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3.11 特別授業

あの日出会った8歳の少女は、もう18歳になるんだ。


◆◆

「列車は全て運休です。焦らずに駅構外に避難してください。」

新宿駅ホームに停車する中央線の車内にアナウンスが響く。人々は存外に落ち着いており、慌てることなく避難を始めた。

ぼくも列車を降りようと席を立ったとき、ふと、ひとりの女の子が目にとまった。電車通学をする小学生らしい、不安の色を浮かべる瞳はまっすぐ正面を見つめ、身体は強張って座席から動こうとしない。

「ひとり?大丈夫?」思わず声をかける。

「・・・大丈夫です。」ハナちゃんと名乗る女の子は、か細い声でなんとか返事をする。無論、このまま彼女をひとりにして大丈夫なわけは無い。

最も、突然知らない男に声をかけられたことが、別の不安を煽ってしまったらしい。たまたまその場に居合わせた女性も声をかけてくれて、なんとかハナちゃんを車外に連れ出すことができた。


駅構外に、と言われても、アルタ前はすっかりひとでごった返し、高い建物や看板に囲まれた状況は安全とは言い難い。公衆電話でハナちゃんのご両親と連絡をし迎えの段取りをつけると、三人はようやく、頑丈そうな駅ビルの地下階段に落ち着いた。

・・・

「小山です。」一緒に避難をしていた女性が名乗ってくれた。一息つくまで自己紹介もロクにしていなかったことを思い出し、ぼくも慌てて名乗る。

聞けばぼくと同い年の大学生らしい。改めて、小山さんと、自分たちのやるべきことを確認し合う。”絶対にハナちゃんを不安にさせないこと”。同世代となればチームワークも発揮しやすい。ぼくらは代わる代わるハナちゃんに質問を浴びせ、彼女の恐怖心を拭おうと試みた。

とは言え、ぼくらとハナちゃんは同じ状況下にある。アルタの大画面で衝撃的な津波の中継映像を目にしてしまっただけに、これが経験したことの無い大災害であるとハッキリ認識していた。頭をフルに回転させて周囲の様子や先の予定を考えながら、ハナちゃんを気遣う。すでに二人の大学生の表情には疲れが滲んでいる。


ところが。

当のハナちゃんはおもむろにランドセルを開くと、「宿題を手伝ってほしい」と少しバツが悪そうにねだった。明日までに終えなければならない計算ドリルがあるのだと言う。

これにはぼくも小山さんもつい吹き出してしまった。すっかり明るいハナちゃんの様子に疲れもとんだ。小山さんとアイコンタクトで、とびきり明るい先生を演じることを確認し合う。

「ハナちゃんはラッキーだ!現役大学生二人に宿題を見てもらえるなんてなぁ、先生たちに任せなさい!」

階段に目一杯宿題を広げて特別授業が始まった。たったひとりの生徒はすっかり元気を取り戻しており、○○はね、XXちゃんがね、と時たま手が止まる。むむ、私語が多いな。

「そうなんだ!」「すごいね!」こんな時だからと、先生たちは多少アマく、ハナちゃんのお話を止めることはしない。

・・・

やがて日もすっかり暮れた頃、ぼくらは無事にハナちゃんのお父さんと落ち合うことができた。

「宿題を教えてくれて、ありがとう!」ハナちゃんが元気いっぱいに言う。

「こちらこそ、ありがとうね。」感謝に感謝で応えられ、ハナちゃんは少しピンときていない様子だ。ぼくと小山さんこそ、”ハナちゃんを助ける”と言いながら、そのハナちゃんの無邪気な明るさにすっかり救われていたわけだ。

「明日は学校はお休みかも。」とは最後まで言わなかった。宿題を提出するのは、きっと少し先になるけど、ハナちゃんは本当の先生に褒められるだろう。

◆◆

その後、ぼくは小山さんとご家族のご厚意で一晩泊めてもらいました。

コンビニには食糧がほとんどなく、一袋のポテトチップスを分けながら、避難所で休憩をしながら、歩いて彼女の実家に着いたのは、夜も遅くなった頃だったはずです。小山さんのご家族は、食べ切れないほどの温かいごはんと、リビングにフカフカの布団を敷いて待っていてくれました。


10年経ついまでも、この経験を忘れません。この時期になると、特に思い出します。もちろん、震災がもたらした傷は深く、我々にとっては一生消えないものになりましたが、誤解を恐れずに言えば、ぼくにとって、この一晩は同時に、ハナちゃんや小山さんとそのご家族など、人の暖かさに触れた思い出にもなりました。


後日ハナちゃんから届いたお手紙には”大きくなったらぼくや小山さんのような人になりたい”と書かれていました。(それはやめたほうがいいんじゃ無いかな、と少し笑ってしまいました。)

そんな彼女ももう18歳。もしかしたら、この春大学生になる年齢か、と思いを馳せます。当時のぼくらの歳にすっかり近づいているんだね。

ぼくがそうであるように、あの日触れた暖かさや優しさを忘れずに、どこかで元気にしていることをずっと願っています。

※文中のお名前は仮名です。

#それぞれの10年

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