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鉄塔から飛び降りて、あの子は天使になった【リリィ・シュシュのすべて】

鉄塔から飛び降りたあの子。この青い麦畑が広がるだけの閉塞的な町に、絶望とほんの少しの希望をもたらし、ひと足先に天使になった。



わたしが育った町は、よくある地方の田舎町。小学校も中学校も、一校しかない狭い人間関係。高い建物なんてひとつもなくて、コンビニもほとんどない。噂話だけがニュースになるそんな町で、わたしは孤独に過ごしていた。

いじめは定期的に開催される、娯楽のない町のお祭りだ。誰かを吊し上げて、飽きれば捨てる。そして、また別の誰かが犠牲になる。そこに意味なんてなくて、ただ"つまんない"から。同じ風景の中、同じ制服を着て登下校するだけの毎日は、わたしたちにとって閉じ込められたループ世界。色のない毎日をただ繰り返す。

わたしももちろんいじめられた。優等生のフリをすることでしか生き抜けない戦場で、仲間外れにされるなんてよくあることだ。ただ、当時はほんとうに苦しかった。口を聞いてくれないクラスメイト、ひとりで食べる遠足のお弁当。指揮者・リレーの選手・スピーチ大会、みんながやりたくないことは、全部わたしの役回り。笑いながら勝手に推薦されて、何もできずに帰ってくるわたしへの嘲笑や罵声。腕から血を流す日々に終わりは見えなくて、この世界から逃げ出す方法ばかりを探していた。

そんなある日、ニュースが町を駆け巡った。

「あのお家の女の人、鉄塔から飛び降りたって」

鉄塔から?どうして?死んだの?死んだよ

あちらこちらから聞こえる噂話。どうやら、ある家の女の人が飛び降り自殺をしたらしい。長いこと精神的な病を患っていた彼女はその日、鉄塔から。

それ以降、何度も夜じゅうその光景を想像した。実際に見にいくことはしなかった。だって、誰かの死の匂いを嗅いでしまったら、自分もこの世界から飛び降りたくなってしまうと思ったから。

彼女はどんな気持ちで空を飛んだんだろう、天国には行けたのかな。死んだらみんなお星さまになるなんて、たぶん嘘だ。でも、彼女はきっと、そらを飛べた。

わたしには希望に見えた。進んでも、突き当たりの人生しか待っていないようなこの町で、行き詰まったわたしたちはきっと、飛ぶしかない。飛び立てる翼は、わたしにはないから。だから、飛び降りて、一瞬でも。そしたらきっと翼が生えて、天使になれる。

わたしは結局、死ななかった。死ねなかったが、正しいけれど。そして、この町を出た。



大学生になって一人暮らしを始めてから、貪るように映画を見た。あの町で封じ込めていた感情とか感性とか、言葉を取り戻すようにたくさんのものを吸収した。あの町にはない、誰かの痛みや苦しみを丁寧に掬う作品たちを。

そして「リリィ・シュシュのすべて」に出会った。岩井俊二監督の、どこまでも美しくて、どこまでも痛い、そんな映画に。

画面をつけて見えた光景は、真っ青な空と、緑が広がる草の中。それぞれに痛みを抱えて、ひとりひとりが生きていた。あの感情をどう表現すればいいかわからないけれど、間違いなくあの映画は、私の話だった。そして映し出される光景すべてが、大嫌いなあの町だった。

ターゲットが次々と変わるいじめに、閉塞感のある町。ピアノを弾く美しい少女や、鉄塔から飛び降りた誰か。わたしの記憶がそのまま投影されたようなフィルムの中で、何度も何度もループした。

ああ、故郷のあの子は、この映画を観たのだろうか。この世の終わりのように広い空と青い麦畑で、血の海になる自分の光景を"美しい"と思ったのだろうか。きっと飛べると、この世界にサヨナラと、言おうと思ったのだろうか。

永遠に分かることのない問いと、自分の抱えてきた消えない傷。ひたすら生々しく鮮烈に、こころを揺らした。



大学では映画のサークルに入った。と言っても、撮るというよりは観るサークルで、だらだらと好きな映画の話をするゆるいもの。

3年生の頃、新入部員がきた。彼は韓国からの留学生で、映像を学ぶために来たという。眼鏡をかけた柔和な表情に癒されながら、彼と話をした。

どうして日本に来たの?

