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【料理本3】トルコ料理の誘惑Ⅳ

現代企画室の『トルコ料理の誘惑』を借りて読んでいます。

(1)遊牧民から受け継いだ食文化
(2)アナトリア土地の土地とビザンツ帝国から受け継いだ食文化
(3)イスラム食文化を継承したオスマンの宮廷料理と食文化

トルコ料理の食文化の形成は主に3つだが
今回は(3)オスマンの宮廷料理を紹介します

スルタンが住んでいたトプカプ宮殿に花開いた宮廷料理は現在のトルコ料理に絶大な影響を与えたと言えるであろふ。

中央アジアから西進南下し、イスラーム教徒となり、アナトリア地域に
定住したトルコ人たちは途中で遭遇した文化を継承しオスマン帝国を建国した。そのため、途中で経由した中国、イラン、アラブ、ビザンツ、ヨーロッパ、地中海世界の文化的影響を受けた。それが食文化に反映されている。

小さい水餃子に似たマントゥは中国に端緒を為し煮込み料理のヤフニや肉団子のキョフテはペルシャ(イラン)起源でありケバブがアラブ起源なのは言うまでもないであろふ。

代表的なスルタンの1人であるメフメト2世は「スルタンは1人で食事をとるという勅令を出し単独で食事を取り1日2食をベースとした。主に
朝に食べる食事が豪華で夕方には軽食を食べるという習わしであった。この習慣は実に450年続くことになった。

宮廷料理に大きな影響をもたらしたのは16世紀初頭のエジプト征服によって
もたらされた多様な香辛料である。トプカプ宮殿の調理場で使用される香辛料がエジプト征服以前は8種類だが、それ以降は200種類になっていた。

その後帝国の領土はアジア、アフリカ、ヨーロッパを股にかけることになり
宮廷料理のバリエーションはさらに増えていくことになる。

また香辛料以外の代表的な調味料は蜂蜜であった。スープ、肉料理、ピラフに至るまで幅広く蜂蜜は使われていた。

オスマン宮廷料理のレシピの一部が現在のトルコ料理に反映されているが
そのほとんどのレシピは残っていない。シェフの保身と文盲が多かったのがその理由だ。

オスマン帝国ではオリーブオイルは主流ではなくバターオイルが使われていた。オーストリア戦争(1593年-1606年)が端緒となり羊がイスタンブールで品薄になりそれまで低く抑えられてきた羊肉の値段が自由化され値段が高騰した。その代わりにドルマなどの野菜料理を作るようになりその際オリーブオイルを使うようになったと云われている。

トルコ料理ではスープからデザートにまで幅広く米が使われている。
日本で馴染みの炊飯文化より遥かにトルコの方が米の用途は広いと言える。
オスマン帝国時代の宮廷料理ではピラフが象徴的な米料理である。
細密画の多くにもピラフを囲む人々の姿がいくつも描かれている。

米は13世紀から15世紀にかけてモンゴル人によって中国から中東、アナトリアへともたらされた。米食はイランのサハヴィー朝の宮廷や上流階級に広がった。新しい食材としての米を使った料理がアナトリアの地に広がりオスマン宮殿にも入って独自の料理に発展していった。

ピラフはひき割り小麦で作られていたが米に取って代わったのである。
ピラフは高級料理だったので庶民には中々手が届かなかったが
宗教行事では市井の人にピラフが振舞われたのであった。

今回は遊牧文化、ビザンツ・地中海文化、オスマンの宮廷文化から
トルコ料理というものを論じた。

世界三大料理の一つであるトルコ料理の様相が少し見えてきたのではないだろうか?料理の勉強は人為的な政治と土着文化の混淆を垣間見れる。

他にもカフェ文化がオスマン帝国で花開いた「カフヴェハネ」であった事や
ラマダーン後の祝祭「シェケル・バイラム」や現代トルコの「輸入食品の種類や量の急増」など興味深い話が目白押しである。

■参考文献『トルコ料理の誘惑 私を虜にした食と文化』 井藤聖子 現代企画室

学習教材(数百円)に使います。