見出し画像

学び方。2


チョキチョキ…後半です…φ(≖ω≖。)ヘヘヘ…✧


言葉がもたらすモノ。

こう振り返ってみると、何だか語学学習みたいだなと本当に強く思う。


というのも、私の母語は日本語なので、日本語であれば当然ながら聞き取れる数も多いのだが、音やリズムが似通っていたり、人によって発音が違うと言葉として認識するのが本当に難しい。その上で、雑音が多い場所だと、もうグチャグチャだ。

そのため、何とか会話を続ける方法として、何となく聞こえたモノをゆっくりカタコトでリピートする。ちょっとバカっぽいが、これには理由がある。

聞き取って理解できるまで聞き返したいのは山々なのだが、そうなるととにかく時間が掛かる上に、何百回…というと少々語弊はあって大袈裟に思われるかもしれないが、何遍聞こうが、どれだけハッキリ言ってもらおうが中々言葉として認識して意味を理解することが難しいことが実際本当に多い。言い訳すると、聞こえてくる音と言葉が何故か中々繋がらないのだ。(聴力検査は問題なし)

こうなると当然ながら気分を害す人は多く、相手への印象は悪くなる一方で、最悪の場合、人間関係にも支障をきたすといったことを過去に何度も経験してきた。

それで編み出したのが、このカタコトリピート法なのだ。これは、なるべく怒られずに聞き返す別の方法であると同時に、自分で言葉として認識するための第一段階作業も兼ねている、正に私にとって画期的な手段なのだ。

普段は認識/理解できないことでヘコみ反省することのほうが多いのだが、中にはあとになって気付く嫌味/悪口もある。ただ、その場で理解できていないことがまるで笑顔でスル~反応っぽくなっているようで、結果的に相手も段々普通に接してくれるようになっていたなんてことも度々あるので、すぐに理解できないのも案外悪いもんじゃないな、と最近では都合よく考えれるようにもなった。図太さや恥しさ等といったモノを越えてカタコトリピートをするようになった経緯の一つとして、この捉え方の変化も大きく関係している気がする。

また、視覚からの場合であっても、意味が難しい日本語や文を理解するために英語を交えながら調べたりする時もある。始めは英語の勉強がてらしていたのだが、これが結構分かりやすいし、日本語の勉強になるのだ。(英語の勉強はドーシタオィ

もし、日本語が分かりにくいなと思っているのであれば、一度試してほしい。(エイゴノベンキョウハドーシタ

英語を介す一番の大きな理由は、別の視点/思考(英語)から知るということが、本来知りたいことへの理解力を飛躍的に高めてくれることに大きく繋がっているからだ。思うに、日本語は長文の割に曖昧であったり、難しい言い回しが多く使われていたりするので、炭治郎並に全集中して読み終えた後は、あしたのジョー並に真っ白に燃え尽き、セイジカ並に何も記憶に残ってないことが多い。その一方、英語にも難しい言い回しは多いとはいえ、英語の説明はシンプルで明確に伝えてくれるので要領がとても掴みやすく、思考もクリアになるため、その英語を介すことで日本語の意味が分かることが多い。だからもう、日本語の勉強にはモッテコイなのだ!(ソシテ英語のレベルはBEGINNERのまま!!! ∑Ξ┏┗(´ิq´ิ)┓┛キェェェェェェィイイイイイイイ


ただ、言葉がなくとも出来ることは一杯あるし、むしろ言葉がある故に生まれる誤解やすれ違いの煩わしさにも理解出来ず、苦しい思いや嫌な経験を沢山してきた。そうした中で、言葉なんか無かったら良かったのに…!と何度も何度も思ったことがある。

それでも、時間の経過や失敗といった苦い経験とともに、知ってか知らずか、そこから得てきたモノは多く、少しずつ、本当に少しずつ認識/理解できる言葉が増えていくにつれ、言葉がもたらしてくれる実りが大きいことに、最近になってようやく気付けるようになった。そうやって一つ一つがアイデンティティーともなり、唯一無二の自分を作り出すことにも繋がるので、本当に言葉というものは深くて難しいが、面白いとも思う。


noteを書く、ということ。

今でも認識/理解するテンポは遅いとはいえ、子供の頃はどの言葉も宇宙語のイメージでしかなかったのが、以前と比べれば理解できることも確実に多くなってきたお陰で、そこから知りたい/学びたい事柄へと繋げることが出来るようになり、とても楽しい。

そしてまた、色々な考え方/感じ方/表現方法が集まるこの広場的なnoteの存在が、より一層普段の生活に深みと彩りを与えてくれている気がする。

何を今更、と言われそうだが、本当その通りだ笑。


実は、自分で書き始めるよりも随分前から、ちょくちょく色んな人のnoteを読むことは多かった。なぜなら、視覚で色んな人の価値観を知ることができる機会は、話す/聞くといったコミュニケーションが苦手な私にとって、雑音や顔色を気にせずできる対話のような時間であり、そこから得るものは非常に貴重で、とても大きな意味を持っている。

ただ、noteに限らず、ある意味"皆"が見れるモノというのはそれだけ影響力もあり怖くもあるのだが、それでも発信することを始めたのは、人ともっとコミュニケーションが取れるよう言葉を磨きたいと思ったからだ。

今まではインプットを重点的にしてきたので、これからはそのインプットしてきた言葉を活用しながら、少しずつ自分の考えや感じていることを発信していきたいと考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?