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鳥たちのさがしもの 25

少年は羅針盤を探していた。海沿いの国道を見下ろす高台の公園。海は凪いでいた。金木犀の香りがゆるやかな風にのって流れていく。見上げた空に雲はなく。忘れ去られたブランコのきしむ音に振り返ると、猫が走り去った。

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 鶴岡八幡宮の境内からは海沿いの国道134号線を見下ろすことができる。そこへ真っ直ぐに続く若宮大路。その先の海は凪いでいた。金木犀の香りが緩やかな風に乗って流れていく。すっかり秋だ。
 本宮にお参りを終えて急な階段を降りると、舞殿で結婚式をやっていた。それを見てクリスが声を上げる。
「ワオ。ラッキーだね。一度見てみたかったんだ。そうだヨタカ、俺は来月結婚するんだよ」
「クリスにフィアンセが居るなんて初耳だ」
「ずっと友達だったんだけど、少し前にプロポーズしてね。話したかったのにヨタカが音信不通だったんだよ。状況が分からなかったから一方的にしあわせな連絡はできなかった」
「そうだった、ごめん。……そんな中ひとりでバケーションに来てしまって良かったのか?」
「ヨタカのことは話してある。ちゃんと了解貰って来たよ」
「本当にありがとう。そして、おめでとう」
「随分素直になったじゃないか。さがしものの効果か?」
「I guess so.」
「ははは。ヨタカの口癖を久しぶりに聞いた。……さて、ツルガオカハチマングウも見たし、そろそろヒバリのさがしものをしなきゃな」
 雲雀は妙な緊張を感じた。なんとなく、今日を逃したら二度と記憶が戻らないのではないかと思ってしまう。諦めないと決めたのに。

