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ひとり、ということ。

久々に映画を観た。

prime videoをあさっていてなんとなく気になった、『やわらかい生活』という映画。

実は寝落ちしてしまって、最後まで観ていないのだけど、それでも観てよかったなと思う。


蒲田という町の、銭湯の2階の部屋へ引っ越してきた主人公の女性が、屋上で洗濯物を干すシーン。


このシーンを観れただけでよかった。

ものすごくきれいに晴れた青空のもとで、風に吹かれて洗濯物を干していく。

干し終わると椅子に座って、つっかけサンダルを脱ぎ飛ばして、素足で床をペタペタと鳴らしてみる。

その陽の光や風に包まれているだけで、もうなにもいらないなと思えてしまうくらい、静かで満ち足りていて。

でも、みんなの時間から置いてけぼりにされてしまったような心細さや寂しさ、ちょっと苦しいような気持ちにのみこまれてしまいそうな気もする。


満たされているけど、寂しい。
限りなく自由なような、心細いような。



そんな、ひとりになる時間

ああ、わたしだけじゃないんだ。

みんな、見えないどこかで、こんなふうにどうしようもなく
ひとりの時間に包まれたことがあるんだ。


忘れ物をして、放課後の誰もいない教室に入ったとき。
一人で教室を移動していて、階段の踊り場の窓から差し込む木漏れ日に見とれたとき。
休みの日の朝、だれもいない家がやさしい光に包まれていた時。


お母さんだったら、家族がバタバタと出かけていった家で、やっと一息つくときとか、
お父さんなら、仕事帰りの駅のホームで夕焼けをみるときとか、かもしれない。


みんな、だれにも見えないところでひとりになる瞬間がきっとある。


みんな一人でひとりになるし、自分で自分を見ることもできないから、ずっと隠れていたんだなあ。
映画のワンシーンを通すことでこそ、見えるものなんだと思う。

生きることを考えるとき、誰かを好きになるとか、誰かの役に立つとか、誰かを傷つけるとか、わかりやすいものばかりに目を向けてしまうけど。

誰に認められることもなく、なんの意味も役割もないような
ひとりの瞬間こそ、人が生きているってどういうことなのか、まるごと語っているような気がする。


誰ひとり、同じ世界を見ていない。
すべての人が、違う命を生きている。

みんな同じように、違う"ひとり"なんだ。


自分の周りに、世界とか社会とかがあるように感じられても、ほんとはそんな塊はなくて、
ただ、”ひとり”が集まっているだけ。



ひとり。

ちっぽけで、まぶしい。

みんな等しくちっぽけで、思っているほど大袈裟な存在じゃない。
だけど、気づいてしまえば直視できないほどまぶしい輝きが、ひとりひとりに宿っている。


誰だってどうしたって、
じぶん以外にはなれないし、

じぶん以下になることも、
じぶん以上になることもない。


そんなことを感じていたら、

もっと上に、もっと前へ、もっと輝こうと必死だった心が、少しだけやわらかくなっていた。

ちっぽけでまぶしい、ただ生きていることの輝きを、いつだって心の片隅に宿しておきたい。






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