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【背番号のストーリー】二年間の悔しさをバネに。最後の夏でつかんだ背番号3


・小学校一年、野球に出会う

小学校に進学してすぐ、野球に打ち込むようになりました。
授業が終わると、友達と待ち合わせの約束を交わし帰路につきます。

家に着くと、バットとグローブを持って約束の公園へ。

そこから毎日野球三昧の日々でした。
プロ野球選手くらい試合をこなしていたと思います(笑)

当然、各チーム9人ずつなど集まるはずもなく…。
8人もいればかなり多い方で、普段は5.6人で独自ルールを作りながら試合をしていました。

ストライクか、ボールか。フェアか、ファールか。点が入ったかどうかなど。よく揉めていました(笑)
それでも、ケンカもしながらただただボールを追いかけるのが楽しい日々でした。

・小学校四年、念願の野球部へ

僕の小学校では部活に入れるのは四年生から。
三年生までは近所の公園でひたすら試合をしながら、野球部に入れる日を待ちわびていました。

そして迎えた四年生。入部届けに「野球部」と記し職員室に持って行ったことを今でも覚えています。

公園の時のように半袖・短パンではなく、しっかりと練習着を着てやる野球は何倍も気が引き締まる思いでした。

・晴れて居残り練習組へ

チームの最終目標は夏休みに行われる市主催の大会。
この大会に出場する18人のメンバーに入ることが個人の最大の目標です。

全校生徒1000人に迫るマンモス校だったこともあり、野球部もそこそこの人数が所属していました。(3学年で50人以上はいたと思う…)

顧問の先生は完全実力主義。
練習はA班・B班に分けられ、4年生でA班に行くこともあれば、6年生でも実力が伴わなければB班のまま。

B班の練習は副顧問が担当し、練習時間も1時間以上早く切り上げられました。
つまり、メンバー入りにはA班に入るのが絶対条件です。

入部してすぐ行われた実力テストで、3年間公園で培った実力を遺憾なく発揮した僕は、無事4年生でA班入りを決めます。

・毎日日暮れまでボールを追う

そこから、日没まで練習が続く日々でした。
全ては夏の大会でのメンバー入りのため。
毎日、休むことなく練習に取り組みました。

大会前の練習試合にも帯同し、メンバー入りに向けた希望を抱いていましたが…

・貰えなかった背番号

四年生の夏、メンバー入りはならず。背番号をもらうことは出来ませんでした。悔しかったのは共にA班に入った四年生の5人中3人がメンバー入りしたこと。本当にあとわずかなところでメンバー入りは叶いませんでした。

そんな悔しさを胸に迎えた五年生。
一つ上の学年はレベルが高い子が多く、レギュラーはほぼ固定状態。
控えメンバーの枠を巡り、この年も熾烈な争いが繰り広げられました。

前年に続きA班で汗を流す日々。
練習試合での出場機会も増え、自分の中では間違いなくメンバー入りした自信がありました。

・またしても貰えなかった背番号

しかし、またも背番号をもらうことは出来ませんでした。
メンバー入りしたのは去年と同じ3人でした。
この時は流石に悔しすぎて涙しました。

夏の大会も応援に行ったとは思いますが、悔しすぎて全く記憶に残っていません。

・一筋縄ではいかなかったラストイヤー

2年間の悔しさを胸に迎えた六年生。
ようやく巡ってきたファーストのレギュラーポジション。

しかし、一筋縄では行きません。
五年生ながら打撃・守備で高いパフォーマンスを見せていた子がファーストで起用されることとなったのです!
思わぬライバル出現。練習試合でもその子がファーストのスタメンで起用され、ベンチを温める日々。

2年間の苦しい思い出が頭をよぎります。
「また今年も背番号をもらえないのか…」

しかし、考え過ぎて抱え込んでも仕方ありません。
メンバー入りを信じ、ただ練習に取り組み続けました。

・最初で最後に掴んだ背番号

迎えたメンバー発表の日。
顧問の先生がファーストのレギュラーを表す背番号「3」を渡してくださったのは僕でした。
この時は喜びより先に安堵の気持ちがありました。

とにかく、3年間続けてきて母親に背番号を見せられて良かったなと。
毎晩夜遅く帰ってくる息子に合わせてご飯を作ったり、塾まで送り迎えしたりしてくれていた母親にも二年間悔しい思いをさせていました。

そんな母親に3年間頑張ったことを形にして届けられたことが一つの喜びでした。

母が縫い付けてくれた背番号「3」がついたユニフォームを初めて着たときの興奮は今でも忘れられません。

12歳の夏の#背番号のストーリーでした。

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