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さっちゃんは行方不明【掌編小説】

「ねぇ、携帯。一晩中なってたじゃん。旦那さんでしょ。大丈夫なの」
男は、冷蔵庫から取りだしたボトル入りの水に口をつけ、私のスマホに目をやった。昨夜ソファに置いたはずのそれは振動で転げ落ちたのか、今はフローリングのうえでブブブと耳障りな音をたてて震えている。

「いいよ。心配させとけばいい」そう答えると、ベッドに戻ってきた男が「お前 全然変わんないね」と、哀れむような視線を私に向けた。

四年ぶりに訪れた、ワンルームのアパート。一緒に暮らしていた頃から使っていたベッドには、見慣れない水色のシーツがかけられている。生活能力に欠けたこの男が一人で家具屋に行くなんて想像できないから、きっと出入りする女が買い与えたのだろう。

もう二度と会わないはずだったけれど、アドレスを整理するのが面倒で消さずにいた男の連絡先は、思いがけず役立った。「一晩、泊めてくれない?」電話越しにそう尋ねると男は、「いいけど。泊まっておいてやらないとか、つまんないこと言わないでね」と笑った。
面倒だった、なんて嘘だ。こんな日が来ることを見越して、私は男の連絡先をずっと消さずにいた。

男が、私の肌に指を這わせる。
「いつかこうなると思ってたけどね。あんたが結婚するなんて、冗談かと思った。タマキは、こっち側の人間でしょう?」
一重の鋭い目が、いたずらっぽく歪んだ。昔働いていたキャバクラの客だった男は、未だに当時の源氏名で私を呼ぶ。実家の猫に一文字足して、三十秒で決めた名前。男にタマキと呼ばれるたびに、私は自分が誰なのかよくわからなくなる。

昼近いことを告げる日差しが薄いカーテンから漏れて、男の肌で揺れる。夫よりも骨ばった指が脚の間に滑りこんできて、私は安堵する。
「一晩中やってもたりない?」
私に覆い被さりいやらしい笑みを浮かべている唇を、指でなぞってみる。現実の痛みを忘れさせてくれるという一点だけは、この男の美徳だと思う。

***

どの時点なら、引き返せたのだろう。数ヶ月前まで、私は幸せのぬるま湯にたっぷりと浸かっていたはずだ。

優しい夫、第一子の妊娠、周囲からの祝福。
白く塗り固められた完璧な記憶。

あの頃に戻れたらと思うけれど、戻っても結果は同じだ。子宮のなかにいた細胞は、どうせ育ってはくれないのだから。

切迫流産で絶対安静。一人目の医者はそう言った。
二人目は「望みはないから手術の日取りを決めましょう」と私に迫り、三人目は「ほうっておいてもいいですよ。重い生理のような、軽い陣痛のようなものがはじまって、もうすぐ勝手に出てきますから」と微笑んだ。

結局なにも決められないまま日々は過ぎて、三人目の医者が言ったとおり、成長を止めてしまった細胞は自宅のトイレを赤く染めて流れていった。

等間隔のリズムで襲ってくる痛みに耐えている間、夫の携帯に電話をかけても応答はなかった。夜七時。いつもなら、夫も仕事が終わり帰宅している時間だった。

『どこにいるの』
ベッドに戻れず廊下に這いつくばって送った私のメールにも、返信はなかった。すべてが終わってから帰宅した夫はスーツ姿のまま、大きな体を縮こまらせて土下座し、「ごめんなさい」と声を震わせた。
「どこにいたの」という私の質問に、ちいさな声で「パチンコ屋」という答えが返ってきた。向き合うのがこわくて帰れなかった、と。

こわかった? 
私が、こわくなかったと思っているんだろうか。
逃げたかったよ、私だって。痛みから、現実から、悲しみから。

そんな言葉を、ぶつける気力もなかった。
出会ってからずっと、私たちはふたりでひとつだと思っていた。お互いの喜びや悲しみは、まざりあい境界線がなく溶けあっている。そんな風に、どちらかが死ぬまで一緒にいるのだろうと。

どんなに時間を積み重ねても私たちはしょせん他人で、傷が深ければ深いほど、痛みなんて共有できない。
子供と一緒に、夫まで失った。そんな気がした。

声もたてず涙を垂れ流す私を、夫は抱き寄せた。
その腕のなかで私は、からっぽの子宮を抱えて、一刻もはやく真暗で静かな眠りに逃げこみたいと願っていた。

行き場のない怒りは、失った赤ん坊の代わりに子宮に着床し、日毎に育って私を蝕んでいった。

***

「で? 喧嘩でもしたの。愛はもう冷めたって感じ?」
男は嬉しそうな顔をして、煙草に火をつけ一口吸い、私の口元にもってきた。結婚してからずっと我慢してきた煙を、ゆっくりと吸いこむ。数年ぶりの刺激を受けとめきれず、目眩のような感覚が襲ってきたけれど、やっと深く呼吸ができた気がした。
汗で湿った男の肌が冷えはじめていたから、足元にあったタオルケットを引き寄せてふたりでくるまった。

