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社畜が賢くなる術はゼロである

基本的に労働者は時間で管理されている。就業時間は仮にオフィスだろうが家だろうが縛られている。一度社畜になると就業時間外の時間が自由時間だと錯覚するようになる。

それが社畜のアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。

そしてその生活をくり返す事で社畜が平常化していく。仮に会社を辞めたとして問題が解決する事はない。

即に精神的に内在された社畜時間脳が刻印されているためその生活に回帰しようとする復元思考が働くようになるのだ。

どんなに口では偉そうな事を云っていても役割依存であり時間管理されないと何もできない、社会的役割がなければ何もアピールできない。そういう社会不適格者が大量量産される事になる。

これが現代日本の縮図である。

現代日本人がなぜ国際的に通用しないのかといえばここが要となっている。労働を媒介とする事が社会との唯一の接点なのである。

ゆえに視野狭窄で業界ストーリー脳のお花畑おじさんやおばさんが社会を堕落させたのだ。

これは村田沙耶香の『コンビニ人間』で見事に表現されていた。この場合舞台はコンビニだが主人公は店員である事で世界と繋がり安寧を得ていた。まさにこれが社畜の正体だ。

自由よりも社会的役割で主体的意義を常に求めている。フロムはこれを『自由からの逃走』でナチズムと関連付けて論じた。

堕落した中層階級が求めたのは個々人の自由よりも社会的権威による繋がりだった。

社畜という人種は会社(店)を辞めても永久に社畜であり続ける。定年退職後も社畜であり、火葬場で灰になっても社畜である。

ゆえに元々一所懸命に働いて燃え尽きた人ほど思考停止で下らないのだ。疎外労働が苦痛であると嘯くと同時に疎外を媒介する事によってでしか人と関われないのだ。それが社畜の正体である。

自由を提示された途端に「周りのみんなに置いていかれるような気がした」「私だけ社会の役に立っていない」とか絵空事を嘯くのが社畜の正体である。社会認識や公共認識が見事に外れているのが社畜の特徴である。

ポイントは社畜の話は実存的な体験談が多いのだ。だから空理空論や狭窄の経験談が多い。ゆえにあまり参考にならない。

突き詰めると単に「苦労話をして自分を褒めて欲しい」という事でしかないのだ。

こういうところから「バカは死んでも治らない」という格言が正鵠を射る。

そんな社畜が推し活や出会い系やスピや右翼やマルチや新興宗教に嵌るのは必然だろう。社畜は自由など欲しておらず疎外によって社会的役割を得ている状態を安寧としているからだ。だからいつまでも社畜は害悪であり続けるのである。

学習教材(数百円)に使います。