見出し画像

【日本史8】平安史備忘録2(平城京から長岡京)

平安時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①奈良時代の日本は先進的な中国王朝の唐から政治制度や文化を取り入れていた。都の平城京(奈良県大和郡山市)は唐の都である長安(陝西省西安市)をモデルに建造されている。

②781年(天応元年)に光仁天皇(49代目)が譲位して即位したのが桓武天皇(50代目)である。桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から山背国の乙訓郡長岡村の長岡京へ遷都した。

③平城京は立地問題で水不足であったので水上と陸上の便に優れた長岡の地を選んだ。また天武系の天皇と結びついていた豪族と距離を置きたかった理由もあった。

④桓武天皇の遷都は天武系と関連のあった豪族や仏教勢力の反発を受けた。遷都後は工事が続いていた長岡京で造営責任者だった藤原種継が矢で暗殺された。

⑤遷都反対派による反抗とされた。

反対派に近しい早良親王(桓武の異母弟)は関与を疑われて皇太子の地位を廃され淡路国(兵庫県の淡路島)に流刑となった。早良は無実を訴えて食を断ち移送中に亡くなった。

⑥長岡京は飢饉や疫病が起こり、桓武天皇の身内も続々と亡くなったため早良親王の怨霊の祟りだと考えられるようになった。

水上交通の便の良さから河川の氾濫などが起こり都の造営は進まなかった。

⑦桓武天皇に和気清麻呂は長岡京の北に位置する葛野郡宇太村(京都府京都市)に新しい都を造営する案を提案した。清麻呂は天皇になろうと画策した僧侶の道鏡の野望を防いだ。これが宇佐八幡宮神託事件である。

⑧進言を受け入れた桓武天皇は二度目となる都づくりを決断した。

■参考文献 『1冊でわかる平安時代』 大石学 河出書房新社

この記事が参加している募集

日本史がすき

学習教材(数百円)に使います。