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あれから10年。親としての現在地

発達障害の息子と育児ノイローゼの嫁から家族の本当の幸せを教えてもらった話 を書いてからおよそ10年が経ちました。

今は長男は高校3年生、次男は高校1年生、長女は小学6年生に。
我が家がドン底だったころを思い返し、ときどき今でも自身が書いたブログを読み返します。

今、読み返しても見ても、後悔の念がうかがえます。
被害妄想も入っているかなとも思いますが、書いてないとやってられなかったのでしょう。

「あれから10年経ったね。その続きを書いてみたら?」


妻が私の日記に気がつき、私なりの葛藤に寄り添ってくれました。
それを機に「親向けの発達障がい座談会」を始めて、同じ孤独を抱える親御さんの話を聞く場を創りました。

今の苦しみは10年前の私だ。
話を聞くたびにそう感じます。
だからこそ何かしらの解決策を提示するのではなく、ただ話を聞いて寄り添うだけの場。

自分が思い描いた親という理想と現実が嚙み合わない。
理想と現実の「綻び」は話を聞くことでほぐれていく。

相談会では話し相手ではなく「聞き相手」になることを心がけています。

そんな妻が「続きを書いてみたら?」と言ってくれました。


コロナ禍で実施したオンライン座談会

我が子の障害に合わせた振る舞いが 他人には「甘え」に見えたりする。 私も甘えさせたくてやったわけではない、それしか選択肢がなかったから。それくらい追い込まれていた。 オススメできないけど、親も子も葛藤しながら決断していく、決断が間違っていることもある、変える決断で道が開けたりもする

Xでの投稿

親向け座談会で伝えている3つのこと


座談会では「聞き相手」に徹していますが、伝えていることは以下の3つ

1.子どもの味方であり続ける
2.子どもの居場所をつくる
3.子どもの味方である自分を楽しむ

3の自分を楽しむは親といて身勝手かもしれませんが、親だって人間。
子どもに寄り添いすぎることは奴隷になってしまうリスクもあります。
障がいのある我が子のためとなりすぎると苦しむのは自分だけ。

外野の「育て方が悪い」を真剣に受け取っているとやってられません。

私は子どもとの鬼ごっこが趣味マラソンになり、公園でのサッカーがフットサル通いになりました。
「子どものためが自分のため」のスタンスが良いかと思います。


できなかった後悔の念


この10年でドン底から這いあがった我が家
しかし振り返ってみると「できなかった」後悔の念が湧き上がっていました。

それは

良き思い出という写真が残されていないこと

正直私自身は悩んでいないのですが、妻は写真が残っていないことに執着しているようでした。

「写真がない」イコール親としてできなかった過去を責めてしまう。

写真はパソコンに保存していたのですが、誤って破棄をしていました。クラウドに保存していたはずの画像データも見つからず、過去のSNSに投稿した画像から洗いざらいかき集めました。

子どもから写真を求められているわけでもないのに
自分の過去を責めるために写真に執着しているのではないか

時にそんな風にも思ったのですが、これが彼女の生きづらさなのでしょう。家族それぞれが持つ後悔の念、生きづらさには寄り添っていくしかない。

10年前は決して過ぎ去った過去ではないのです
そんなことを気づかされる出来事でした

生きづらさに寄り添う


調子が善し悪しの波が激しい長男、気を遣いすぎる次男、我慢をしつづけてきた長女、そしてマイペース過ぎる私。

家族それぞれ生きづらさを抱えいます。

私も仕事の悩みは子どもに聞いてもらうし、ただの愚痴でも働くことの大変さがいつかわかってくれると信じています。家族は運命共同体。

これから社会人に向かう子どもたちはどうなるかも分かりません
最近は「孫の顔を見るのもあと何年か」なんて話を妻ともしますが、孫をつくるかどうかは子どもたちの人生。

孫が見れたらラッキーだし、見れなくても子どもたちの決断だと思って
いつまでも親バカでいたいと思います(孫バカではなく)

これからも山あり谷ありのツボ家ですが、どうか見守ってあげてください。
私の育児日記が誰かしらの役に立ったらこれほどうれしいことはありません。

もし今、育児で孤独を感じているのであれば勇気をもって話しかけてみてください。インターネットで面と向かって話ができる時代、距離はあっても声を聴くだけで寄り添えることはできます。

また育児や家族の現在地を書きますので読んでやってください。
最後まで読んでくれてありがとうございました。

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愛犬も我が家に寄り添ってくれた大事なメンバー




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