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昭和37年のてるてる坊主【てるてるmemo#16】



 いまから60年ほどさかのぼった昭和38年と39年(1963-64)のてるてる坊主について、かつて紹介しました(★詳しくは文末に掲載した「昭和39年のてるてる坊主【てるてるmemo#14】」、および、「同38年【同#15】」参照)。
 引き続き本稿では、それに先立つ昭和37年(1962)のてるてる坊主に目を凝らしてみましょう。材料とするのは、ジャンルを問わずてるてる坊主研究所で蒐集してきた文献資料。随時、昭和38~39年の事例とも比較しながら検討を進めていきましょう。

1、写真や絵に登場する10点

 まずは、写真や絵のある資料10点から(★「昭和37年(1962年)のてるてる坊主(てるてる坊主図録Ver.3.3)」、および表1参照)。検討の切り口としたいのは「姿かたち」と「目鼻の有無」の2点です。

 第一に姿かたちをめぐって。昨今とは異なる姿のてるてる坊主がふたつ見られます。ひとつは資料③。日本更生保護協会の業界誌『更生保護』13巻6号の表紙絵です。描いたのは画家の宮永岳彦(1919-87)。その姿は昨今よく見られるような、裾をひらひらとさせたスカートのような姿ではなく、こけしのようなかたちをしています。胴体の部分には赤い線で模様が描かれています。おそらく着物のようなものを着ているのでしょう(★図1参照)[『更生保護』1962:表紙]。

 もうひとつは資料⑤。婦人雑誌『婦人生活』16巻6号の「初夏の漫画コンクール」から。漫画家・蓮見たん(?-1982)が描いた「テルテル坊主の効用」と題する一枚です。このてるてる坊主も、着物のようなものを着ています。手は見えないものの、衣には袖口があるようです。帯を締めているようにも見えます[『婦人生活』1962:236頁]。
 昨今のような裾をひらひらとさせたスカートのような姿ではなく、着物のようなものを着た姿のてるてる坊主は、実は昭和30年(1955)ごろまでは主流でした。わたしの管見が及んだ限りでも、江戸時代から明治・大正期を経て昭和の中ごろまでは、袖のある着物を着たり、帯を締めたり、といった姿のてるてる坊主を散見できます(★詳しくは「【てるてる坊主動画#2】忘れられたてるてる坊主 ―かつて見られた着物姿をめぐって―」参照)。

 第二に目鼻の有無をめぐって。写真や絵に登場するてるてる坊主10点のうち、眉や目・鼻・口など、顔のパーツのいずれかがあるものは5点(①③⑤⑥⑧)。このうち資料⑧は、眉・目・鼻・口がそろっているとはいえ「へのへのもへじ」です。いっぽう、目鼻がないのっぺらぼうのものも5点(④⑥⑦⑨⑩)を数えます(⑥は両者が混在、②は不詳)。
 すなわち、目鼻のあるものとないものが5点ずつで、数の上では拮抗しています。翌昭和38年も同じように、目鼻のあるものとないものの数はほぼ拮抗しています。しかしながら昭和39年には、目鼻のあるものが10点中7点を占めており、のっぺらぼう3点よりもだいぶ優勢です(★表2参照)。

2、童謡以前のこと

 写真や絵に登場するてるてる坊主10点をもとに、昭和37年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては写真や絵のない文字資料にも目を向けてみましょう(★表3参照)。

 まずは内田晴康(生没年不詳)の『おまじない物語』(資料⑳)。副題に「明治末期の浜松風物誌」と付されており、浜松の伝馬町(現在の静岡県浜松市中区)で生まれ育った著者が明治40年(1907)ごろをふりかえりつつ、幼少期の生活をつづっています。てるてる坊主が登場するのは「福田屋と箒星の巻」という一節です[内田1962:33頁]。

「照る照る坊主、照る坊主、あした天気にしてお呉れ」今の子供がやっているように、昔の子供も照る照る坊主様には随分御厄介をかけたものだ……(以下略)

