明治期のてるてる坊主事例(フィクション編)【てるてる坊主考note#21】
はじめに
てるてる坊主の呼び名や姿かたちは、時代とともに大きく移り変わってきました。
たとえば、明治期(1868-1912)のてるてる坊主像については、当時の辞書数点の説明文を手がかりに、かつて整理・検討したことがあります。そこに記されたてるてる坊主の呼び名や姿かたちは、いまとは違った多彩さに満ちていました(★詳しくは「明治期の辞書に見られる、てるてる坊主像【てるてる坊主考note#18】」参照)。
本稿では、明治期のてるてる坊主像について、さらに深く探るべく、当時のフィクション作品に描写されているてるてる坊主に焦点をあててみましょう。対象とするのは、わたしの管見が及んだ、以下の小説や歌劇集です。
これら4点を年代順に紹介します。繰り返すようですが、4点いずれもフィクション作品であり、なかには明治期より一時代前の江戸時代を舞台とした作品もあります。ともあれ、土台には作者が当時もっていたてるてる坊主像が沈められているはずです。
①、巌谷小波『妹背貝』(1889年)
巌谷小波(1870-1933)は童話作家。小説『妹背貝』は明治22年(1889)に発表されました。まだ10代のころの作品です。はじめの「春」の章にてるてる坊主が登場します。
登場人物は仲睦まじい男の子(水無雄、14歳)と女の子(艶、11歳)。男の子は父親の仕事の都合で、父親の友人の家に預けられています。その家には女の子がおり、2人は仲良しです。2人は毎週日曜日には一緒に出かけて遊ぶことを、親たちからも許されています。
2人とも、また日曜日が来るのが楽しみでしかたありません。てるてる坊主が登場するのは、そんな日曜日の前日の場面です(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)[長田1957:109頁]。
晴れてほしい日の前日に雨が降ると、てるてる坊主が作られるようです。裏を返せば、前日が好天であれば、あえて作ることはないのでしょう。作り手は男の子と女の子です。呼び名は「テル〳〵坊主」。
並んで記されている「日和輪」というのも、子どもたちがおこなう晴天祈願でしょうか。2人でするまじないのようですが、具体的なことはわかりません。「日和輪」についてご存じのかたがいらっしゃいましたら、ご教示いただけると幸いです。
②、斉藤緑雨『門三味線』(1895年)
斉藤緑雨(1868-1904)は小説家、評論家。小説『門三味線』は明治28年(1895)に読売新聞に発表されました。当時より一時代前、江戸時代のお話です。その第17章にてるてる坊主が登場します。
話の舞台は江戸の下町。ある晴れた春の日、子どもたち3人(お筆、お浜、巳之助)は桜の名所である上野の山で花見を楽しみました。巳之助はお筆に気がある様子。お浜はそのことが気に入りません。
その翌日、お浜は店番がてらガラス玉に糸を通して指輪を作っていました。そこへたまたま通りがかったのが巳之助。お浜は巳之助を呼び止めて、きのうの巳之助は楽しげだったと嫉みつつ、次のように言います[斉藤1952:57頁]。
お浜の娘心を表す喩えにてるてる坊主が登場します。呼び名は「照照坊主」。巳之助との楽しみな花見を控えて、お浜は3日も前から気もそぞろ。「何うぞ」当日は好天に恵まれますように、せっかくの花見が取りやめになりませんように、と願い続けたようです。お浜の願いどおり、当日は「花日和」に恵まれました。
それからの2人の成りゆきはさておき、本稿で注目したいのは、花見を控えた場面でてるてる坊主が登場している点です。江戸の庶民が花見に際して、てるてる坊主に好天を願う様子は、明治期以前の江戸時代から川柳にしばしば詠われてきました(★下記の表1参照)。
人びとが作るてるてる坊主には、天気の「晴れ」を願う気持ちに加えて、日常生活のなかでときどき訪れる「ハレ」(非日常)の日を待ち望む気持ちも託されてきたようです。
