意見を言えることの価値

夏も中盤頃でしょうか。
お盆が近づいているのを、日々の生活から感じる、空模様と気温が連日続いています。

さてお盆といえば、地元の友人と会う方も多いでしょう。わたしもそのひとりです。

複数人で、集まってご飯を食べるかというシチュエーションになっていたのですが、1人がコロナに罹ったため、さてどうする?と仕切り直す展開になりました。

特に相手を評価したりといった文脈ではなく、単純に人はどうやって合意形成をするのか観察してみようと思って、観察してみました。

1人がどうすると切り出したのですが、誰も発言をしないまま1日以上が経ち、時間もなくなりそうなので、わたしから意見を発信しました。やった方がいいと思う、と。そのあとは、自分もそう思うという意見が続きました。

もちろん自分が発言しなくても、誰かが意見を表明していた可能性はあります。しかし、ほとんどの人が読んでいたであろうし、最初の意見が出たあとは、後発でみな実施したいという意見だった。でも自分から表明するものはいなかった。

意見を表明することは、ある種勇気と怖さを伴います。
ある事象に対して、イエスorノーをはっきりと主張することだからです。今回の場合、イエスを主張すると、もしかすると参加できない1人に嫌な思いをさせてしまう可能性もあります。
(ここでいう意見は、立場がわかることです。「行ってもいいし、次の機会でもいい」といったコメントは意見には含まないと考えています)

なにかを決めることは、反対の立場もしくはその他の可能性を、切り捨てることと同義に近いです。
だから意見を最初に言える人は少ない。そしてだからこそリーダーシップが取れるとも言えるのです。

わたしの場合も、最初に意見を言うのは少しためらいがあることをメッセージを送る前に心のどこかで感じていました。意見を表明するために、サポートできる考え方はあるか。

たぶん間違っちゃいけないとか、人を傷つけてしまうかもとか、角が立ってしまうという感覚があるからではないでしょうか。前提に、どこか完璧な意思決定があるのではないかと考えている可能性もあります。わたしもそのような感情が心の中に湧き上がってきます。

しかし前提として、完全な意思決定などありません。少し話が大きくなりますが、人間の歴史の中では、後から振り返ると「ヤバすぎる」意思決定が起こったことなど無数にあります。わかりやすいところでは、戦争といったところでしょうか。太平洋戦争ところの日本軍の意思決定などを分析した「失敗の本質」などをみてみると大変おもしろい意思決定が学べます。

そんなことに比べると、自分の小さいプライベート範囲や、会社の会議などでの意思決定場面で、意見表明したところで影響の範囲なんてたかが知れています。人間の意思決定なんて、歴史的にどんなに頭がいい人たちでもたくさん間違っているし、自分の意見が正しいという前提を、とっぱらえれば、そこまで肩の荷を背負い込まなくていいと思えるはずです。つまり自分の中にある前提を疑って、少し変えてみる。

実際意思決定なんて、時が経ってみないとわからないことが、ほとんどではないでしょうか。自分が考えているシナリオなんて、万物が流転して、変数の多すぎる世界の中では、無力でしょう。
言い換えると自分のシナリオ通りにいくはずと思っている方が、傲慢とも言えそうです。

だから、もっと気軽に意見を表明していいと思うのです。
子供の頃は、みんな思ったことを言えたはず。
わたしたちは民主制の国家体制の中に生きています。
それぞれが異なる固有性を持ち、それぞれの立場で感じた意見や知恵を集計集約して、想像力を補うための政治制度です。
普段から意見表明を気軽にしていけるといいのではないかと思っています。

よしあしは 後の岸の 人にとへ われは颶風に 乗りて遊べり」与謝野晶子の詩です。
自分が言っていることや行動していることの良し悪しは、後世の人の判断に任せるしかないから、自分は今を信じてやっていこうという、ちょっとした諦観も含みつつ、明るく軽やかな心境もこもっているように聞こえる、名詩だと思います。

自分は間違っているし、みんなも間違っている可能性があるんだという前提を持って、気軽に意見を言えるようになりたいものです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?