水田真理

水田真理

最近の記事

感謝されたくないという感情はそんなに理解不能か?

お疲れ様です。水田真理です。 小学校の頃、担任の先生の趣味で良いことをした子を表彰するという文化があった。 例えば、ちょっと教室の掃除をしたり、机の向きを整えたり、黒板消しをきれいにしたり、花瓶の水を変えたり。 私はそれがとても嫌だった。 床に落ちてるゴミを見て拾うかと思ったから拾うのに、ただそれだけの行動に善意も悪意もあったもんじゃない。 その後のクラスの空気も嫌いで、皆が良いことをしてやろうと狙っている空気がとても心地悪かった。 今でも、人前でそういう事が出来

    • 「時と場合による」じゃなくて「私の考えでよければ」って言ってくれ。

      お疲れ様です。水田真理です。 私が求めているのは一般解なんて高尚なものではなく、私の人生にだけ適応できる特殊解なのです。 世界の真理なんてどうでもよくて、私が楽に生きれるかだけが私の興味の対象です。 なので、人生にまつわる調べ物は結構するのですが、この情報社会において少数派の意見をサルベージするのはとても骨。 自分なりの回答を用意している人は少なく、誰かが言っていたようなことを回答に据えている人が多くいます。 また、煮詰めれば筋が良さそうな意見については、概ねスピリ

      • 人が好き。

        お疲れ様です。水田真理です。 酔っ払うと人好きが出ます。 なので酔っ払うのは基本的に好きです。 普段は抑えているこの傾向、割と持て余し気味。 使いこなせれば人生も楽しく過ごせそうです。 問題はガードが甘くなること。 悪意を持って接してくる人にも気にせず甘くなる感じ、あんまり良くないな? ある種自己満足が強く出ていて、普段の反動が出ているのかも。 数少ない自分の好きなところ。

        • 車の運転をするのが大嫌い。

          お疲れ様です。水田真理です。 月に数回、車を運転するというかさせられる機会があるのですが相変わらず好きになれません。 どうにも窮屈に感じられます。 人に迷惑をかけるなというありえないほど強大な呪縛をひしひしと感じながら運転をするのは、並大抵の精神では出来ないと思うのですが、割と平気な顔をしている人が大多数。 そして運転しない人でも、いまいち共感はしてくれない模様。必要ないから運転しないだけ顔されます。 運転に慣れたから何だとずっと思っています。 事故を起こすのが怖い

        感謝されたくないという感情はそんなに理解不能か?

          解放を求める声と転覆を目論む声を混同してはいけない。

          お疲れ様です。水田真理です。 なんとも大きな話っぽいタイトルですが、個人の中の心の声というスケールの話です。 支配あるいは抑圧に対して、解放はそのまま抑圧のない状態を目指していますが、転覆は非支配側から支配側に移ることを目的としています。 ただ、ベクトルは同じ向きなのでとっても分かりにくい。 例えば、DVとか虐待とかは被支配側から支配側に回ったいい例と思います。弱い立場から強い立場になったとき、かつて(あるいは今も)自分に強権をふるった人と同じ行動を取ります。イジメも

          解放を求める声と転覆を目論む声を混同してはいけない。

          最終的に悪いのは支配欲と感じている。

          お疲れ様です。水田真理です。 さっき内なる支配欲に気付いて戦慄しました。 今までは結構きれいな言葉でコーティングしてたので気付かなかったのですが、言われてみればって感じです。 自分は劣等感の塊と信じて生きてきて、それでも人生よくしようと足掻いてたつもりだったのですが、なんと真実から目を背けてただけだったと。 道理で好転しないはずです。 支配欲は平たく言えば、「俺の言う事聞いとけ愚民ども」ですかね。相手を自分の思い通りにコントロールしたいという欲求。劣等と支配欲が混じると

          最終的に悪いのは支配欲と感じている。

          多数派なだけでコミュ強では無い。

          お疲れ様です。水田真理です。 言語化が難しいことは世の中にたくさんあるんですが、言語化しないと無いものとされる場面もなかなかに多い。そんなときに無理くり言葉にしてるのだから、スムーズに話せると思わないでほしいですね。 多数派の意見を言うときに、受け手も多数派ならコミュニケーションは円滑で、多少言葉選びが悪くても補正が効きます。あるいは少数派同士でも。 難しいのは論破したい訳ではないということ。 反対意見っていう言葉がもう良くないのですが、別の意見があったからといってその

          多数派なだけでコミュ強では無い。

          大人になりたくないのは大人像を歪められているから。

          お疲れ様です。水田真理です。 昔は大人に対して憧れが多少はあったと思うのですが、今や見る影もなく。 拗らせた子供が常識を盾に威張りちらかしてるようにしか見えなくて、いずれこれにならなきゃいけないのかと戦々恐々しています。 出来るだけ私はそうならないようにしたいのですが、嫌な奴らは「それじゃだめだよ」「俺たちみたいな大人になれよ」とちゃちゃを入れてくるのです。面倒くさい。 ただ、なりたくない大人像だけはっきりしていて、なりたい大人像は薄ぼんやりしてるので進捗は芳しくはな

          大人になりたくないのは大人像を歪められているから。

          変なものに変じゃないよっていうのは変じゃないの?