 引用箇所の冒頭で、「照る照る坊主、照る坊主、あした天気にしてお呉れ」と、てるてる坊主の唄が歌われています。歌っているのは「今の子供」なのか「昔の子供」なのか、内田の文面からは判然としません。
 なお、同じように「てるてる坊主てる坊主、あした天気にしておくれ」と歌う、昨今よく知られた童謡「てるてる坊主」が発表されたのは大正10年(1921)のこと。浅原鏡村(1895-1977)の作詞、中山晋平(1887-1952)の作曲によります。
 内田がつづっているてるてる坊主の唄の歌い手がもし「昔の子供」だとすると、それは明治末期の光景。童謡が発表される以前から、「照る照る坊主、照る坊主、あした天気にしてお呉れ」というフレーズが、すでに巷で口ずさまれていた証拠といえます。

 資料⑪の『石見のわらべうた』にも同じようなフレーズが採録されています[酒井1962:187頁]。著者は民話研究者の酒井董美ただよし(1935-)、採譜者は田中幸雄(生没年不詳)。

てりてり坊主 てり坊主
あしたは天気にしておくれ

 伝承者は那賀郡三隅町森溝(現在の島根県浜田市)に暮らす金谷ナツさん。当時の年齢が72歳と記されているので、生まれたのは明治23年(1890)ごろ。わらべうたを歌っていた幼少期を過ごしたのは19世紀の末、明治の中ごろです。いまから130年ほどさかのぼった時代であり、童謡「てるてる坊主」が発表されるより20年ほど前にあたります。
 ここに挙げた明治中ごろの石見の事例(⑪)や明治末の浜松の事例(⑳)から察するに、やはり、童謡「てるてる坊主」が発表される以前から、似たようなフレーズをもったわらべうたが各地で伝えられていたようです。
 なお、石見の事例においては、「あした天気にしておくれ」という具合に、のちの童謡では聞かれない「は」が挟まっています。加えて、なによりも目立つのが、「て坊主」という呼びかた。
 実は、てるてる坊主の呼び名の前半部分はかつて、「てるてる」よりも「てりてり」のほうが一般的だった時代があります。それは江戸時代の中ごろから明治期にかけてのこと。とりわけ明治期の辞書では、わたしの管見の限りでは、12点のうち実に11点で「てりてり」がメインに据えられています。明治生まれの人にとって、しっくりくるのは「てりてり」だったようです(★詳しくは「明治期の辞書に見られる、てるてる坊主像 【てるてる坊主考note #18】」参照)。

3、てるてる坊主の作りかた

 さて、前掲した明治期末の浜松界隈の暮らしをつづった『おまじない物語』(資料⑳)のてるてる坊主をめぐる記述には続きがあります(読みやすいように、引用者が改行箇所を修正した)[内田1962:33頁]。

あした遠足という前夜はちり紙を丸めて頭を拵らえた。そして半紙を四つにも五つにも切って、そのまん中辺にこれを入れて、程よく白糸でくくって裾の方を拡げると、さあこれでよしと安心した。
出来上った小坊主様は寝ていても見えるところに、大人の人に天井から釣るして貰うか、庭のある内の子は南天の枝につるして、あとは他愛もなく夢路についた。

 てるてる坊主の材料として挙がっているのは、ちり紙と半紙と白糸。丸めたちり紙を、「四つにも五つにも」切った半紙で包んだといいます。通常の半紙の寸法は縦1尺1寸(約33.3センチ)、横8寸 (約24.2センチ)。それを4~5つに分割すると、1枚の紙の大きさは縦15センチ、横10センチほどでしょうか。できあがったてるてる坊主は、小ぶりでかわいいサイズだったことでしょう。
 「程よく白糸でくくって裾の方を拡げる」とあるので、衣の裾のほうをひらひらとさせたスカートのような姿にしています。昨今よく見られる、包んだ頭から衣の裾まで1枚の紙でつながった構造です。できあがったてるてる坊主は、親しみを込めて「小坊主様」とも呼ばれています。
 それを窓の外の軒下ではなく、大人に頼んで室内の天井に吊るします。「寝ていても見えるところ」に吊るすというのが大事なポイントのようです。あるいは、庭に生えた南天の木へと吊るす家もありました。

4、お礼の作法

 続いては、加藤玄智げんち(1873-1965)の『神道信仰要系序論』(資料㉜)。宗教学者による論考です。その「第二部 宗教シンボル論」のなかの「第四章 各種シンボルの真義精考」に次のような論述があります(読みやすいように、引用者が改行箇所を修正した)[加藤1962:226頁]。

