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【歴史概要109】デンマーク戦争・普墺戦争・エムス電報事件・普仏戦争

①1848年時点で新しいドイツの構想問題があった。
オーストリアを含めた他民族包摂の大ドイツ主義か
プロイセンを中心とした近代国民国家の小ドイツ主義かである。

②プロイセン宰相のビスマルクは小ドイツ主義を採用した。鉄と血によって、戦争を辞さずに実現する方針であった。参謀総長のモルトケに軍備の準備をさせた。

③まずデンマーク戦争である。

デンマークとドイツ連邦の間にはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両公国があった。デンマークとの関係が深かったが1848年にデンマークがこの地域を併合した事から問題が勃発した。

④プロイセン軍はデンマーク軍を圧倒した。しかしイギリスやフランスなどが圧力をかけてきたのでプロイセンは撤退した。1849年、1850年と軍事対立が隠岐1852年の協定で休戦が成立した。

⑤1863年にデンマーク憲法でシュレスヴィヒ・ホルシュタインがデンマークに併合された。ドイツ各邦で不満が高まった。プロイセンはオーストリアとともに1864年にデンマークと開戦した。結果的にプロイセン軍の前に敗北してこの地域を手放した。

⑥ところがドイツ領となったこの地域をプロイセンが軍隊管轄や徴税権などすべてを支配しようとした。オーストリアはこれに反発した。ガシュタイン協定で一旦和解した。

⑦1866年にシュレスヴィヒに駐留していたプロイセン軍がホルシュタインに侵入した。オーストリアはドイツ連邦議会に提訴した。結果としてプロイセンはドイツ連邦から離脱した。

⑧1866年6月にプロイセンはオーストリアに宣戦した。これが普墺戦争である。プロイセンは鉄道網を活用しオーストリアを圧倒した。

⑨バイエルン、ハノーヴァー、ザクセン領邦はオーストリア側、北ドイツの小領邦はプロイセンをサポートした。7月3日のケーニーヒグレーツの戦いでプロイセン軍は勝利した。

⑩1866年8月23日にプラハ条約が結ばれ休戦となった。プロイセンはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン、ハノーヴァーなどの領邦を併合しドイツの東西を結ぶ事となった。こうしてプロイセン中心の22領邦からなる北ドイツ連邦が形成された。

⑪ドイツ統一構想からオーストリアは排除された。残すはドイツ南部地域にあった。バイエルンやバーデンなどの4つの領邦をどうドイツに組み込むかである。

⑫ビスマルクは敵役としてフランスを設定して
ナショナリズムを利用する事とした。

⑬1868年9月に起きたスペインの革命でスペインブルボン家が一時断絶した。新しい王を巡ってフランスとプロイセンが対立した。

⑭プロイセン王のヴィルヘルム1世は王位への関心は薄かった。フランス側は「将来にわたってプロイセンのホーエンツォレルン家はスペイン王位を要求しない」確約をとろうとして温泉地エムスに滞在中のヴィルヘルム1世をフランス大使が訪ねた。

⑮譲歩していたプロイセン王は必要なしと会見を拒否した。その旨をベルリンのビスマルクに伝えた。

この際にビスマルクは「非礼なフランス大使が王位の立候補を辞退する事を強要した」という内容のコメントをドイツのみならず各国の代表や新聞に公表した。

⑯このエムス電報事件がフランスとプロイセンの敵愾心を向上させた。フランスがプロイセンに宣戦し普仏戦争が始まった。

フランス軍が30万、プロイセン軍が50万で、プロイセン軍が優勢だった。

⑰ナポレオン3世は体調を崩していたがウジェニー皇后は軍隊士気をあげるために参戦を薦めた。フランス軍は1870年8月にセダンで包囲され降伏した。フランス第2帝政は崩壊した。

⑱国民意識が盛り上がったドイツは1871年1月にヴェルサイユ宮殿で近代ドイツ帝国の成立が宣言された。22の領邦と3自由市からなる連邦制国家でプロイセン王が君臨した。

⑲各邦の代表が参加する連邦参議院と男子普通選挙で選ばれた議員からなる帝国議会の二院制であった。連邦参議院は保守的な地主貴族であるユンカーの影響力が強く民主的とはいえなかった。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 下』 関 真興 日本経済新聞出版社

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