 鎌倉高校前駅。
 ついひと月前にも来たのに、ずっと昔のようだった。
 クリスは海が見える駅に感激し、夜鷹が暗示に使ったという踏切を興味深そうに見ると、皆を海辺に誘った。
「イリノイ州には海みたいな大きな湖はあるんだけど、海はないんだ」
 そう言って気持ちよさそうに伸びをする。皆で並んで砂浜に腰かけた。
「正式なカウンセリングをしたわけではないからはっきりとしたことは言えないんだけど、ヨタカがかけた暗示にしては、ヒバリが忘れてしまっている範囲が広すぎる気がするんだ」
「どういうことだ?」
 夜鷹が訊き返す。
「他の三人が約二年分の記憶を失っているに対して、ヒバリは、もっと、小学校の頃全体の記憶をごっそり失くしてる。これは、忘れたいっていう思いの強さだけでは説明がつかない」
「確かに、脳の整合性の取り方に個人差があるにしても、極端だな」
「そう。それで考えたんだけど、ヒバリはヨタカの暗示にかからなかったんじゃないかな」
「え?」
 これには全員が驚きの声を上げた。
「でも、俺は実際記憶が……」
「うん。多分それは、本物の心因性記憶喪失だ」
「本物の……?」
「ひとり暗示にかからなかったヒバリは多分混乱した。そして、その後に何かあったんだよ。更に別の何かが。そしてヒバリは、本当に、脳の防御装置としての記憶喪失を発動した」
 それこそ雲雀は混乱した。羅針盤を失った船のようだ。
「どうすれば……」
「原因が暗示にせよそうでないにせよ、記憶を取り戻すためにやることは変わらない。ただ、ヨタカの見様見真似の暗示よりは厄介かもしれない」
「……そうか……」
 笑顔を作ろうと思うのに、とてもではないができなかった。そんな雲雀に代わって燕が言葉を繋ぐ。
「フラッシュバックは……クリスたちの研究は有効なんでしょう? だったら、ヨタカにしたのと同じようなことをやれば……」
「そうだね、ツバメ。それに、失った記憶の範囲が大きいことはデメリットだけではない。キーワードになる可能性があるものが、もっと多いはずなんだ。それのどれかを引き当てれば記憶は戻る」
「それじゃあ、例えば僕たちが撮った写真を全部順番に仕込んだ映像を見続けたりしたらいいんじゃないかな」
「可能性はあるね。でも、それには時間がかかる。映像だけ作って、これを毎日見ろ、ってわけにはいかないんだ。それなら俺たちの研究は要らない。記憶が戻るって言うのは忘れるより大変なことなんだよ。下手したら脳が壊れてしまう可能性がある。だから、それなりの技術者の下、少しずつ、様子を見ながら進めなければならない」
「僕は……危ないことをしようとしていたんだね」
「反動は記憶の量に比例するから、俺はヨタカが心配だった。無駄に記憶力がいいから、余計に苦しんでいるんじゃないかと思って」
「無駄で悪かったな」
「そっか。俺にそんなに反動が来なかったのは、俺が元々そんなに記憶力がいいわけじゃないから……おい、孔雀、笑うな。お前だって無事だっただろう」
「俺はそれなりにきつかったよ。……それより、今は雲雀の話だ」
「……それって、例えば俺がクリスたちの所に行かなければ無理ってことだよな」
「そういうことになるね。今の所ジャパンに同じようなことをやっているところはない」
「無理だよ、そんなの。いきなりアメリカだなんて」
「そうだと思う。ただ、焦らないでほしい。俺たちの研究は日々進んでいるし、ヒバリも成長する。ヒバリがひとりで俺たちの所に来られるようになったら、もしくは研究が進んでヒバリに安全な方法を手渡せるようになったら……」
 それは、いつの話だろう。雲雀が成人したら? だからといってそのためにアメリカに職を求めるわけにもいかない。
「……そうだな……焦っても仕方がない。分かってるよ……」
「雲雀ぃ……ごめん、僕……」
 燕の目から涙が零れるのを見て、雲雀はいたたまれない気持ちになった。
「何で……燕が泣くんだよ。いいよ、泣かなくて。俺は、諦めないから。諦めないって決めたんだ。みんなのおかげだよ。だから……いつになるか分からないけど、待っていてほしい」
 自分の言葉が空虚に響く。諦めない、そう言いながら同時に絶望していた。もう、記憶は戻らないのかもしれない。
 視界を、猫が走り去っていく。
 猫……。
「ひとつ、お願いがあるんだ」
「何?」
 燕がごしごしと腕で涙を拭う。
「イーグルの墓参りがしたい。……いや、思い出したわけじゃないんだ。でも俺、可愛がっていたんだろう? せめて、思い出してやれなくてごめんって謝りたい」
「雲雀……。いいよ、行こう。と言っても、僕は場所を知らないから、三人に案内してもらわないといけないけど」
「当たり前だろ。みんなで行くんだよ」
 斑鳩はそう言いながら立ち上がり、身体についた砂を払った。

 夜鷹の話の通り、そこに墓標は無かった。しかし、その場に膝をついて座ると、雲雀の目から自然に涙が溢れた。
 自分が拾ってここに連れて来なければ、イーグルは死ぬことはなかったのだ。それなのに自分は、思い出してもやれない。自分が可愛がっていたということは、きっと懐いてくれていたに違いない。沢山の時間を、一緒に過ごしたに違いない。それなのに……。
「ごめん、イーグル。ごめんな……」
 これまで抱えていた不甲斐なさが押し寄せてくる。自分は、記憶を失ったことを理由にして、色々なことを諦めて来たのではなかったか。本当はもっと頑張りようがあったのかもしれない。
 イーグルのためだと言いながら、自分のために泣いているのかもしれない。最低だ。
 涙で霞んだ視界に、狗鷲の岩の横顔が歪んで見える。その、狗鷲の岩から一羽の大きな鳥が飛び立った……ように見えた。
 後ろに並んで立っていた皆が反応しなかったので、幻だったのかもしれない。しかし、雲雀ははっとした。
 立ち上がって鳥の飛び立った方向へ走る。
「雲雀! 危ない。そっちは崖だ!」
 慌てて追いかけてくる皆の足音を聞きながら、雲雀は崖の手前で立ち止まった。急に開けた視界。遥か彼方に水平線が見える。その水平線に向かって、大きな鳥の影が優雅に飛んでいく。
 そうだ、あの日も……。
 視界がぼやけ、何か言っている皆の声が遠ざかって行った。最後に、燕が呼ぶ声が聞こえた気がした。