③、寺田寅彦『竜舌蘭』(1905年)
寺田寅彦(1878-1935)は物理学者、随筆家。小説ものこしており、『竜舌蘭』は明治38年(1905)に発表されました。
主人公の青年は20歳代後半。一日じゅう降っていた霧雨がようやくやんだ、静かな夕闇のなか、ふいに14~15年前の記憶が目の前に浮かんできます。
まだ13歳ごろのこと、いとこの初節供の祝に招かれ、母と一緒に母の姉の家を訪れました。祝宴は2日がかり。1日目に続いて2日目も五月雨が降り続いています。2日目の夕方、母は自宅へ帰ったものの、主人公の少年だけは、母の姉の引き留めに逆らうことができず、もう一泊することになってしまいます。
そんな男の子の居心地悪さを描写した場面にてるてる坊主が登場します[中村1967:167頁]。
連日の雨のなか、庭に植わったナンテン(南天)の木の枝にてるてる坊主が懸かっています。材料は紙。ここでのてるてる坊主は、寂しくて心細い男の子が、すがるような思いを寄せる対象となっています。呼び名は「てる〳〵坊さん」。
そして、誰かが作ったこの「てる〳〵坊さん」が効いたのか、連日の雨は夜のうちに上がり、翌朝はすっきりとした五月晴れが広がったようです。
注目したいのは、てるてる坊主が懸かっているナンテンの木。てるてる坊主の設置場所をめぐっては、かつて明治・大正・昭和期における辞書の説明を対象に整理したことがあります(★下記の表2参照)。寺田寅彦が『竜舌蘭』を発表した明治のころには、てるてる坊主の設置場所は軒下が普通だったようです。
わたしの管見の及んだ明治期の辞書のなかで、てるてる坊主の設置場所について記されている辞書は16点。その16点のうち、実に14点において「軒下」が択ばれています。「木」という例は1点のみ。「木」の種類は特定されていません。
続く大正期(1912-26)も、設置場所について記されている辞書6点のうち、「軒下」が5点と大勢を占めます。変化が見られるのは昭和(1926-)に入ってから。やはり辞書16点すべてに「軒下」と説明されているものの、そのうち5点においては「軒下」と並んで「木」と記されています。樹種は5点いずれもナンテン。
すなわち、明治・大正・昭和を通して、設置場所は軒下が普通であったものの、昭和になってからはナンテンの木が択ばれる場合もしばしばあったことがわかります。
辞書のうえでナンテンの木に設置する事例の初出は昭和2年(1927。『言泉』)。寺田寅彦が『竜舌蘭』を発表したのはそれより20年以上も早く、まだてるてる坊主は軒下に吊るされるのが普通だった時期です。言うまでもなく、わたしの管見の限りでは、てるてる坊主をナンテンの木に設置している最も早い事例です。
④、巌谷小波『お伽歌劇』(1912年)
先述した巌谷小波は歌劇集『お伽歌劇』のなかにもてるてる坊主を登場させています。その発表は『妹背貝』から23年後の明治45年(1912)。『お伽歌劇』の付録「お伽唱歌」のなかに「テレ〳〵坊主」と題された歌が収められています。
歌の冒頭、女の子(お花)が遠足を明日に控えて楽しみにしています。しかしながら、昨日も今日もあいにくの雨。女の子はお兄さん(太郎)に、どうにかしていい天気にする方法はないかと尋ねます。そこで、お兄さんが思いついたのがてるてる坊主。2人でてるてる坊主を作って願いをかける場面が次のように描かれています[巌谷1912:297-298頁]。
呼び名は「テレ〳〵坊主」。材料には半紙が使われています。
晴れてほしい日の前日に雨が降るなかで、てるてる坊主を作るという場面設定は、前掲した同じ巌谷小波の『妹背貝』(①)と同様です。やはり裏を返せば、前日が好天であれば、あえて作ることはないのでしょう。巌谷小波にとっててるてる坊主は、「晴れてほしい日の前日に雨」という、憂うべき状況下で意識されるものだったようです。
