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私の本棚~村上春樹の言葉メモ~

読書感想の場としてのnote


気が付けばnoteは読書感想文の場になっています。

今ではだいたい寝る前に、何かしら本を手に取り、付箋を貼っています。貼った付箋は自分への戒めとしてnoteにまとめて再読、そんな習慣を続けています。

読書録のnoteが更新されなくなったら、それは本を読めていないということでしょう。


週末の本との出会い習慣


本に出会うために土日の新聞の書評、特に日経新聞 土曜にある「リーダーの本棚を好んで読んでいます。

新聞で紹介されている本を図書館で探すのって宝探しをしているようで楽しい。


最近では自分に足りない知識は常にアップデート!というよりも王道のビジネス本を再読する機会が増えているように思います。

「リーダー」「マネジメント」の名著は古びない。いつなんとき手に取っても学びに遅すぎることはないのです。


ビジネス書ではない 私の行き着いた本


リーダー論やマネジメントといったビジネス本以外で私がしばしば手に取るのは村上春樹のエッセイです。

村上春樹の言葉は自分の性に合っているのだと思います。彼の言葉は私にとっての聖書といっても過言ではありません。


「走ることについて語るときに僕の語ること」より


そんなわけで今回は村上春樹の言葉をピックアップしていきます。

まずは「走ることについて語るときに僕の語ること」から

誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走るようにしている。

いつもよりも長い距離を走ったぶん、結果的には自分の肉体を、ほんのわずかではあるけれど強化したことになる。腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらその分自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。

在宅勤務が定着したことで、日々の通勤時間は走る時間に成り代わった。毎日走るとまではいかないが、「走る」ことで自分の毒気を抜いている。そんな走るきっかけを作ってくれたのはこの本。


日々走り続けること、意思の強弱とのあいだには、相関関係はそれほどないんじゃないかという気がする。僕がこうして二十年以上走り続けていられるのは、結局走ることが性にあっていたからだろう。

世間的にデキると言われているビジネスリーダーがマラソンやトライアスロンに挑むのは、あえて意識的に孤独に戦う場を拵えているんじゃないかと。


学校で僕らが学ぶもっとも重要なことは、「もっとも重要なことは学校では学べない」という真理である。

真理と言い切っているところが好きww


そう、ある種のプロセスは何をもってしても変更は受け付けない、僕はそう思う。そしてそのプロセスとどうしても共存しなくてはならないとしたら、僕らにできることは、執拗な反復によって自分を変更させ(あるいは歪ませ)、そのプロセスを自らの人格の一部として取り込んでいくことだけだ。やれやれ。


「職業としての小説家」より


続いてはこちらのエッセイ。


ポーランドの詩人ズグニュフ・ヘルベルトは言っています。「源泉にたどり着くには流れに逆らって泳がなければならない。流れに乗って下っていくのはゴミだけだ」と。なかなか勇気づけられる言葉ですね。

自分がゴミになっていないか、と自問するときが多々あります。


僕にはひとつ個人的ルールがあります。それは「けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ」ということです。批判に納得がいかなくてもとにかく指摘を受けた部分があれば、そこを頭から書き直します。指摘に同意できない場合には、相手の助言とはぜんぜん違う方向に書き直したりします。

最後の一文に「らしさ」が出ていますよね。こういうのがユーモアなんじゃないかなって思います。


今でも覚えているのはなぜか、どちらかといえばネガティブな体験の方です。思い出して楽しいことよりも、むしろあまり思い出したくないことの方がよく思い出します。結局のところ、そういうものごとからの方が、学ぶべきことは多かったということになるのかもしれませんね。

ネガティブをうまく消化させる、それをしっかり肥料にできるかで、表に出る花という結果に関わってくるのかも。


ちなみに僕の場合の「悪魔祓い」は走ることです。かれこれ三十年ほど走り続けているのですが、毎日外に出て走ることで、僕は小説を書くことで絡みついてくる「負の気配」をふるい落しているような気がします。