昔はよく七、八つの子供が明日の天気を祈つて照々坊主と云つて紙で人形をこしらへて軒の下に吊下げて、これに向つて、「明日天気ナアレ」と云つて祈ることもある
……(中略)……
もしその祈願がかなへられて子供の注文通りに晴天になれば照々坊主に向つて感謝のお礼を云つて酒を飲まして川に流し、天気にならなければ紙で作つた照々坊主の首を引つこ抜いて捨てゝしまふと云ふ事実があつた。

 加藤が記している唱え文句は「明日天気ナアレ●●●」。前掲した資料⑪や⑳、あるいは童謡「てるてる坊主」で歌われるような、「あした(は)天気にしておくれ●●●●●」とは異なります。
 興味深いのは、願いがかなったとき、あるいは逆にかなわなかったときの対処法。願いがかなえば、てるてる坊主に向かって「感謝のお礼」を述べ、酒をそそいで川に流すそうです。
 てるてる坊主へのお礼として、神酒を供えて川に流すという作法は、かつては一般的でした。わたしの管見が及んだ主な辞書に限ってみても、明治末期から大正期を経て、昭和中期まで散見できます(★表4参照)。

5、罰の作法

 いっぽう、もし願いがかなわなかった場合はどうでしょうか。翌昭和38年(1963)には、「もし雨が降ったら、きたない溝の中にほうりこんでしまう」という作法が見られました(昭和38年の資料⑦)。願いがかなった場合にきれいな川に流して労う作法と対になる、逆の発想です。
 そして、この昭和37年の資料㉜では、てるてる坊主の首を引っこ抜いて捨ててしまうのが「事実」だと記されています。首を引き抜くことが可能ということは、前掲した『おまじない物語』(資料⑳)に見られたような、包んだ頭から衣の裾まで1枚の紙でつながった構造ではないのでしょう。
 すなわち、衣の裾のほうをひらひらとさせたスカートのような姿ではなかったようです。おそらく、前掲した図1の2点(③⑤)に見られる、衣の部分に頭を挿し込んだような構造なのでしょう。
 てるてる坊主が着物を着て帯を締めているのが一般的だった時代には、首を引っこ抜くという罰がしばしば見られました。わたしの管見の限りでも、ほかに2例確認できます。
 ひとつは江戸時代の天明5年(1785)に詠まれた川柳。「娘あら事てる〳〵の首をぬき」という表現が見られます(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)。『川柳評万句合』(智3)に掲載された句です。願いがかなわなかったため、「娘」は思わずてるてる坊主の首を抜くという荒々しい行動(「あら事」)に出たようです。
 もうひとつは昭和6年(1931)に発行された宗教童話集『葦笛』。作者は浜田勝次郎(生没年不詳)です。第28話に「てるてる法師」と題されたお話が収められています。遠足を控えた前日なのに天気は下り坂という場面。吉夫さんは祖母からてるてる坊主のまじないを教わります。
 できあがったてるてる坊主に向けて、祖母は言葉を掛けます。願いがかなって晴れた場合には酒を掛けてあげるけれど、もしも願いがかなわず雨だった場合には「ゴミばこてゝやる」という脅し文句です。しかしながら、残酷な結末を迎えます[浜田1931:130-131頁]。

翌朝よくてう大変たいへんあめでした。吉夫よしをさんは、てるてる法師ばうずくびつこぬいてドブにてました。

 願いがかなわず雨だった場合、祖母はゴミ箱に捨てると脅しましたが、吉夫さんはより厳しく、首を引っこ抜いたうえでドブに捨てています。さぞかし悔しかったのでしょう(★詳しくは「昭和ヒトケタのころのてるてる坊主事例【てるてる坊主考note#24】」参照)。

 願いがかなわなかった場合の罰については、昭和37年の資料に限ってみても、ほかに2点で言及されています。ひとつは、大阪市内の小学校の児童が詠んだ短歌集『現代児童万葉集』(資料⑫)から[池原1962:48頁]。

せっかくの遠足なのに雨がり、てるてるぼうずをちぎってしまう (福島裕子)

 てるてる坊主は首を引っこ抜かれるのではなく、ちぎられています。このてるてる坊主はおそらく、包んだ頭から衣の裾まで1枚の紙でつながった構造なのでしょう。
 もうひとつは、福永かをり(1934-)の童謡集『子山羊』(資料⑭)から[福永1962:120頁]。

