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【日本史7】鎌倉史備忘録16

鎌倉時代の学習を深めていきます。

本日の学習は、

①頼家が亡くなる1203年(建仁3年)に12歳の源実朝が
鎌倉幕府の第3代将軍となった。頼家と実朝の違いは
実朝は北条氏一門の庇護を受けてきた事だ。

②実権は祖父の北条時政が握っていた。時政は武蔵国の武士たちに自身の指揮下に入るよう命じた。武蔵国の有力武士である畠山重忠はこれに抵抗した。

③武蔵国随一の武士重忠は時政の進出を見過ごせなかった。1205年(元久2年)に時政は婿である平賀朝雅と後妻の牧の方と共謀して重忠とその嫡男である重保を攻め滅ぼした。

④時政と共謀する稲毛重成(時政の娘の夫)に鎌倉に誘き出された重保が討伐されると、134騎の重忠軍は武蔵国二俣川(神奈川県)で北条義時率いる大軍に倒された。これが畠山重忠の乱である。武蔵国は北条下の支配となった。

⑤しかし重忠の謀殺は他の御家人たちの反発を受ける事となった。時政は政子や義時に近かった将軍の実朝を廃止て義理の息子である朝雅を将軍の座につけようと画策した。

しかし時政のクーデターは失敗した。平賀朝雅は京で討伐され、時政は出家をする事となった。

⑦朝雅は御家人であったが後鳥羽上皇の近臣であったので
時政と朝廷の融和関係が揺らいだ。

⑧時政退陣後は、北条義時が政所別当の最上位である執権の座につき、大江広元らと協力し政治を進めていた。しかし源実朝が信頼を寄せていたのは執権義時ではなく和田義盛であった。

⑨1209年(承元3年)に義盛は朝廷官職である上総介就任を願い出たが実朝と政子は頼朝の先例を出して朝廷推挙を拒否した。

⑩信濃国(長野県)の御家人・泉親衡の陰謀事件が露見した。この計画に和田義盛の子である義直、義重や義盛の甥である和田胤長が関与していた。実朝は義盛との関係考慮で義直、義重は許したが胤長は許さなかった。

⑪北条義時はこれを利用して和田義盛を挑発した。和田一族は抵抗を示した。和田合戦の始まりである。和田氏の勢力は強大であったが有力御家人の三浦義村の裏切りにより劣勢となっていく。義盛を含む和田一族は討伐され、合戦は終結した。

⑫これにより北条義時は政所のみならず侍所の権力も掌握し幕府の実力者としての地位を固めた。三浦義村は功績を認められ幕府で重用される事となった。

⑬北条義時(2代目執権)と源実朝(3代目将軍)は精力的に活動し政治は安定していった。しかし実朝には後継ぎがいなかった。

■参考文献 『1冊でわかる鎌倉時代』 大石学 河出書房新社

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