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【日本史8】平安史備忘録4(蝦夷や隼人)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①桓武天皇は東北地方にいた朝廷服属をしない蝦夷の征討を行った。蝦夷は北陸・関東北部から北海道にかけて住んでいたがヤマト王権の支配域を拡大する流れで北へ追いやられた。

②奈良時代以降に朝廷は城柵という行政と軍事を兼ねた拠点をおいて支配を拡大していった。俘囚(朝廷に服属した蝦夷)を朝廷の西に移住させて東国の農民らを城柵の周辺に移住させた。

③8世紀前半から陸奥国の多賀城(宮城県)には国府と蝦夷を取りまとめる鎮守府が置かれた。現地の蝦夷は激しく抵抗し朝廷の役人の殺害や反乱などが発生した。

④780年(宝亀11年)に陸奥国の上治群や伊治(これはり)郡(宮城県栗原市)の郡司を務めていた伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)は蝦夷を率いて反乱を起こした。砦麻呂は蝦夷の族長だったが後に俘囚の長となった。

⑤伊治砦麻呂の乱は蝦夷の反発を誘発した。約25年間も続く蝦夷と朝廷の戦いのきっかけとなった。砦麻呂はその後どうなったかはわからない。

⑥789年(延暦8年)に朝廷は紀古佐美を征東将軍に任命して軍を差し向けたが蝦夷の属領阿弖流為(あてるい)が率いる勢力との胆沢(いさわ)地方(岩手県奥州)での戦いに敗れた。

新しい軍を編成した。

⑦蝦夷との戦いで軍功を挙げていた坂上田村麻呂も副官として参加していた。794年(延暦13年)の戦いで調停軍は阿弖流為の軍を破った。

⑧田村麻呂が蝦夷討伐の総責任者として征夷大将軍に任命された。

802年(延暦21年)には新しい拠点として胆沢城(岩手県奥州市)を築城しようとする。阿弖流為らは投降して都に連行され処刑された。

⑨胆沢城は多賀城に代わった鎮守府とされて田村麻呂は胆沢城を拠点に朝廷の勢力範囲を広げて北上川の上流に志波城(岩手県盛岡市)を築いた。朝廷は9世紀前半に蝦夷の討伐を終えたと判断して征夷大将軍の職を廃止した。

⑩征夷とは蝦夷を討伐するための臨時官職であったからだ。朝廷は北方のみならず隼人という南九州(鹿児島県)に目を向け、8世紀のうちに支配下に置いた。

⑪9世紀後半に成立した『貞観儀式』の「東は陸奥、西は遠値嘉(長崎県の五島列島)、南は土佐、北は佐渡よりも遠いところに悪鬼を追い払う」という一文は日本の領域を示している。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

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