  雨
 
ピチ ピチ はっぱに 雨が ふる
ピチ ピチ お池に 雨が ふる
 
雨ふりかえるは ケロケロ ないた
お池の ふちで ああ いい きもち
 
てるてるぼうずは エンエン ないた
おくびを きられる ああ いや いやよ。

 首を切られるのが嫌で、てるてる坊主が「エンエン」と泣いています。先述した浅原鏡村の作詞による童謡「てるてる坊主」でも、3番の最後では「それでも曇って泣いたなら そなたの首をチョンと切るぞ」と歌われます。
 願いがかなわなかったら首を切るという作法は、童謡「てるてる坊主」以前から続いてきた風習なのでしょうか。あるいは、童謡「てるてる坊主」によって広まった風習なのでしょうか。詳しい先後関係はいまのところ不明です。

6、建物の周辺部・木・その他

 次に注目したいのは設置場所。木に8点(②⑦⑧⑮⑯⑱⑲⑳)、軒に7点(④⑫㉑㉕㉗㉙㉜)窓辺に2点(⑥⑨)見られます。軒と窓辺を建物の周辺部としてまとめると、建物の周辺部に9点、木に8点で、両者の数は拮抗しています。
 翌昭和38年は建物の周辺部に8点、木に5点。昭和39年は建物の周辺部に5点、木に3点。いずれも、建物の周辺部が木よりも少しずつ優勢でした(★表5参照)。

 木の種類に言及されているのは4点。内訳は南天3点(⑯⑱⑳)、柿1点(⑲)です。先述のように資料⑯では、「寝ていても見える」天井と「庭のある内の子は南天の枝」とが並記されていました。南天(ナンテン)は音が「難を転じる」に通じるため、災厄除けのまじないにしばしば用いられます。

 このほか昭和37年には、梅雨どきのデパートの一室にてるてる坊主が吊るされたという記事が目立ちます。紹介するのは2点(資料㉓㉖)。前者は『産業動向』166号の「百貨店」の項の一節、後者は『政経時潮』17巻8号の「ハンデを背負った日本経済」という記事の一節です[『産業動向』1962:19頁、『政経時潮』1962:17頁]。

・この6月の売上げ不振がいかに衝撃的であつたかは、有力百貨店の社長室にテルテル坊主が下げられて雨が止むのを祈るばかりだつたというニュースにもあらわれたとおりである。

・朝から雨が降ると売り上げは三〇%減り、午後から降れば二〇%減るといわれる。池袋の某デパートは店内の事務室に大きなテルテル坊主をぶらさげ、……(中略)……雨にも負けずお客を呼びこむなど、涙ぐましい努力がみられる。

 この年は不景気に長雨が重なり、デパートの客足が鈍りました。そのため、天候回復を願って、あちこちのデパートで社長室や事務室にてるてる坊主を吊るす光景が見られたといいます。
 また、資料⑰では望遠鏡にてるてる坊主が吊るされています。『天文月報』55巻5号に掲載された「ラエ日食観測記」の一節で、著者は天文学者の斉藤国治くにじ(1913-2003)[『天文月報』1962:102頁]。

ラエ測候所から届いた明日の天気予報は“fine morning. cloudy”とある。これはなんのことか。かごしま丸からてるてる坊主が3個とどけられ、それぞれ望遠鏡につるす。……(以下略)

 ラエはパプアニューギニアの港町。皆既日蝕を観測するため、当地に滞在した日々のレポートです。ここに挙げたのは、日蝕の前日である2月4日の記事。
 あいにくの曇天が続き、明日の天気予報も朝のうちだけ晴れて日中は曇り。晴天を願って、仲間の船からてるてる坊主が3つ届いたので、それを望遠鏡に吊るしたといいます。

7、てるてる坊主の代役あるいは本体

 この年の文献資料には、てるてる坊主の代役や本体と称するものの登場も目立ち、3点を挙げられます。1点めは『唐津市史』(資料㉜)から。唐津の曹洞宗10か寺のひとつ宝昌寺をめぐって、次のような記述が見られます[唐津市史編纂委員会1962:1255頁]。

