時計を見ると、来てから一時間以上が経っていた。
「スッキリしましたか?
 おや、来る前と今とではぜんぜん顔が違いますよ?」
ミスターパウロはやっぱりニコニコして言った。
すると急に恥ずかしくなってきて、
「ありがとうございました。また来ます!」
と行って玄関から外に出た。
熱くなっていた顔が、外の空気に冷やされていくのを感じる。


橋を渡って家に向かう。
さっきよりも太陽が明るい。
日差しが心に染み込む。
「あなたの傷は癒されます」
というミスターパウロの言葉がポンと浮かんできた。
その時、心に引っ付いてた傷の一つが、ふわっと離れていったような気がした。
「あ、やっと手離せたな」と、心が言った。

 夢を見た。
 久しぶりの夢だ。
 あの絵が目の前にある。

イエスキリストが十字架の上で苦しみ叫んでいる。
気が付くと彼に向かって叫んでいた。
苦しかったこと、悲しかったこと、言葉にならない言葉で泣きながら叫んでいた。
言いたいことを言い切って、それでもまだ何かぶつけたくて、口を動かそうとしていた。
すると、そっと後ろから包まれた。
暖かくて柔らかくて大きかった。
その中は気持ちよくって、吐き出した言葉や心にあったもやもやが、次々にスゥ、スゥッと出ていった。
それが出ていくたびに爽快感は増し、そのままスゥッと目を閉じた。

耳元でりこの、
「もう大丈夫」
と言う声がして目が覚めた。

 同じ夢を三日続けて見た。
最後の日のりこの最後の言葉は、
「もう大丈夫。好きよ」
だった。


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他の話はこちら!

1話:https://note.com/tsuka_joji/n/n5583b0044819
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最終話:https://note.com/tsuka_joji/n/n24cb28548056

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