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わたしとはわたしの環境である

今年の6月から音声プラットフォームVoicyで「生き延びるためのことばたち」という番組を配信していますが、Voicyでのトークは、日頃の大学の講義や学会発表、講演、対談などで話すときとは、決定的な違いがあります。それは、端的に申し上げて、聞き手の顔が見えるか見えないかという点です。美学者の伊藤亜紗氏は『どもる体』という本の中で、吃音の人は、独り言だとどもりにくく、モノローグのほうが話しやすいというようなことを書かれていて、それも感覚的に分かる気がしますが、一方で、聞き手が眼前に不在のトークというのも難しいところがあります。これを言語学的に少しだけ深堀りしてみると、話すということは本来的には「対位法的」なんですね。対位法というのは、音楽用語のcounterpointということで、文学研究でも、エドワード・サイードが、グレン・グールドの演奏から着想を得て提唱した「対位法的読解」contra-puntal readingというのがあったりしますが、要するに話すことが対位法的ということは、一方的な営みではなくて、双方向的な営みだということです。私たちは誰かと話すとき「相手の反応や表情などの微細な部分(マイクロエクスプレッション)を観察しながら、ことばや話題を選ぶ」ということを無意識のうちにしています。それをしないと「空気の読めないやつ」ということになるので、普通は人によって程度の差はあれ、話すときには、相手の反応の影響を多かれ少なかれ受けてしまうわけです。そもそも人間はただそこにいるだけで「圧」を発していて、また、話すときにはある種の演技性が介在したりもします。これは教師が一方的にしゃべっているように見える大学の講義でも同断で、私は学生の反応をしっかり見ながら、しゃべる内容もどんどん変えます。だからこそ私は詳細なシラバス作成とか綿密な授業準備とかは教育的に意味がないと言い続けているのですが、それはさておき、学生たちがみんな笑顔で生き生きとしていてうなずきながら授業を聞いてくれると、教師は緊張が解けてリラックスして話せる。そうすると、だんだん面白い授業になってきます。一方で、学生がつまらない表情をして聞いていると、教師は緊張して話しにくくなって、ますますつまらない話しかできなくなります。言い換えると、面白い授業だから学生の反応がいいというわけではないんですね。学生の反応がいいから自ずと面白い授業になっていくんです。逆に、つまらない授業だから学生の反応が悪いのではなくて、学生の反応が悪いからさらにつまらない授業になるんです。このキアスムはあまり意識されていないけれども、学生諸君はぜひ知っておいたほうがいいし、面白い授業が聞きたければ、嘘でもいいからとにかくにこにこして聞いていればいい。そうすると、だんだん教師がリラックスして、上機嫌になって、頭の回転も速くなって、いい感じの授業になっていく。だから、授業の面白さを決めるのは少なくとも半分は学生側である、というような言い方を私は実際に授業で学生たちにしています。これは授業に限らず、日常的なコミュニケーションにおいても大切な構えだと思います。そう考えていくと、「口下手」とか「コミュ障」だと自分で思いこんでいる人も、それは実は本人の問題だけではなくて、〈話す〉ことが対位法的な営みであるということを根拠に、上手に話せない原因の半分を聞き手側に帰属化できるようになります。コミュニケーションの不全や失調は、話し手のみならず、話し手の意図を十全に汲み取って、話しやすい方向へ誘導できない聞き手の疎通能力の低さによっても齎される。つまり、〈話す〉ことの巧拙は流動的で、聞き手によっても操縦されている。言い換えれば、無意識のうちに身体が勝手に反応して聞き手にアフォードされているわけです。
 
私はそういうふうに割り切っているので、人前で話すこともあまり苦ではないのですが、ラジオだと、聞き手が目に見えない。そうであるがゆえに、話の巧拙がすべて話し手側に帰責されてしまう。Voicyにある種の話しにくさを感じるのはそういうところに原因があるのかなと思いますし、また、こういう思考は、実は言語論的に非常に重要な視座です。
 
ところで、いま申し上げたコミュニケーションの失調という問題は、例えば、最近の医療や障害学の知見を参照すると、「ディスアビリティ」という問題にも繋がっていくんですね。「障害」は大きく「ディスアビリティ」と「インペアメント」に分けられるという考え方があります。ディスアビリティというのは、環境との相互作用によって生じたり消えたりするような障害のこと、「インペアメント」というのは、環境とは無関係に独立して存在する障害のことです。そして、考えてみると、うまく話せないというのは、ディスアビリティ的、つまり、かなり環境依存的なんです。先ほども申し上げたように、話すことの上手下手というのは、相手によってかなりの影響を受けます。ですので、話すことが苦手だという人も、その状態は決して恒常的ではなく、相手によっては上手に話せたりするはずです。

