見出し画像

【歴史概要45】乙巳の変

①推古天皇は628年に亡くなった。後継者は3代前の敏達天皇の孫である田村皇子と厩戸王の息子である山背大兄王が浮上した。

②政権の中枢は大臣職を独占した蘇我氏が権勢を誇っていた。リーダーは蘇我馬子の子である蘇我蝦夷であった。

③山背大兄王は蝦夷の甥であったが蝦夷とは折り合いが悪かった。蘇我氏に支持された田村皇子が即位して舒明天皇となった。

④舒明天皇は百済大寺を創建し、第1回遣唐使を派遣した。百済と新羅の関係を強化するなど外交的な業績があった。主導者は蘇我氏だったので権勢はさらに強くなった。

⑤641年に舒明天皇は亡くなった。次の後継候補は中大兄皇子(天智天皇)と古人大兄皇子が浮上した。

⑥古人大兄皇子の母は蘇我氏出身であったので蘇我氏は古人大兄皇子を推奨した。

どちらの皇子が即位するか決着はつかなかった。舒明天皇の后だった宝皇女が皇極天皇(2度目女帝)として即位した。

⑦即位を逃した山背大兄王は蘇我氏にとって邪魔であった。蘇我蝦夷に代わって大臣となった蘇我入鹿の軍勢が山背大兄王の本拠である斑鳩宮を襲撃した。山背大兄王は生駒山に逃れたが抗戦をあきらめて妻子ともに自決した。

⑧厩戸王の血統が途絶えた。朝廷では蘇我氏を排除しようとする動きが出てくる。その中心人物は中大兄皇子であった。蘇我氏と反蘇我氏の勢力争いは単純な権力争いという面もあるが外交をめぐる政策の違いが関係している。

⑨蘇我氏は主に百済の僧や技術者との人脈があった。

しかし朝廷は先進的な唐の政治制度や文化を積極的に取り入れていたので百済よりも唐や新羅との関係を重視すべきという意見が強まっていた。

⑩反蘇我氏の勢力は軽皇子(孝徳天皇)、蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌足らが含まれていた。石川麻呂は蘇我氏であったが入鹿とは敵対していた。中臣氏は連(むらじ)の家柄で鎌足は神官であった。鎌足は後に藤原の氏姓を授かる。

⑪朝廷内で反蘇我氏の動きが強まる中で入鹿は襲撃に備え自宅を厳重に警備していた。そして645年6月に乙巳の変が起こる。中大兄皇子を中心とする蘇我氏打倒のクーデターである。

⑫事件の当日に皇極天皇の皇居である飛鳥板蓋宮(奈良県明日香村)で高句麗、百済、新羅の外交文書が皇極天皇に提出されていた。

⑬蘇我石川麻呂がこの文書を読み上げていると中大兄皇子が兵を
率いて宮殿に突入し入鹿は討伐された。

⑭中大兄皇子らは蘇我蝦夷たちの反撃に備え飛鳥寺に立て籠もった。しかし蝦夷を警護していた兵たちは逃げ出し蝦夷は自宅に火を放ち自決した。これにて蘇我氏の本家は滅亡した。

⑮軽皇子が姉の皇極天皇から皇位を譲られ孝徳天皇として即位した。新体制では中大兄皇子が皇太子、阿部内麻呂が左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣に、中臣鎌足が内臣に就任した。

⑯唐にならって元号が採用され645年は大化元年となった。新体制の確立については皇子の母である皇極天皇を黒幕とする見方もある。孝徳天皇は甥である中大兄皇子の傀儡として扱われて不遇な後半生を送ったとも云われている。

■参考文献
『30の戦いからよむ日本史 上』 小和田哲夫 日本経済新聞出版社

この記事が参加している募集

日本史がすき

学習教材(数百円)に使います。