          お疲れ様です。水田真理です。 私は変です。およそ一般的ではないです。 なのでできれば一般人としてではなく変な人として生きていきたくもあります。 ですが邪魔になるのは全然変じゃないよの一言。 変だと言ってくれないと苦しいんですけどね。 一般人面しないといけなくなるので。 時代のせいでしょうか。 違わないね。みんな一緒だね。の何処に多様性があるのかはわかりませんがどうにもそういう風潮が強まっているようで。 変、且つ良い。って言ってもらえませんかね。

          変なものに変じゃないよっていうのは変じゃないの?

          現状が低いことよりも天井が低いことに絶望する

          お疲れ様です。水田真理です。 私は生きるのが下手です。個人作業の要領は悪くないのですが、どうにも人に評価される立ち回りとかはできないです。 でもそれに助かっている部分もあって、要はうまく立ち回れているのならもっと生きやすくてもっと楽しく過ごせるのだろうと思えているわけです。 ゲームでもレベルが90超えてからステータス爆伸びするキャラなら良いですよね。レベリングのしがいがあります 初期ステが良くても、全然将来性がないキャラは早々にパーティ外されるか、縛りプレイ要員になるく

          現状が低いことよりも天井が低いことに絶望する

          老婆心がある

          お疲れ様です。水田真理です。 後輩相手にお節介を焼いてしまうというか、どうしても後方腕組みが出来ない。 我慢しようがしまいが選ばなかった選択肢が魅力的に思えてしまいます。 そうなってしまうのはそのシチュエーションになったときに自分が納得する振る舞いを身に着けていないから、何をしても後悔が残るのだと。 考えるしかないのですかね。

          老婆心がある

          知性 欲しい

          お疲れ様です。水田真理です。 欲しいです。喉から手が出るほど。 知識なら簡単に手に入るわけですが、知性はどうにも概念じみていて獲得するのは難しい気がします。 しかし欲しい。 欲しいのは本当に知性なのか知性に付随する何かなのかはちょっとわからないですが。 次欲しいと思ったらその気持ち、手のひらで転がしながら観察してみようと思います。

          知性 欲しい

          価値のある記事を書きたかったがその気持ちがすごく邪魔だった

          お疲れ様です。水田真理です。 記事をいくつか書いてみて思ったことです。 記事にする以上、結論というか展望というかそういうのがあったほうがいいのかなって思ってたんですよね。 でもすごく文章が窮屈で、考えがまとまってないから投稿できる形にならないなと思うことも多かったので、やめようと。 記事を書くのをやめるのではなく、いい感じに記事を書こうとするスケベ心をやめようと思いました。

          価値のある記事を書きたかったがその気持ちがすごく邪魔だった

          落書きOKの落書きするやつ罪深いにもほどがある

          お疲れ様です。水田真理です。 朱に交われば赤くなるの通りに、話しているとこちらまで嫌な人間にさせられていると感じる人がいる一方で、話していると何故か良い人でいられる人もいます。 私が後者の人間になれれば大分生きやすくなるかなと思います。 あとは周囲の人間のレベルを引きずり落とさないと話せない人と話すときに、レベルを合わせてあげてしまうのも良くない癖かなと思います。 上手く生きれたらいいんですけどね。

          落書きOKの落書きするやつ罪深いにもほどがある

          生きる意味ではなく、生きてても良いという確信が欲しい。

          お疲れ様です。水田真理です。 人生に意味を求める意味を知るのはいつになるのかわかりませんが、そんなものより私は安心か確信が欲しいのです。 不安だ。 解決として不安が無くなったほうが良いのか、不安と仲良しになったほうが良いのかはわかりませんが。とりあえず不安にまみれることが不服という現状があります。 これを人に与えられると依存する未来が見えます。 では自分で与えることが可能なのでしょうか? 自分で与えるというより湧き出るという表現のほうが近いでしょうか。拠り所を求める

          生きる意味ではなく、生きてても良いという確信が欲しい。

          気付いたのは執着

          お疲れ様です。水田真理です。 皆様は人生でどれだけ気付いたことがありますか? 往々にしてそれは「なんでこんなことに気付かなかったんだろう」と思うほど簡単なことだったように思います。 ずっとそこにあったけれど意識の外であったから気付かずに過ごせていた訳ですが、何故今になって気付くのでしょう。 どうすればもっと頻繁に気付きを得ることができるのでしょう。 とはいえ日頃から血眼になって探すのも違うような気もします。 困りますね。

          気付いたのは執着