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【歴史概要110】バルト帝国・北方戦争・反スウェーデン同盟・ニスタット条約

①カール12世の治世下のスウェーデン帝国は
フィンランドやバルト三国周辺、バルト海周辺部を
領土としていた。バルト帝国ともいわれている。

②ロシア帝国のピョートル大帝は自ら西欧視察をして技術の導入をはかり、外国人も積極的に登用して軍隊指揮の効率化を推進した。

③北方戦争はバルト海を中心としたスウェーデンの覇権に対して北欧、中欧、東欧諸国の反スウェーデン同盟の間で行われた。スウェーデン側はオスマン帝国によってサポートされた。

④反スウェーデン同盟はロシア、デンマーク・ノルウェー連合王国、ポーランド・リトアニア連合王国で形成されていた。デンマークがホルシュタイン地方、ポーランドがリヴォニア地方、ロシアがネヴァ川下流域に侵入するところから始まった。

⑤緒戦はスウェーデンが優勢でロシア軍はナルヴァの戦いで敗れた。敗北したピョートルは軍隊改革を行いネヴァ川の下流域に新しい都ペテルブルクの建設を始めた。

⑥スウェーデンのカール12世はポーランドやデンマークを打倒していった。1707年からスウェーデンのロシアへの攻撃が行われたがロシア軍の焦土作戦や冬の寒さに苦しんだ。

⑦1709年7月のポルタヴァの戦いでカール12世は負傷した。

ピョートルの指揮するロシア軍の装備や作戦によりスウェーデン軍は敗北した。カール12世は南方に逃れてオスマン帝国の庇護を受けた。

⑧ロシア軍はこの時はカール12世の追撃は辞めた。反スウェーデン同盟が再興されプロイセンを含めた各国がスウェーデンを攻撃した。1718年にカール12世は戦死した。

⑨スウェーデン軍の敗北は続き各国に領土を割譲していった。1721年にロシアとの間にニスタット条約が結ばれ戦争は終焉した。この戦争中に建設されていたペテルブルクはロシアの西方への拠点となった。

⑩こうしてロシアはヨーロッパの強国の一つとなった。ピョートル大帝は1725年にネヴァ川河口に乗り上げた船の救出作業中に自ら水中に飛びこんだ事が原因で体調を崩して亡くなった。

⑪その後王妃マルファがエカチェリーナ1世として即位した。以降18世紀後半のエカチェリーナ2世即位まで政治的混乱が続いた。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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