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【歴史概要44】仏教伝来・丁未の乱

①日本に仏教が伝わったのは6世紀である。記録上では欽明天皇の時代に百済の聖明王から仏像と経典を贈られたのが公式伝来である。『日本書紀』では552年となっているが『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』では538年となっている。

②仏教伝来以前には神道があった。自然発生的な宗教で形のない祖先の霊や地元の自然の神を崇めるものだった。

③宮廷内で対立していた蘇我氏と物部氏の抗争が
仏教受容の是非と重なる事となった。

④蘇我氏は仏教導入を進める崇仏派であった。蘇我氏は新興勢力だったが6世紀には大王家(天皇家)と姻戚関係を深め政治的な影響力があった。蘇我氏は渡来人との繋がりが強かった。

⑤物部氏は自分の勢力に都合の良い大王を擁立しようとしていた。典型的な傀儡政治である。

⑥仏教否定派である物部守也は敏達天皇の時代に疾病が広まるとこれは蘇我氏が仏教を崇拝しているからと主張した。そして仏殿を焼き仏像を捨てた。敏達天皇も守屋に同調し朝廷から仏像や僧を取り除こうとした。

⑦守屋は穴穂部皇子を次の大王に擁立しようと画策していた。585年に敏達天皇が亡くなった後に敏達天皇の后であった額田部皇女(推古天皇)とトラブルを起こした。

⑧その後蘇我馬子は額田部皇女と手を組み守屋や穴穂部皇子を支持する勢力と対立する事となった。

⑨敏達天皇の後に即位した用明天皇は2年で没した。用明天皇は死ぬ間際に仏教に帰依する態度を示したので穴穂部皇子は崇仏派に転じて次の皇位に就こうとした。

しかし馬子は穴穂部皇子を討伐した。

⑩守屋は宮廷で孤立する事となり丁未の乱が勃発した。丁未とは丁支(十干と十二支)の組み合わせで丁未という年の事だ。元号定着以前の干支の年で記されていた。

⑪587年7月に馬子の率いる軍勢が河内(現在の大阪府南部)の渋川にいた守屋一派の討伐を仕掛けた。多くの豪族や皇子が集まり聖徳太子や泊瀬部皇子(崇峻天皇)もいた。

⑫物部氏は三たび退けたが激戦のすえ守屋は馬子配下の迹見赤檮(とみのいちい)に倒された。守屋の子息も討伐されて物部陣営は壊滅した。

⑬物部氏は衰退して物部の姓を捨てる者もいた。守屋の所有していた領地と領民は馬子らの支配下となった。仏教が争点ではあったが新興勢力の蘇我氏が台頭するきっかけとなった。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 小和田哲夫 日本経済新聞出版社

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