私は小説家ではありませんが、企画書やレポートといったアウトプットで飯を食っています。いずれにしても世に出るものを出すためには何かしら「悪魔祓い」は必要。

私も走ったり、サウナで「悪魔祓い」をしています。厳密には汗によって毒気を出しているわけですが、それを「悪魔祓い」と表現するのが村上春樹だなって思いますね。


「みみずくは黄昏に飛びたつ」より


エッセイではなく、川上未映子さんとの対談からの抜粋です。



村上 文章が停滞していれば、同じことのただの繰り返しになるけれど、文章さえ更新されていれば、血肉をもって動き続けていれば、すべてが違ってきます。

-村上さんは、文章の中で一番大事なものはリズムだとおっしゃっていますが、それはリズムを突き詰めていくということでもあるんでしょうか。

村上 そうですね。響き、リズム、そういうものが自分の中で、前とは違っているという確信がなければ、やっぱり怖いんじゃないかな。

正直、なぜここに付箋を貼ったか記憶にないのだけどおそらく「リズム」と言う言葉の重要性を記憶に留めたかったのだと思います。リズムさえできれば「停滞」は免れるのではないかと。


-好き嫌いではなく、あくまで評価の低いものに対しての言及は必要だと思いますか?

村上 思う。でも、そこには例えばユーモアの感覚が必要です。赦しの感覚というか、うまくすっといなしてすれ違うだけの余裕がなくてはいけない。肩がどんとぶつかっちゃうようじゃだめです。

ネガティブにこそユーモアを散りばめる。余裕や余白がなければいけませんね、何事も。

「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」より


ふたりの対談集の言葉です。河合隼雄さんの言葉多めですが、それは聞き手が村上春樹だからこその言葉だと思います

河合:愛し合っているふたりが結婚したら幸福になるという、そんなばかな話はない。そんなことを思って結婚するから憂うつになるんですね。なんのために夫婦になるのかといったら、苦しむために、「井戸掘り」をするためなんだ。


河合:生きた人間にエロスを向けている人はすごく多いですよ。
村上:でも、いちがいにどっちがいいとは言えない
河合:言えないです。結局、自分がどういう生き方をしていくかということだと思うんです。


河合:
奥さんのほうが夫婦のあり方というのを大事にしだしたりすると、悲劇が起こるんですよ。奥さんも、「夫婦のあり方」なんて放っておいて、子どものことに一生懸命になるとか漬物を漬けるのに必死になるとかなれば、なんとなく安定していっているのですがね。


河合:
ぼくは何をしているかというと、偶然待ちの商売をしているのです。みんな偶然を待つ力がないから、何か必然的な方法で治そうとして、全部失敗するのです。


河合:
わたしが自分の仕事を、相談に来られた人が「自分の物語を見出していく」のを援助することだと思っているのが、それほど間違っていない、と傍証してもらっているように感じるのです。


河合:
ぼくらのような仕事では、そういう意味で、善悪の判断とふつうと変わってくるんですね。ふつうだったら、たとえば「死ぬ」と相手が言ったら、「やめときなさい」とか、あるいみは不登校の子には「なんとか学校へ行きなさい」とか言うでしょう。ぼくらのようになってくると、「学校へ行っているのも行っていないのもええなあ」となってくるし、「死ぬの
もそう悪くない」ぐらいになってくるのですね。そうでなかったら会えないわけですよ。


河合:
結局深く病んでいる人は世界の病いを病んでいるんですね。それでぼくはなんとなく社会に発言するようになってきたんですよ。


河合:
『ねじまき鳥クロニクル』で、主人公の妻が突然いなくなるのは、まったく現在の状況にマッチしている。多くの家庭で、象徴的に夫や妻が消え失せている。そして、そのことに気づいていないひともいる。

心理学者である河合さんの言葉にはハッとさせられる言葉が多いです。今でも時々見返す本です。

まとめ


こんなに村上春樹が好きなのに村上春樹ライブラリーに行っていないのマズイのではないかと思いました。

図書館やAmazonで本を検索するのもいいですが、自分の本棚から常に手に取る本を常備しておけば、人生はそれなりにマシな場にはなるんじゃないかと。

そんなわけでこれからも「読書感想文」はしっかり書き残していきたいと考えています。良かったら記事へのいいね!やフォローをお願いします。あなたの評価が私の書く意欲に繋がりますので


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