読書メモ、今日の芸術

岡本太郎、読んでみた。
諸々の細かいことではなく、根源的なことしか語らない。名作だと思う。
詳細より、存在を語っている感じである。

●芸術の捉え方
さまざまな、美術史や絵画の解説本を読んできたが、なんかしっくりくる説明がないなぁと不満に感じることが結構多かった。
おそらく、ざっくりした時代背景とか、作家の人生の表面を解説したもの、絵画の構図の説明などに終始していたからだと思う。
しかし本書は心の奥の方に言葉が届いてきたように感じる。
著者によると、芸術とは当時の”生活形式”の営みから生じる、強い感情や、思考、モノの見方の発露なんだと説く。

たとえば、西洋の裸婦画は日本人にとって理解しづらい。西洋での生活形式だと、個室によるプライベートとパブリックを厳密に分ける発想のもと、生活が営まれていた。画家が捉えようとしたのは、個室という私的領域に分け入り、親密な人間関係を結べるという、生活事情に基づいた感情の発露だったのだ。
一方、日本の場合、長屋などの生活形式だっただろう。障子や襖といった、私的領域の感覚がまったく違う営みだったはずだ。指一本で障子が破れ、四方から見られる可能性がある。そんな形式を営んでいたら、西洋由来の完全にプライベートが区切られていて、個人と個人で結ぶ2人の関係性の感情の発露がわかりにくいのも当然ということだろう。日本における裸婦や、性愛的な生活感情は、春画として結実している。これも形式の違いによるものだろう。

セザンヌらの果物の写実も同様である。なんで果物の絵が芸術なんだと思ったことがある方も多いと思う。これは、フランス革命を筆頭に、市民革命が吹き荒れ、王権から市民への主権の移行が起こったことに端を発する、生活形式の変化により、生み出されたものだ。つまり、当時はブルジョワジー階級の食卓上にも果物が並ぶようになった、その形式から見える、感情や思考、モノの見方を提示している。

なんともすばらしい説明ではないか。
絵画や新しい芸術を見るなら、生活から生じる、感情や思考、モノの見方を捉えようとする必要がある。それを捉えるには、芸術とあなたという存在を対峙してみることが大事だと問うているように思うのだ。

●技術と芸術
ルネサンス以前は、絵描きのほとんどは、技術であった。
つまり、いかにうまく書けるかという技巧のだった。
文字を読めない人がほとんどだった時代において、カトリック教会はキリスト教の教えを宗教画で提示していた。その時代の絵描きは、教会の依頼など、すでにあるものを、いかにうまく描くかであった。
すでに存在するものを、身体で繰り返し訓練することを技術と呼んでいる。

一方で、芸術はこれまでに存在しなかった、新しいモノ、感情、思考を創造するものであると言っている。先に述べたように、裸婦や果物の静物画で、生活形式の変化によって生じる、感情や思考を提示した作家たちは、芸術である。

大阪万博で、高度成長真っ只中の世。
近代の生活様式を、皆が享受できるように変化していた時代。
丹下健三の設計した、お祭り広場の、剥き出しの鉄筋が直線的に空と地上を分ける中、その中心を太陽の塔でぶち破った。
豊かで、近代的で直線的な生活形式、その現実の中に生きていた岡本太郎が、芸術として提示したかったことが、わかる気がするではないか。

つまり、芸術はうまいとかヘタとかではないのだと言っている。今この瞬間に、自分という存在と置かれている現実の生活形式との格闘の中で、新しい生活感情や思考を紡ぎ出そうとする意思が芸術なんだと。
おそらく岡本太郎にとっては、生き方そのものだったのだろう。

それがよくわかる名著だった。
こんなふうに考えていると、50年ほど経過した次の大阪万博も楽しみである。

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