そして、おおいに注目したいのが設置場所と設置方法。完成したてるてる坊主は、女の子が持ってきた台のうえに座らされています。地面や床、あるいはそこに置かれた物のうえに、てるてる坊主が接するように設置される例は、わたしはこれまで見たことがありません。
わたしの管見が及んだ古今の資料においては、てるてる坊主は必ず吊るされたり結び付けられたり、あるいは貼り付けられたりしていました。ただ単に、台のうえに「すわらせる」というのは、これが唯一の事例です。
さて、願いがかなって晴れた場合には、お礼として甘酒を頭のうえから振りかけ、きれいな川へ流しましょと約束しています。「神酒を供えて川に流す」という作法は、明治期にはまだ稀だったようですが、昭和に入ってから多く見られるようになりました(★表3参照)。
いっぽう、願いがかなわず雨だった場合には、汚い溝へと投げ込み、「上から石をば ぶつけるよ」「いやなら頼みを 聞いとくれ!」と脅しています。この、「汚い溝へ投げ込んで石をぶつける」というやりかたについては、当時の作法として普遍的なものだったのかどうか、定かではありません。願いの成否による違いを際立たせるために、作者・巌谷小波が考え出した創作なのかもしれません。
このあとの展開はまさに創作の世界。概略を記すと、子どもたちの願いを聞いた「テレ〳〵坊主」は窓から空へと飛び出していき、居眠りしていた太陽を起こします。そして、雷さまや風の神の力も借りつつ、雨雲を追い払ってしまいます。
役目を果たした「テレ〳〵坊主」が戻ると、子どもたちは「テル〳〵坊さん 万歳!」と大喜び。夕焼けのなか、約束どおりに頭から甘酒をたくさん振りかけて、きれいな小川へと流します。
翌日に迫った遠足の当日を待つことなく、前日の夕方の時点で雨はすでに上がっており、見事な即効性です。子どもたちは、願いをかける時点では「テレ〳〵坊主」と呼んでいましたが、願いがかなって晴れたあとは「テル〳〵坊さん」と、少していねいな呼びかたに変えています。
おわりに
限られた数のフィクション作品だけに基づくとはいえ、明治期のてるてる坊主像の一端を垣間見ることができたのではないでしょうか。4点の作品に見られる、それぞれの特徴を整理したのが、下記の表4です。
表を一覧しつつ、最後にてるてる坊主の呼び名について整理しておきましょう。④(表4の№。以下同じ)には2種類の表記がされていました。そのため、全体では5例の呼び名が登場しています。
前半部分に注目すると、「てるてる」という音が最も多く3点。そのほかにも「てりてり」「てれてれ」が1点ずつと多彩です。いっぽう後半部分は「坊主」が3点、「坊さん」が2点。
なお、①と④の作者は同じ巌谷小波ですが、「テル〳〵坊主」「テレ〳〵坊主」「テル〳〵坊さん」といった具合に、いろいろな呼び名を使い分けています。
本稿では、明治期のフィクション作品に見られるてるてる坊主の事例を整理しました。フィクション作品以外の事例、たとえば、当時の雑誌に掲載されている実例などについては、また機会をあらためてご紹介しましょう。
これまでに整理してきた辞書の説明文やフィクション作品に加えて、フィクション作品以外の事例も積み重ねることで、明治期のてるてる坊主像をかなり浮き彫りにできるのではないかと期待されます。
参考文献(丸数字は表4の№に対応。その他は編著者名の五十音順)
①長田幹彦 『現代日本文学全集』84 明治小説集、筑摩書房、1957年
②斉藤緑雨 『かくれんぼ』(第3刷)、岩波書店、1952年
③中村星湖 『現代文学大系』63 現代名作集(1)、筑摩書房、1967年
④巌谷小波 『お伽歌劇』(小波お伽文庫2)、博文館、1912年
・石川一郎〔編〕 『江戸文学俗信辞典』、東京堂出版、1989年
・落合直文ほか 『言泉』、大倉書店、1927年
・国書刊行会〔編〕 『近世文芸叢書』第8 川柳上巻、1911年a
・国書刊行会〔編〕 『近世文芸叢書』第9 川柳下巻、1911年b
・鈴木勝忠 『未刊雑俳資料』9期、1961年
・鈴木勝忠〔編〕 『雑俳語辞典』、東京堂出版、1968年