男の質問への答えを、探してみる。
「冷めたのかな。わからない。たぶんまだ愛してるし、愛されてるよ。でもきっと、私たちは絶望的に結婚に向いてなかったの」
言ってみてから、乾いた笑いが漏れた。

「幸せだった頃はよかったの。足並みも歩調もぴったりで。一旦それが崩れちゃったらね、立て直し方を二人とも知らなかった。夫は現実と向きあうのが恐くて逃げて、私はそんな彼を許せなくて怒りを溜めこんで。二人でどこを目指していたのかも、もうわからなくなっちゃった」
「病めるときも、健やかなるときもってやつ? 面倒くさ。結婚なんて、なんでするんだろうな。人なんて状況次第でいくらでも変わるし、どんな風に変わるかなんて、本人にすらわかんないじゃん。病めるときに足並みが揃わなくなったら、そこで『さよならありがとう』、じゃダメなの?」

さよならありがとう。
恋や結婚に限らず、人生はさよならとありがとうの繰り返しだ。それを言い続けた先に到着する孤独にふたりで立ち向かいたいから、私は結婚という選択をしたのかもしれない。変わっていく相手のことも、すべて見ていたいし、受けいれて生きていきたい。そう思えた瞬間が、私と夫には確かにあったはずだ。

手離せないならせめて。執着も、愛しさも、思い出も、失望も。すべてをひと纏めにして愛情という言葉で束ねることができれば、私は幸せになれるんだろうか。

***

男が眠りについた横で、スマホを確認する。夫からの着信とメールが、履歴を埋め尽くしていた。

『さっちゃん、どこにいるの』

最後のメールには、その一文だけが書かれていた。
さっちゃん。夫にはじめて名前を呼ばれた日を思い出す。

人数合わせで参加した、つまらない合コンの帰り道。一駅だから歩いて帰ると言いはる私に、サキさんが心配だからと、夫はとぼとぼついてきた。丸まった背中が無害そうだったから、追い払わずに前を歩いた。

アルコールで火照った頰に、風が気持ちいい夜だった。夜桜の咲く公園で、調子に乗ってスキップをしていたら足が滑って、彼が背後から私を抱きとめた。
「さっちゃん、危ないよ」さっきまでサキさんと呼んでいたのに、いきなり馴れ馴れしくてびっくりした。

「さっちゃんって呼ばれたの、小学生のとき以来かも」そう言って暖かい腕のなかで彼を仰ぎみると、街灯に照らされた彼の頰が赤く染まった。「ごめんなさい。サキさん、初恋の女の子と同じ名前で。頭のなかで同じ呼び方をしていたら、咄嗟に口にでてしまった」

逸らされた目を覗きこんだら、なぜか彼は泣きそうな顔をした。
「じゃあ、田中さんは一生、私をさっちゃんって呼んでくださいね」
笑ってくれるかと思ったら、彼は真剣な表情でこくりとひとつ、頷いた。

そのまま彼の腕をとって帰り道を歩いた。戸惑う姿が可愛かったから部屋に招きいれようとしたら、「さっちゃんが酔ってないときに、こちらからさそいます」と言い残して、律儀に帰って行った。

マンションの階段を降りていく大きな背中を、呼びとめたかった。
長くなる恋の予感がした。

***

夫からのメールを読み返す。

『さっちゃん、どこにいるの』

そんなの私だって知らない。あなたがちゃんと掴まえていてくれなかったから、良い子にしていたさっちゃんは、どこかに消えてしまった。

『帰ってきて。話をしよう』
『どこでなにをしていてもいいから。心配だから。連絡ください』
『さっちゃん、ごめん』

冷たい画面を埋める言葉たちが、夫の優しい声で再生される。
なんであの日のまま、ずっと掴まえていてくれなかったの。幸せに暮らしていたさっちゃんを、あなたが見つけて連れ戻してよ。
理不尽な言葉をぶつけたくても、彼はここにはいない。

「なんだよ、タマキ。泣いてんの?」
目を覚ました男が、私を抱きしめ涙を拭う。優しいリズムで背中を撫でられて、私にも眠気がやってくる。夜が迫る部屋で、男が私の目を見てにこりと笑う。
「なにもかも、忘れちゃえばいいよ」
耳元で男が囁く。
「あんたは、こっち側の人間でしょう?」

ぎしりと音を立てて、ベッドが軋む。男が私の両足首を捉えて、私は逃げ道を失った。

外では雨が降りはじめたらしい。雨音と二人の息遣いにまざって、携帯の振動音が、いつまでも耳に響いていた。

お読み頂き、ありがとうございました。 読んでくれる方がいるだけで、めっちゃ嬉しいです!