そして、やや少し話を飛躍させると、話すことに限らず、日々の我々の振る舞いを振り返ってみると、ありとあらゆる事柄、例えば、行動や考え方、心理状態に至るまで、すべてが環境依存的なんですね。私たちの行動が無意識裡にアーキテクチャやナッジに操舵されているということは、行動経済学の知見が教えるところでもありますし、私たちが好きだと思っているようなもの、自らの欲望だと信じているものも実は環境依存的で、例えば、「文化産業が支配的な現代においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションに先取りされている」というようなことをフランクフルト学派のホルクハイマーとアドルノが1940年代にすでに『啓蒙の弁証法』という本の中で書いています。ルネ・ジラールの「欲望の三角形」もご存じの方が多いでしょう。さらに、もっとライトな話をすると、ライフハックの本などを読んでいると、クリエイティブな仕事をするときは開放感のある場所のほうが独創的なアイディアが浮かびやすいとか、集中力が必要な仕事をするときは狭くて天井が低い場所のほうがいいとか、行動力を高めるには赤がいいとか、思考の整理をするには青がいいとか、あるいは、「ショーン・エイカーの20秒ルール」(習慣化の問題)とか、とにかくいろいろなテクニックが書かれていて、そうした細かな日常的なことも含めて、私たちは環境によってかなりコントロールされているということがよくわかると思います。ちょうど昨日ご献本いただいた、精神科医の星野概念さんの新刊の『こころをそのまま感じられたら』という本の中でも「環境が心にとても大きく影響する」と明記してあります。

「環境」といったときに、私が想起することばのひとつに、スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの「私とは私と私の環境である」というのがあります。人間というのがいかに環境依存的かということを象徴的に示していて、すごく気に入っていることばです。環境というのはもちろん物理的なものだけではなくて、人間関係なども含まれるわけで、アルフレッド・テニスンの「私とは今まで出会ったすべてのものの一部である」とか、マルティン・ブーバーの「すべて真の生とは出合いである」などといった箴言とも共鳴することばです。私は常々この言辞を拳拳服膺していますが、なぜ拳拳服膺しているかというと、環境によって、私たちの人生が規定されるというのはある意味では非常に恐ろしいことだからです。どんな場に身を浸すか、どんな人と付き合うかによって、人生が大きく変わっていくというわけですから、環境の選定というのはほんとうに慎重であるべきだと思います。さらに、それに関連して、思想家の東浩紀さんが『弱いつながり』という本の中で「「かけがえのない個人」などといったものは存在しません。ぼくたちが考えること、思いつくこと、欲望することは、たいてい環境から予測可能なことでしかない。あなたは、あなたの環境から予想されるパラメータの集合でしかない」と断じておられて、ちょっとドライだなとも思いますが、これが真理なのだろうと思います。ですので、もし今の自分が嫌だったり、限界を感じていたりしたら、その処方箋は「環境を変える」ということしかないんだろうと思います。渡辺和子さんの『置かれたところで咲きなさい』という本があったり、林修さんの「優秀な人は環境に不満を言わない」ということばがあったりして、共感するところもあるのですが、まずはそれよりも人間は環境依存的であるという弱さを受け入れるところから出発することのほうに私はリアリティを感じます。

これは先日お会いした哲学者の國分功一郎さんが『中動態の世界』という本の中で主張されている、そもそも人間には「自由意志」など存在しないということとも繋がるのですが、すべての因果関係から自由な意志などというのはあり得ないわけですね。ハンナ・アーレントが言うように、意志という概念は過去との切断によってはじめて成立しますが、でもそこにはやはりリアリティがなくて、私たちが意志だと思い込まされているものも、結局はその人がこれまで身を置いてきた環境の影響を濃厚に受けてしまっているのです。だからこそ、環境というのが人間にとって決定的に大事で、自分を変えるには「環境を変える」という方法が最も著効するんだろうと思います。

一方で、少し視点を変えてみると、ここまで話してきた「私と環境」というのは、あくまでも自分が受影者、つまり「環境から影響を受ける対象としての私」という話だったのですが、逆に自分自身が環境、つまり周りの人々に影響を与えるということも当然あって、それについては、プロダクトデザイナーの秋田道夫さんが『機嫌のデザイン』という本の中で「世界が美しくあってほしいのならば、その風景の一部である自分からまずととのえる」べきだというようなことを書かれていて、最近それを読んで、肝に銘じたいなあと思ったところです。

*本稿はVoicy「生き延びるためのことばたち」(辻野裕紀)の「第3回:わたしとはわたしの環境である」(2023年7月12日放送)を文字化、整理したものです。

わたしとはわたしの環境である | 辻野裕紀@言語研究者「生き延びるためのことばたち」/ Voicy - 音声プラットフォーム

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