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文字はデザインの素粒子

『Powers of Ten』の衝撃

公園で寝転がる男性を捉えたカットから映像が始まる。画角は1:1。カメラは徐々に上空へと上がり、先ほどまで画面を占有していた男性は点のように小さくなる。やがて地球が宇宙のチリに見えるまで上昇した時、カメラは静止する。今度は徐々に地球に寄っていき、冒頭の男性の皮膚を突き抜け、素粒子レベルまでズームしていく。

『Powers of Ten』はチャールズ&レイ・イームズによって1968年に作られた映像作品で、現在でも教育映画の名作として語り継がれている。私がこの作品に出会ったのは大学生の頃で、たしかエディトリアルデザインの授業で観たのだと思う。私たちが普段目にしている光景から始まり、気が遠くなるようなマクロの視点を見せられたかと思えば、今度はこれまた気の遠くなるようなマイクロの視点に移行していく様子は、ゾッとするほど新鮮だった。

「文字がグラフィックデザインの命だと思っています」

その後デザイン事務所に就職した私は、グラフィックデザイナーとして忙しい日々を過ごすようになった。入社面接で文字に対する愛情を全面に出すことで採用された会社で、あまりのハードさにピュアではいられなくなった。入社して1年経つ頃には、時間のない中でなぜフォントを吟味する必要があるのか、文字間の調整に手間暇かけるのかが分からなくなっていた。

そもそも学生の頃の私は、何故グラフィックデザインにおいて文字が大事なのかを本当の意味で理解できていなかった。「第一線で活躍しているデザイナーがみな口を揃えてそう言っているから」「イラストはイラストレーターが描くし、写真は写真家が撮る。文字を扱うのがグラフィックデザイナーの仕事だから」。その通りだと思う。だけど、どこかの本で読んだことや、誰かが言っていたような言葉は、頭で理解しているつもりでも、本当の意味で腑に落ちてはいなかった。

マイクロ・タイポグラフィの沼

文字間の調整や文字表記の統一など、組版における細かな調整を「マイクロ・タイポグラフィ」、グリッドやレイアウトなど、もっと大きな枠組みのことを「マクロ・タイポグラフィ」と呼ぶ。文字好きを自称するデザインの初心者は、細部にこだわりすぎて全体を見失いがちだ。

かくいう私もその典型みたいな学生で、河野三男さんの著書『タイポグラフィの領域』のデザインについて書かれた雑誌の記事を読んで強烈に憧れた。この本は表紙に何も印刷されておらず、背に書名、著者名、出版社名が印刷されているだけのストイックな装丁。デザイナーの白井敬尚さんは、この少ない要素をデザインするにあたり一字ずつ文字サイズを変え、細かに字間を調整していたのだ。私もそれを真似て、細部の調整に夢中になり、気づいたら外が明るくなっていた、ということもあった。これがマイクロ・タイポグラフィの沼だ。

だが、学生の頃思い描いていた世界とは裏腹に、現実のデザインの現場は(週刊誌をデザインする時は特に)1分1秒を急ぐ戦場だった。0.1mmにこだわってはいられない日々のなかで、全体と細部をバランスよく往復することを覚えていった。

正方形の素粒子

入社して3年弱が経過した頃には、グラフィックデザイナーとして少しは力がついたような気がしていた。そんな或る日、『Powers of Ten』を思い出し、気付く。このマイクロとマクロの往復はまさにデザインをする時の眼と脳の動きである。そして通常、グラフィックデザインにおける最も小さなオブジェクトは文字である。これは『Powers of Ten』でいうところの素粒子である。

日本語の文字は、仮想ボディと呼ばれる正方形の空間をまとっている。もともと筆で流れるように書かれていた日本語は、海外から伝わった活版印刷のシステムに適用させるため、正方形に押し込められた。文字を内包する正方形を隙間なく並べることによって(これをベタ組と言う)、日本語の組版は形成される。これをテキスタイルに例える人もいるが、私はヒトの肉体を形成する細胞のようだな、と思う。

文字が肉体を形成しているのだとしたら、写真やイラストレーションは衣服やアクセサリーと言えるだろうか。生きていくうえではそういった要素も勿論大切だけど、肉体を形成する文字こそがグラフィックデザインの命だ。今では心からそう言える。

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