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私の中にある愛情

尊敬する精神科医の方から、こんな言葉を掛けられた。

『つぐみさんは、どこでその深い愛情をもらったのでしょうね。』

その医師は、私の幼少期のことを知っている。
公にはできないような過酷な(私はそう感じている)幼少期のエピソードも知っている。

『深い愛情…大人になってからのことでも良いのですか?』

即座に私はそう答えた。
私の30代を支えてくれた愛犬チョコの存在が、真っ先に浮かんだからだ。

『違うの。もっと、幼い頃のこと。幼い時に、深い愛情をもらっているはず。』

幼い頃…。
いつ家を追い出されるのか…いつ殺されるのか…いつ私の身体がバラバラになっていくのか…そう感じながら生きていた幼い頃。
一瞬のうちに自分の過去を遡ったが、見つからない。

『もしかしたら、気付かないところで両親からの愛情があったのかも知れませんね。』

私は、その場を取り繕うように、咄嗟にその言葉を紡いだ。
全く腑に落とせないまま。

『そうよ。』

医師は、そうおっしゃった。

きっと、以前の私だったら、この会話で、傷付きを感じていただろう。
怒りから、席を立ってしまっていたかも知れない。
幼い頃の私に、愛情を…まして、「深い」愛情を注いでくれた人なんているはずもない。
一番愛されたいと思っていた両親から酷い行為を繰り返され、身体も心もズタズタになって、それを助けてくれる人も誰もいなかった。
誰かに助けて欲しかったし、他の家庭の子どもたちのように温かい愛情をもらいたかった。
ずっと、そう思ってきたからだ。
そんな私が「深い愛情をもらっていた」なんて言われたら、きっと、「この人は何も私のことを分かってない。知りもしないのに、勝手に傷付けてきた。」と反発を感じていたに違いない…以前の私なら。


でも、不思議と、何一つ反発したい感情が生まれることはなかったのだ。


医師と別れた帰路の車中、静かにBGMを掛けながら、もう一度、あの言葉を想い出した。


『つぐみさんは、どこでその深い愛情をもらったのでしょうね。』


最近では、苦しかったことも含めて、過去を見に行くこともめっきり減っていたが、幼き日々を覗いてみよう。
苦しかったことではない、確かにあったであろう愛情を見つけにいってみよう。

化粧をする時間もないまま、幼稚園バスのバス停まで送ってくれる母、
厳しい顔をしながらも、家計のために内職をしている母、
苦虫を殺したような表情をしながらも、家族を旅行に連れ出す父、
そろばんを習わせてくれた両親、
心身症を患った時に大病院を受診させてくれた両親、

まだまだ、まだまだある。
これらのエピソードには、当然に様々な付帯する場面もエピソードも見えてくる。

気付けば、止め処なく涙を流している自分がいた。
我慢しようとしても、嗚咽して声も漏れてくる。

幼き日々に、愛情なんて一滴もないと思っていた。
余りにも、苦しいこと、耐えられなくなりそうなことが多過ぎて、助けての叫びが大き過ぎて、受け取っていたはずの愛情が隠れてしまっていたのだろう。
もしかしたら、見ないようにしていたのかも知れない。

でも、私は確かに、両親から深い愛情をもらっていたんだ。
それが、何の抵抗もなく、素直に受け留めることができる。
今、こう感じ取り、受け留めることのできる自分で居られることが、何より幸せなことであり、成長しているということなのだろう。
ここまでの自分に成れたのは、今の家族をはじめ、支えて下さっている多くの方たちと、深い学びを吸収させてくれる恩師の存在があってこそである。
そして、成長したい、進化したいと、挑戦を続けられた自分もいる。


私は、両親から深い愛情をもらっていた。


虐待が続いた子ども時代、
助けてくれる人とも出会えなかった子ども時代、
成人すると共に苦しみ始めた様々な精神疾患、
希少難病を背負って寝たきりとなった時代、
大人になっても助けてくれる人のいない時代、
糞尿まみれでの生活にまで追い込まれた時代、
ただただ死だけを望み続けた時代、

そんな苦しい体験の連続で、すっかり愛情を見失っていた。


この言葉を、30歳を超えてから、恐らく初めて口にする。


お母さん、
私を生んでくれてどうもありがとう。
たくさんの我慢を抱えながらも、精一杯育ててくれて、どうもありがとう。
お母さんが今、少しでも笑顔で過ごせている時間を持てていたら、嬉しいです。

お父さん、
育ててくれてどうもありがとう。
お父さんを助けたいと思っていたのに、力が足りなくてごめんね。
お父さんが今、少しでも身体の力が抜けて過ごせていたら、嬉しいです。


虐待の経験なんてしない方が良かっただろう。
だけど、あの経験があり、その後のトラウマによる苦しみがあったから、そうでなかったら出逢うことのなかった学びや人との繋がりが生まれ、今の活動があり、今の言葉があり、今の私がある。

そして、今の私は、自分の人生は最高だ!と、何の誤魔化しもなく、言い切ることができる。


虐待を経験されてきた方たちがこれを読んでくれたなら、不愉快に思われる方もきっといるだろう。
かつての私だったら、間違いなく、最後まで読み切れずに、閉じていた。
でも、今、私がこう感じていることに、何一つ嘘も誤魔化しもなく、綺麗事でもない。
そして、こう捉えることのできる感覚を、独り占めにしたいとも思わない。
だからこそ、こうして綴らせてもらっている。
そして、望む方がいて下さるなら、掴んだ感覚を還元していきたい。


最後に、大きな気付きをプレゼントして下さったMさん、どうもありがとうございます。
見ないようにしていた過去がまだあったことに気付き、そして、その過去には、今の活動にもきっと繋げることのできる深い愛情があったことにも、気付くことができました。
出逢いを、これからも大切にしていきたいです。
そして、Mさんからの学びと気付きを、全身で吸収していきます。


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