**********

 雲雀の祖父母は雲雀が小学校一年生の時に相次いで他界した。雲雀の父親の兄であるところの伯父の奇行を初めて目にしたのはその時だ。祖母の葬式の席だというのに、雲雀の父親に財産の相続権放棄を迫ったのだ。自らが祖父母の面倒を見ていたからという理由で。事実は面倒を見ていたのではなく、祖父母の年金が目当てだったというのは後から知った。
 祖父母の財産が底をつくと、伯父は雲雀たちの家をたびたび訪れるようになった。父親に金を借りに来るのだ。決して返さない借金。
 最初はその様子を見て見ぬ振りをしていた母親も、そのうち怒りをあらわにするようになった。実の兄を見捨てるわけにもいかないという父親と意見が対立し、夫婦仲は見る見る間に悪くなっていった。
 伯父はいつも、釣りに来たついでに寄ったと言ってやってくる。あの日もそうだった。
 前日の盛大な夫婦喧嘩の後だったからか、父親は少し考えさせてほしいと言って伯父に先に釣りに行ってくるよう勧めた。
 雲雀は、伯父が嫌いだった。だから伯父が戻ってくる前に家を出て秘密基地へ行った。途中で、同じく早く家を出てきた夜鷹と合流した。
 そして、イーグルの変わり果てた姿を発見したのだ。

 踏切を渡った後、ばらばらの方向に歩いて行く三人を見送りながら、雲雀は混乱していた。何故、自分だけ暗示にかからなかったのか。
 今起こったことの明確な記憶を持ちながら、ひとりでそれを背負うことの重さに打ちひしがれて、雲雀は秘密基地へ戻った。そして、イーグルの墓の前で泣き崩れた。どうしていいか分からなかった。
 随分泣いた後、猫の啼き声とも鳥の啼き声ともつかない声が聞こえて視線を上げると、狗鷲の岩から鳥が飛び立つのが見えた。その鳥は、広い海原を大きく旋回すると、後をついて来いと言っているように雲雀の近くまで戻ってきた。雑木林の中でどうやってその鳥が飛んでいたのだか分からない。器用に木の間をすり抜けていく鳥を追っていくと、池に出た。そこで雲雀は、伯父の名前が書かれた釣り道具を見つけたのだ。
 あれは、伯父だった。
 石を神社から盗んだのが伯父だったのかどうかは分からない。しかし、イーグルを殺して石を奪ったのは伯父だ。きっと換金するつもりだったのだろう。伯父の考えそうなことだった。
 雲雀は、伯父の釣り道具を海に投げ捨てた。

