四十二話 「奇譚ーその6ー」
―その1―
会社員のRさんには1つだけ苦手なものがある。
それは日常ではあまり見かけない方だが、見かけるときはよく見かけるものだという。
これは、トラウマになったその『あるもの』にまつわる話。
Rさんが小学生であった頃は、授業中、先生に見つからないようにこっそりと手紙を回す遊びが流行っていた。
(○○ちゃんのとこにお願い・・・)などと耳打ちして、伝言ゲームのように隣から隣へと手紙を回すのであった。
当時の子供らからすると、私語が禁止されている授業中、先生の目を盗んで悪事を共有するスリルとなんらかの優越感がたまらないものであっただろう。
さて、ここで回される手紙には様々な折り方があるのだが、あるときRさんに回ってきたソレは、折り紙でいう『奴さん』であった。
思えば手紙回しで『奴さん』が使われることはほぼない。
ソレはまえの席にいるNちゃんから然り気なく回ってきたのだが、「よろしく」といわれただけで誰に渡せばいいのか分からない。
宛先でも書いてあるかもしれないと、裏返しのまま渡された『奴さん』を表に返す。
なんの変哲もない奴さん。ただし、その顔の部分には黒々とした筆跡で一文字だけ書かれていた。
これはいったいなんなのか。
視界がその一文字に吸い寄せられていく。
そのままじーっとしていると、違和感となにかが脳裏に浮かび上がってくる。
それが分かりそうで分からない。
なんだかモヤモヤした気持ちを抱えてもなお、Rさんはソレを注視ししつづけた。
すると、ふっ・・・と脳裏の映像に男の後ろ姿が降りてきた。
そして気づいた。
手紙を渡してきたまえの席。
Nちゃんは今日は休みなのに、いったい誰がここに座っているんだ?
その途端、顔のなかの男が振り返ってきて、その顔が大きく浮かび上がってきた。
「ばあ!」
頭のなかで響く男の大声と、現状に理解が追いつかずパニックになったRさんは思わず叫び声をあげた。
そのあと、様子がおかしいということでRさんは保健室につれていかれた。
のちに何があったのかを話したが、誰もが彼の話を理解し得ないのであった。
それからRさんはある漢字が嫌いになった。
その一文字をみていると、そこからあの男の顔が浮かび上がって来るようになったから・・・だという。
Rさんが嫌っているという漢字。
それは『婢』であった。
酔った勢いとはいえ、見ず知らずの男に、ペラペラと自身のトラウマを語る男。
『日常ではあまり見かけない方だが、見かけるときはよく見かけるもの』
見かけるときにはよく『婢』を見かける。 そんな日常をおくる目の前の男はいったい何者なのか。
私はそそくさと飲み屋の席を後にした。
―その2―
少しまえは、いわゆる“やんちゃ”な人間だったKさんの体験。
当時つるんでいた仲間も似たような者で、やはり若気の至りというべきか、しょっちゅう度胸試しをしていたという。
そして度胸試しでよくやっていたのが、真夜中の廃墟探索であった。
数ある廃墟探索で、古い雑誌や茶わんをはじめ、なにに使うのか分からない変なものをみたことはあったが、よくいう心霊現象といったものに会うことはなかった。
ただ、ある廃墟でなんとなく拾ったノートは別格だったという。
Kさんが廃墟のなかで拾いあげたそのノートは、建物の寂れ具合にふさわしく、汚らしいだけで何も書かれていない外見をしていた。
なんとなくパラパラとめくると、どのページにもびっしりと
『wwwww・・・』
と、書かれていた。
いわゆるネットスラングの『草』というものであったが、さすがに今まで度胸試しで肝の太くなったKさんも、ページいっぱい一心不乱に書き込まれた『草』の光景に一瞬たじろいだ。
滅多に拾うものではない。
これは度胸試しにもってこいと、さっそく仲間に奇妙な熱量がこもったノートを見せびらかした。
一同が「なんだよこれ」「キ●ガイじゃん」などと口にするなか、Kさんだけ違和感を覚えた。
『www』と並ぶ文字の一部が、小文字で筆記体のhの終わりを強く跳ねてを伸ばしたような形、すなわち『h_』のようになっている。
とたんに、ふと
(これ、『w』じゃなくて『ん』なんじゃねーかな)・・・と脳裏に浮かんできた。
すると「んー、んーんんー」と、甲高くも吐息のような囁きが耳に入ってきた。
それがまるで「え~、そうかなあ~?」と、嬉しそうに、内緒話でもするような声だった。
そこからKさんは脱兎のごとく、仲間を置いて廃墟を後にしたそうだ。
「・・・だからね、たぶん目をつけられたんだよ。分かってくれるやつが現れたから」
以来、Kさんは廃墟の類いには近づいていない。
―その3―
Gさんの体験。
奥さんと結婚して早々、ハネムーンに出掛けたときのこと。
豪華なベッドでゆっくりと旅の思い出を語らいながら、互いにタイミングを伺っていたとき。
ふと奥さんのお腹に視線が滑り込んだ。
そこには奇妙なタトゥーがあった。ただ、掛け布団の暗闇で絶妙にその模様が判別できない。
「あれ、タトゥーとかいれてたっけ?」
思わず口にでたGさんの発言に、奥さんは怪訝な顔になる。
奥さんが白い指で布団をめくると、少し火照った白い肌があるだけだった。
そのあとはご想像におまかせするが、一瞬みえたタトゥーのようなものが頭によぎり、心ここにあらずだったそうだ。
そこからおよそ一年、あの奇妙なタトゥーのこともすっかり忘れきっていた頃。
Gさんは、はじめての我が子と奥さんを迎えに病室へ駆け込んだ。
すこしやつれた奥さんの腕のなかには、生まれてまもない、赤くくすんだ我が子。
そして、こどもの額には、あのハネムーンの初夜、奥さんのお腹にみかけたタトゥーのと模様と同じく、『犬』と一文字浮かび上がっていた。
唖然とするGさんをよそに、奥さんは握り締めすぎてしわがれた人差し指を、こどもの額、『犬』の字に突きつけると、そのまま自分の方に滑らせた。
指を突きつけてきた奥さんは声をあげることなく笑っていた。
突如としてGさんの頭のなかに男の子の顔が浮かんできた。
自分が子供だった頃、口が裂けてもいえないような酷いいじめをしていた、もう名前も思い出せないあの男の子。
教科書にでてくる『罪人の額には『犬』という刺青をいれていた』という記述を、そのまま実践して・・・ああ、あとでバレないようにわざわざ水性ペンで書いたあと、飽きたところでバケツで水浸しにして、それから・・・それから・・・
あんなに仲睦まじかったのに、子供が生まれてから関係が険悪になり、とうとう奥さんに子供を押しつけて離婚してしまったGさん。
知り合いが執拗に「どうしてそうなったのか」彼に尋ねたところ、こんな話をしてくれた。
そして最後に、Gさんはこんなことを言ったという。
「畜生が四つん這いから二本足になったら何しだすか分かんないだろ?」
普段温厚な彼からは想像できない、獣のようにギラついた目付きで語ってくれたそうだ。
奇譚—落書き—
各話原題 『浮かぶ一文字』、『www』、『犬』