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優しい繋がりと、自分の物語。6年間の大学生活でぼくが得たこと

先日、大学を卒業しました。

6年間の大学生活は、想像を遥かに超えるほどの人と経験と運に恵まれた、本当に幸せなものでした。全部必然であり、同時に偶然だったような、不思議な感覚です。

そんな6年間で得たものは、「優しい繋がり」「自分の物語」の2つに集約されるのではないかと、振り返って思います。

関わってくれた人への感謝の気持ちを込めて、ぼくの学生生活の振り返りを記します。

昔よりずっと、生きるのが大変になった

大学に入る以前と比べると、生きるのが大変になったなあという感覚があります。

生活していく中で、自分自身が苦しむこと、誰かの痛みを想像してしまうこと、誰かを傷つけてしまったかもしれないと思い悩むことが増えました。

中学・高校のころは、なんというか、もうちょっとチャランポランで無頓着でした。

変化の要因は、やっぱりぼく自身がしんどい経験を経たことだと考えています。

特に大きかったのは、やっぱり留学。自分で自分を縛ってしまい、何をすることもできず、そんな自分には価値なんてないんじゃないかと悩んでいた日々でした。

帰国したあと、友人に「生きていてよかった」と伝えられて涙が止まらなくなってしまったことを、よく思い出します。自分でも生きていてよかったと思う。

留学については、こちらのnote少し詳しく書きました。もちろん楽しい瞬間もたくさんあったのだけれど、ということは付記しておきます。
部屋を彩ると、心も豊かになった。生産性の声に負けないために

ぼく自身がすごく苦しい日々を経験したから、自分の痛みにもにも他人の痛みにも敏感になったのだと思います。

この変化自体は別に良いことでも悪いことでもありませんが、この6年間で大きく変わったと感じることです。

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「このままではいけない」という足掻きのようなもの

6年間の大学生活を通して、本当にたくさんの経験をしてきたなあと思います。

休学して被災地に関わったこと。大学に行きながらNPOやスタートアップでインターンをしたこと。オランダに留学したこと。

並べてみると、我ながらなんだか意識が高そうでそわそわしてしまいます。

一つ一つの経験は、その時のぼくが「これをやりたいんだ!」と思って掴み取ってきた機会が積み重なったものです。意志を持って決めたことだと、胸を張って言えます。

でも、それは同時に足掻きのようなものでもありました。

「何者かになりたい」
「もっと成長しなければいけない」
「今のままでは足りない」

たくさんの経験は、そんな強迫観念みたいなものが根底にあって、どうにかしなければと選択してきた結果でもあります。

何者かでないと、成長していないと、認めてもらえないという恐れがあったのだろうと思います。

その恐れは、ぼくを前に進める原動力になるときもあれば、ぼくの身体を巡って少しずつ苦しめる毒のようなものでもありました。

苦しみながら足掻いて、得られた優しい繋がり

そんな風に苦しんできて、同時になんとか足掻いてきて、だからこそ得られた「人との繋がり」があります。

一緒にいると暖かい気持ちになり、力が湧いてくる。
何があっても味方だと、いつでも帰って来られると信じられる。
この人たちに貢献したい、力になりたいと思える。

そんな人たちとの、優しい繋がりです。

例えば、気仙沼・底上げのコミュニティのみなさん。一緒に留学へ行った友だち。cotreeの方々。

ありがたいことに、たくさんの顔が思い浮かびます。

多分、ぼくがしんどい経験をしたから、繋がれたんだろうなと。そしてこれからも一緒にいたい、一緒に何かをしたいと思っています。(補足1)

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向き合い、考え、言葉にして、物語ることを諦めない

昔の経験が、今になってようやく意味付けできて、言葉にできることが増えてきました。

幼少期の親との関係性。
中学でやっていた部活。
高校時代に学生団体をやっていたこと。

楽しかったことも、苦しかったことも。

少しずつ、自分の一部のしていけている実感があります。

それらは「学びになった」とか「いい経験だった」と単純には言えないものも多いけれど、ぼくの物語の一部になっています。

一つ一つの出来事や感情と向き合い、考えて言葉にしてきたからこその変化だと思っています。それはぼくにとって、大変な人生を生き延びるための、ある種の生存戦略でもありました。

そんな風にして掴みかけてきた自分の物語を、手放したくありません。

これからも、向き合い、考え、言葉にし、それを通して自分の物語を語ることを、諦めたくないです。

優しい繋がりがあることと、自分の物語を語ることは、分かち難く結びついている

弱さを分かち合う繋がりがあるからこそ、安心して自分の感情と向き合い、言葉にして語ることができる。

そんな風に語られた物語だからこそ、繋がることができる優しい人がいる。

優しい繋がりがあることと、自分の物語を語ることは、分かち難く結びついて、循環しているんだと思います。

6年間の学生生活をかけて、様々な経験を経てぼくが得たものは、繋がりと物語の、素敵な一つの循環でした。

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補足1:インドでの経験について

少し余談ですが、これを実感した出来事について、説明するのがとても難しい経験だったのですが、書かせてください。

去年の夏、インドに行った時のこと。滞在10日目ころだったと思います。
ブッダガヤという町のあるお寺で、読経と座禅の体験をさせてもらう機会がありました。(ちなみにぼくは無宗教です。)

目の前に3mほどの仏像がある講堂にて、30分お坊さんと一緒に読経をしたのち、座禅をしました。

目を閉じて俯き、自分の呼吸に意識を向けること約30分。鐘の音を終了の合図に顔を上げると、大きな仏像の姿が目に入ってきました。

そのときぼくは、強烈に「この人(という表現は的確ではないかもしれませんが)は、確かにぼくを救ってくれそうだな」って感じたんです。不思議な安心感と迫力がありました。

ただ、同時に「ぼくは何から救って欲しいと思っているのだろう」とも考えて。毎日ふつうに楽しく幸せに暮らしているのに、ぼくは救って欲しいのだろうか?と。

思い至ったのは、冒頭に書いたような、大学生活を経てより感じるようになった自分と他者の痛みでした。日々は楽しいけれど、同じくらい苦しく大変であって、それは学生生活を経て感じたものである、と。

そして「じゃあ休学も留学もインターンも、しない方が良かったんじゃないか?」と考えてしまいました。いろいろな経験を経た結果は、痛みや苦しみなのかと。この6年間でぼくが得たものはそれだったのかと。

でも、直感的に「いや、そんなことない」と感じたんです。ぼくはこの6年間を後悔していない。得られたものは痛みや苦しみだけではないはずだと。

そうして気づいたのが、ぼくが優しい繋がりを得てきたことでした。それは痛みや苦しみを感じてきたからこそ、得られたものでもあると気付けました。

補足2:cotreeのみなさんへ

ここで出てきたキーワード、優しい繋がりと自分の物語という言葉は、cotreeのビジョン・ミッションの影響を受けて出てきたものです。

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(ビジョン・ミッションを見て出てきた表現というよりも、普段からこういう言葉を使うようになったからこそ出てきて、見返してみたらめちゃくちゃビジョン・ミッションで言ってるやん!という感じですが)

学生生活最後の1年半ほど、cotreeに関わらせてもらった経験は本当に大きくて。おかげでぼくは、優しい繋がりと自分の繋がりを得ることができたと思っています。

だから、cotreeがやっていることは間違いないと、ビジョンとミッションを少しずつかもしれないけど実現できていて、ぼくがその証明であると伝えたいなと思いました。(誰目線やねんという感じですが)

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