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雛としてのてるてる坊主【てるてるmemo#6】



1、辞書のなかの「てり雛」

 むかしの辞書でてるてる坊主について引いてみると、ときどき「てり雛」という別名が紹介されているのに出くわします。具体的には、わたしの管見の限りでは江戸時代中ごろから明治・大正期を経て昭和前期までの6例が挙げられます(★表参照)。

 6例のうち、早い時代の3例(表1の①②③)では、「てり雛(照雛)」が項目のひとつとして立てられています。江戸時代中ごろから明治期にかけて、辞書の項目に択ばれるほどに、「てり雛」という呼び名が普及していたようです。
 ただ、『俚諺集覧』(①)の「てり雛」の項を見ても、説明は「てり法師とも又俗にてり〳〵坊主」とあるのみ(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)[村田ほか1899-1900:727頁]。同様に、井上頼国の手になる2冊、『国語漢文新辞典』(②)と『国漢新辞典』(③)で「照雛」の項を見ても、「てりてりばうずにおなじ」と参照先が示されているのみです[井上1905:1369頁、同1911:1369頁]。
 これら3冊の辞書が発行された時期に、おもに使われていたのは「てり〳〵坊主(てりてりばうず)」であったことがわかります。

 いっぽう、遅い時代の3例(表1の④⑤⑥)では「てり雛」の項はありません。「てるてるばうず(てりてりばうず、テルテルボーズ)」の項の説明文のなかで「てり雛(てりびな)」が挙げられている程度です。大正・昭和前期になると、数ある別名のうちのひとつという位置づけに過ぎなかったようです。
 ともあれ、古今を通じて優勢だった「てりてりばうず」や「てるてるばうず」といった呼び名の陰で、「てり雛(てりひな、てりびな)」という呼び名もまたしぶとく使われつづけてきたことがわかります。繰り返すようですが、それは江戸時代中ごろから昭和前期にかけてのことである点を確認しておきましょう。

2、江戸時代に詠まれた川柳

 なお、ここまで紹介してきたように、「て雛」という呼び名は古今の辞書に散見されるものの、「て雛」という例は見られません。また、「てり雛」という語は辞書のなかに散見されるのみで、わたしの管見の限りでは、辞書以外の書物にはまったく見られません。
 ただし、江戸時代のてるてる坊主を詠んだ川柳には、しばしば雛とのつながりを垣間見ることができます。川柳集『誹風柳多留』に次のような2句があります[石川1989:242頁]。

紙雛の幽霊花の宵に出来
 
ひな形の調伏をしてあす芝居

 前者は天明6年(1786)に発行された21篇角力句合11丁に掲載されている句です。花見の季節の夜に作られたてるてる坊主が、「紙雛の幽霊」と称されています。
 後者は天保元年(1830)に発行された111篇26丁に掲載されている句です。「調伏ちょうぶく」とは、呪術的な力によって悪を打破すること。
 当時、芝居は屋外で催される場合が多かったのでしょう。そんな芝居見物を翌日に控えて、悪天候を調伏するために「ひな形」としてのてるてる坊主が作られています。「ひな形」とは、昨今ではテンプレートの意味で用いられますが、ここでは小さな人形とでもいった意味でしょうか。

3、形代としての雛

 ひなと聞くと、昨今では豪華絢爛な雛人形が思い浮かびます。民俗学的に見た場合、雛はどういった意味をもっているのでしょうか。『日本民俗事典』で「三月節供」「人形ひとがた」「雛人形」の項を引くと、雛の起源をめぐって以下のような説明が見られます[大塚民俗学会1994:294、597、601頁]。

・もともと旧3月の上旬、農事開始に先立ってみそぎをして穢れを祓う行事があり、その時穢れを移して流してやる形代かたしろとしての人形が今日の雛人形の起りと考えられる。(「三月節供」の項〈執筆:竹田旦(1924-2021)〉より)
 
・雛人形や武者人形はもとは毎年流すものであった。流し雛といって紙や土製の素朴な雛人形を流す風は今も残っている……(中略)……また撫物と呼ばれる紙人形で体中を撫で6月・12月に祓いをする風は東京などでも現在なお行なわれている。(「人形ひとがた」の項〈執筆:今野円輔(1914-82)〉より)
 
・雛人形の起源は形代かたしろで、これに穢や禍を移して流す。あるいは流して神送りをすることに始まるとされている。ひいな(雛)は、はじめは素朴な紙雛であった。(「雛人形」の項〈執筆:直江広治(1917-94)〉より)