岩井俊二が大好きだからです

私も好き!なんの作品が好きなの?

僕の人生を変えたのは、「リリィ・シュシュのすべて」です

彼は穏やかに、ためらいがちに、「リリィ・シュシュのすべて」を語った。彼にとって、この作品はとても大切なものらしい。未だにこの映画への感情を言葉にできない、という彼は、切なげな表情だった。簡単に分かるー!なんて同意をしたくなかったから、ただわたしたちは、ぽつりぽつりと、言葉を交わした。

すると突然、彼がきっぱりと言った。

僕は二度とこの作品は観ないです

どうして?

あの時に感じた思いや感情を、すべて閉じ込めておきたいから。何にも汚されたくない、あの時のまま、大切にしておきたいんです

それきり、わたしたちは黙ってしまった。確かにわたしも、誰にもこの映画の良さを語ったことがなかった。どんな言葉も似合わない気がして、どんな風に伝えても間違える気がして。

わたしたちは物で溢れかえった狭い部室で、パイプ椅子に座りながら、窓から流れ込んでくる春の風をただ浴びていた。ただ、二人とも、リリィ・シュシュのことを想っていた。



最近わたしは帰省した。何もなく、嫌な思い出ばかりのこの町に、帰ってくるのは久しぶりだった。もう忘れたような風景はどこか他人事で、車の中から見る景色は、まるで映画のようだった。

所用で、町を車で巡った。夕方、窓を開けて少しだけ肌寒い風を浴びる。土の匂い、草の匂い。少し雨が降って、アスファルトが香る。雨音を聞きながら、町を眺めた。


どこまで行っても、青い麦畑が広がっている。もやがかかり、霧になって町を幻想的に染め上げる。すると、突然目の前に鉄塔が現れた。

鉄塔は静かに、大きく、ただそこに佇んでいた。思っていたよりも小さいな、と思った。

わたしをいじめていたあの子の実家はぼろぼろになっていたし、閉じ込められた体育館はもう建て替えられていた。

ひとりで帰った帰り道は、新しい道路になっていて、その面影もない。

でも相変わらず高い建物はひとつもなくて、東京では見られない、ただ大きくて果てのない空がひろがっていた。

霧が晴れて、美しいマジックアワー。まるで燃えるような空が、ただ美しく、泣きそうになった。

強い風が吹いて、穂を揺らした。その瞬間、わたしは自分の幻想を見た気がした。ヘッドホンをつけて、爆音で音楽を流しながら泣き続ける、あの頃のわたしを。

そして、リリィ・シュシュのすべてを。

閉じ込められた記憶の夕方、あの頃のわたしは、きっとまだこの町を彷徨っている。飛び降りた女の子と手をつないで、ここから逃げ出せない記憶の中で、ただ震える二人が。

一生救えないあの頃から逃げ出すように、東京へ帰った。東京は息がしやすい。誰もわたしのことを知らないから。隣に住む人が誰か知らない、挨拶することもない乾いた街。

ただいま、東京。



帰ってきても、時々思い出す。あの町の息苦しさと、美しさを。

ヒリヒリする記憶と腕の傷、今も見返すことのできない映画。思い出せば胸が苦しくて、刺さったガラスが抜けなくて。いつでも堕ちることのできる暗闇を、今も抱えている。

暗くて美しいもの、悲しくて愛しいもの。

割り切れない感情と思い出を抱えて、わたしは今日も死ねないままでいる。

毎日天使になるのを延長しながら、わたしは明日も、死ねないままでいようと思うよ。

だってこの世界は、どこまでも醜く、どこまでも美しいから。

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