**********

 目を開けると、古い木の天井が見えた。
「雲雀、気がついたの?」
 視界に、燕の顔が現れる。雲雀と目が合うと、嬉しそうに笑った。その顔が、心配そうな表情に変わる。
「雲雀、大丈夫?」
 燕の声で、他の皆が近くに寄ってくるのが気配で分かった。次々に知った顔が目に入る。
「……ここは?」
「鷲宮神社の社務所の一室を借りたんだ。奥社にお参りしていたら具合が悪くなったから少し休ませてほしいって言って。……僕が分かる?」
「分かるよ。燕も、斑鳩も孔雀も夜鷹も。それからクリスも」
「良かった」
 燕はほっとしたような声を出し、ここはクリスに任せた方がいいと思ったのか、クリスに場所を譲った。
「無理に話さなくてもいいよ。ヒバリ、よく頑張ったな」
 そっと胸辺りに添えられたクリスの手のぬくもりを感じて、雲雀の目から再び涙が溢れた。皆は、雲雀の涙が止まるのを黙ったまま見守ってくれた。
「……もう、大丈夫。ありがとうクリス。クリスが居てくれて良かった」
 クリスは一瞬顔をくしゃくしゃにして笑った後で表情を引き締める。
「な? 言っただろう? 記憶が戻るって大変なことなんだ。……戻ったんだな?」
「うん。多分……全部思い出したと思う」
「そうか」
「話してもいい? 話したいんだ、みんなに」
「雲雀が話したいなら、もちろん」

「……そうか。雲雀はイーグルを抱えていたから追ってくるのが遅れて、あの男の顔を見ていなかったんだな」
 話を聞き終えた夜鷹が納得したように頷く。
「多分、両親は伯父さんが戻って来なくてほっとしたと思う。まあ、その代わり俺も帰って来なかったから焦ったかもしれないけど。家に帰った時のことはよく憶えていない。気がついたら中学生になってた。伯父さんの遺体が発見されて海釣りの途中に事故で死んだってことになって、両親の喧嘩の原因は無くなったわけで、それで、気持ちを新たにするために引っ越したんだと思う」
「イーグルは……雲雀を助けるために現れたのかもね」
「どういうことだ?」
 燕の言葉に雲雀は首を傾げる。
「雲雀が意識を失っている間に、夜鷹が神社の人に石の話を訊いてくれたんだよ。直接じゃなくて、”五色の由来”として。そうしたらね、ここはちゃんとした祭神は居ないんだって。昔からここに住んでいた人が、度々現れる不思議な鳥を祭ったのが始まりなんだそうだよ」
 鳥…。
「だから普通の神社じゃない。でもあの五色は、やっぱりあの石の色を反映させたものなんだって。あの石は、ずっとあるわけじゃなくて、時々現れるんだそうだ」
「え?」
「驚いただろう? 神社の人は、一日二回、奥社の社殿を確認して石の有無を確かめる。この前石が現れたから、近々何か起こるんじゃないかと思っていたって。……もしかしたら本当に誰かが盗み出して、僕たちみたいにこっそり戻そうとした人が居てっていう繰り返しなのかもしれないけど。それにしてはできすぎだよね」
「この間も言ったけど、俺さ、小学校の時も時々あの大きな鳥を見かけたんだ。考えてみたら雲雀がイーグルを拾ってからだと思う。……あの鳥には俺も随分助けられた」
 孔雀が見えないはずの空を仰ぐように上を向いて言った。
「そっか。イーグルは、僕たちみんなを助けてくれたんだね」
「あの絵……」
「雲雀がタイムカプセルに入れたあの絵?」
「そう。あれさ、やっぱり、イーグルと俺たちだった。離れ離れになっても、絵の中では一緒に居たかった。だから描いたんだ。そのまんまだった」
「そっか。やったね雲雀。イーグルもいつまでも一緒だ。あの絵の中で生きてる」
「自己満足かもしれないけどな」
「それでいいんだよ、ヒバリ。残念ながら肉体はいつか滅びる。その後それをどう扱うかは、生きている人間側の心だ。例えば君の伯父さん。その人のことをヒバリがずっと気に病んでいたら、それは君にとって呪いになる。もう伯父さん自体は居ないのにね。分かるか?」
「分かる……気がする」
「ヒバリはまたイーグルのことを忘れてしまいたいか?」
「嫌だ。もう二度と忘れたくない」
「うん。それじゃあ、ずっと一緒に居ればいいよ」
「……うん。あの絵……大切にする」
「そう、それでいい」

『守り神』-イヌワシ

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この物語はdekoさんの『少年のさがしもの』に着想を得ています。


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