 3人の執筆陣が三者三様の表現をとっていますが、総じて、雛の起源は形代であったと説明されています。そして、もともとは紙で作られていた雛に、穢れや災いのもとを託して流したといいます。
 上記の3つの説明文のうちの2つめで指摘されているように、ヒトガタで体をでて穢れを移すことで無病息災を祈願する風習は、昨今でも広く見られます。そうした大祓の行事に用いられる、撫物なでものとしてのヒトガタと同じような役割が、かつての雛には託されていたのです。

4、雛の変遷(形代から飾り人形へ)

 穢れや災いのもとを託して流す形代としての雛。それが昨今のような豪華なかたちに変わったのは、いつごろのことなのでしょうか。同じく『日本民俗事典』の3人の執筆陣の説明に目を向けてみましょう[大塚民俗学会1994:294、597、601頁]。

・雛祭りは公家から武家を経て庶民層にまで滲透したものである。とくに人形に胡粉ごふんを塗る技術が室町時代に中国より入ってきてからの普及がいちじるしいといわれる。(「三月節供」の項〈執筆:竹田旦(1924-2021)〉より)
 
・近世以降、飾り人形、保存する人形が都会から流行するようになった(「人形ひとがた」の項〈執筆:今野円輔(1914-82)〉より)
 
・人形を作る技術が発達し、のちにはしまっておいては毎年取り出して飾るようになった。雛人形という言葉は、江戸後期に入ってから使われるようになった。江戸初期までは、紙雛を、緋毛氈の上に2、3対並べるていどであったが、中期以後になると、布製で公家の正装をした内裏雛だいりびなあるいは御所人形と呼ばれるものが飾られるようになった。(「雛人形」の項〈執筆:直江広治(1917-94)〉より)

 概して、形代ではない飾り人形としての雛は、「公家から武家を経て庶民層に」という流れで「都会から流行するようになった」と説明されています。そうした雛人形が普及しはじめたのは江戸時代の中ごろだったようです。
 先述のように、てるてる坊主の別名「てり雛」という語が散見されたのは、資料のうえでは江戸時代中ごろから明治・大正期を経て昭和前期までのこと。「てり雛」の初出である江戸時代の中ごろというと、まさに雛が形代から飾り人形へと移り変わりつつあった時期に当たります。
 「てり雛」という場合の「雛」とは、形代としての雛なのか、あるいは飾り人形なのか、判然としません。ただ、興味深いことに、かつてのてるてる坊主の姿かたちやまじないの作法などに注目すると、形代らしさが窺える要素をいくつか指摘できそうです。また稿をあらためて、てるてる坊主の形代らしさを探ってみましょう。

 なお、雛にまつわる祈願には、本稿で紹介したように形代として流すのではない、別の方法も見られます。たとえば、平安時代の『蜻蛉日記』では「雛衣ひひなぎぬ」について記されています。「ひひなぎぬ」とは小さな人形用の着物のこと。当時、宮中の女性たちのあいだでは、もろもろの願いを込めて神前に「ひひなぎぬ」を奉納する風習がありました。
 この『蜻蛉日記』記載の「ひひなぎぬ」を用いた願掛けをめぐっては、これこそがてるてる坊主の起源であるというような、誤った説がしばしば唱えられてきました。江戸時代から繰り返されてきた、その根強い誤解の原因については、以前に整理・検討しました(★詳しくは「『蜻蛉日記』の「ひひなぎぬ」【てるてる坊主考note#11】」参照)。

参考文献
 
【全体に関わるもの】(編者名の五十音順)
・石川一郎〔編〕 『江戸文学俗信辞典』、東京堂出版、1989年
・大塚民俗学会〔編〕 『〔縮刷版〕日本民俗事典』、弘文堂、1994年

【表に関わるもの】(丸数字は表に対応。二重カッコ内は原典に当たることができなかったための参照元)
①、太田全斉〔編〕 『俚言集覧』 ≪村田了阿〔編〕井上頼国・近藤瓶城〔増補〕『俚言集覧』中巻 増補、皇典講究所印刷部、1899-1900年≫
②、井上頼国 『国語漢文新辞典』、大倉書店、1905年
③、井上頼国〔編〕 『国漢新辞典』、大倉書店、1911年
④、上田万年・松井簡治 『大日本国語辞典』第3巻、金港堂書籍、1917年
⑤、落合直文ほか 『言泉』、大倉書店、1927年
⑥、下中弥三郎〔編〕 『大辞典』第18巻、平凡社、1936年

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