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【歴史概要2】モンゴル系諸国の話

①チンギスハンが建立した大モンゴル帝国は後継者の時代に大きく5つに分かれる。

本家が元帝国、中央アジアのチャガタイ・ハン国、西アジアのイル・ハン国、南ロシアのキプチャク・ハン国、中央アジア東部からモンゴル高原西部のオゴタイ・ハン国である。

②中央アジアに存在したチャガタイ・ハン国はチンギス・ハンが息子のチャガタイにモンゴル西方、中央アジアを所領として与えたところから始まる。

ハイドゥの乱を経てドゥアが国の体制を確立。イスラーム教が拡大した。国はパミール高原から東西に分かれていった。17世紀にはジュンガルのガルダン・ハンによって滅ぼされる。

③西アジアに存在したイル・ハン国はチンギス・ハンの孫のフラグが創始した。イル・ハンとはフラグの称号である。

1258年にバグダードに入りアッバース朝を滅ぼした。しかしフラグの政権獲得は認められず、キプチャク・ハン国とチャガタイ・ハン国と領土をめぐる争いを続けた。

13世紀末、ガザン・ハン国の時代にイスラーム教を国教とした。宰相はラシード・ウッディーンが登用され、イクター制を採用した。14世紀半ばに衰退していき、消滅した。14世紀後半から15世紀ティムール帝国の支配下になる。

④南ロシアに存在していていたキプチャク・ハン国はチンギス・ハンの長男ジュチが中央アジアの西方を所領として認められたことから始まった。

その子バトゥが西方に領土を拡大して南ロシアまでを領土とした。モンゴルのロシア支配は「タタールのくびき」といわれる。モスクワ大公国が自立するとともに、キプチャク・ハン国は衰退していく。南ロシアにカザン・ハン国、クリミア・ハン国、アストラ・ハン国などが自立しその後ロシアが併合した。

クリミア・ハン国はオスマン帝国支配のなかでムスリムのクリミア・タタール人が自主統治を行っていたが1774年の露土戦争でオスマン帝国が敗北したことでロシアに併合された。クリミア戦争以後は迫害や収奪、その後ソ連スターリン時代の強制移住でタタール人の数は激減していった。

⑤中央アジア東部からモンゴル高原西部に存在していたオゴタイ・ハン国はチンギス・ハンの三男でありモンゴル帝国の2代目ハンであるオゴタイが所領していた。

オゴタイの息子である3代ハンであるグユクの統治でジュンガリア(ウイグル自治区北西部)まで領土を拡大したが4代ハンであるトゥルイ家のモンケが就任すると圧迫された。ハイドゥの時代に復活をする。しかし元とチャガタイ・ハン国の挟撃により消滅した。

⑥元帝国崩壊以後のモンゴル高原では、東にタタール(韃靼)、北西にオイラート(瓦刺)が台頭した。明の洪武帝はこれらを撃退した。3代目永楽帝が亡くなると、1449年にオイラート部のエセン・ハンが6代目正統帝を捕虜にする土木の変が起こった。

⑦15世紀~16世紀にはダヤン・ハンの率いるタタールが勢力を広げた。16世紀半ばには孫のアルタン・ハンが北京を包囲し、チベットを制圧した。チベット仏教がモンゴルに伝えられた。その後モンゴル高原は清の2代目皇帝ホンタイジに併合された。

⑧オイラートではモンゴル言語で「左翼」を意味するジュンガルという部族連合ができる。17世紀にはガルダン・ハンが勢力を拡大した。18世紀の半ばには清の6代目である乾隆帝の遠征で征服された。モンゴル系民族は清の八旗軍に取り込まれる事となった。

■参考文献 『滅亡から読み解く世界史』 関 眞興 実業之日本社

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