境内に天正十三年在銘の六観音六地蔵があり、県内にも珍らしい貴重な文化財であるが、テルテル坊主代りにたたかれることは実に惜しいことである。

 宝昌寺が建つのは当時の満島みずしま大正町(現在の佐賀県唐津市東唐津二丁目)。その境内に天正13年(1585)の銘をもつ六観音と六地蔵があって、「テルテル坊主代りにたたかれる」といいます。晴天祈願にご利益がある仏像なのでしょう。
 「テルテル坊主代り」ではなく、てるてる坊主そのものを叩くという事例は、1900年代前半ごろの資料に散見できます(★表6参照)。 

 2点目は婦人雑誌『新婦人』17巻11号(資料㉚)から。「民芸の旅〈山梨県の巻〉」と題した特集のなかで、「山窩の玩具」として、手作りの人形がいくつか紹介されています。そのひとつが「テルテル坊主の役をするひんより坊」[『新婦人』1962:59頁]。
 山窩サンカとは、かつて竹細工や川漁などを生業として、山から山へ移動しながら暮らしていた人びとです。その山窩たちに伝えられてきた伝説をもとに、地元の工房が創作した人形だといいます。先の尖った笠をかぶり、あかんべえと舌を出した、ユーモラスな姿をしています(★図2参照)。

 3点めは『ミナト神戸』という観光案内書(資料㉔)から。当時の兵庫区有野町(現在の兵庫県神戸市北区有野町)にある曹洞宗・布袋寺には、高さ約5メートルの布袋さまの像が建っています。三田盆地をやさしく見下ろすその布袋さまの説明に、てるてる坊主が登場します[朝日新聞社神戸支局1962:100-101頁]。

布袋さまは中国唐代の禅僧、契此のこと、ミロク(弥勒)の化身とも、テルテル坊主の本体ともいう。いずれにしても、七福神のなかで唯一の実在人物、そこが人気のもとらしい。

 七福神のなかで唯一、実在の人物であったという布袋ほてい(?-917?)。またの名を契此かいしともいい、「ミロク(弥勒)の化身とも、テルテル坊主の本体ともいう」と説明されています。
 前者の「ミロク(弥勒)の化身」という説明に関しては、中国でしばしば弥勒が布袋さまの姿で描かれる場合もあることから納得がいきます。ただ、後者の「テルテル坊主の本体」という説明に関しては、まったくの謎です。てるてる坊主と布袋さまの密接な関係を裏づける資料は、わたしの管見の限りではほかに見当たりません。

 本稿で注目した昭和37年のてるてる坊主を含め、もっと長い目で見た昭和30年代全般のてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。

参考文献

【表1と表3に関わるもの】(発行年はいずれも昭和37年(1962)。丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。)
①永岡治『一年ぼうず : 子どもの四季』、理論社
②大野義輝『気象・天気予報』、ポプラ社
③『更生保護』13(6)、日本更生保護協会(宮永岳彦「表紙のことば」)
④『小説倶楽部』15(7)、桃園書房(家石かずお「ポジ子ネガ吉」)
⑤『婦人生活』16(6)、婦人生活社(蓮見旦「テルテル坊主の効用」)
⑥『こども絵本』4(3)、小学館(北田卓史〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑦鳥居忠五郎ほか〔編〕『たのしい音楽 3年生』、岩崎書店(岩崎ちひろ〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑧『こども科学館』23、国際情報社(陣内利之〔作・絵〕「カンちゃんのテルテルぼうず」)
⑨『こばと』5(7)、集英社(松田文雄〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑩『製菓製パン』28(6)、製菓実験社(「みんなで飛ばそうテルテル坊主」)
⑪酒井董美〔著〕田中幸雄〔採譜〕『石見のわらべうた』、松江今井書店
⑫池原楢雄〔編〕『現代児童万葉集』、大阪市文化協会(福島裕子・鈴木喜三郎)
⑬砂沢喜代次〔編著〕『子どもの思考過程』、明治図書
⑭福永かをり『子山羊 : 童謡集』、日本童話会(「雨」)
⑮波多放彩〔編〕『ふるさとの唄』、むつみ村教育委員会(山口県阿武郡むつみ村)
⑯日本文学教育連盟〔編〕『戦後文学教育研究史』上巻、未来社
⑰『天文月報』55(5)、日本天文学会(斉藤国治「ラエ日食観測記」)
⑱『雲母』48(543)、雲母社(松本寒江)
⑲『新文明』12(7)、新文明社(中山富久「宝心院外伝」)
⑳内田晴康『おまじない物語 : 明治末期の浜松風物誌』、睦美屋(「福田屋と箒星の巻」)
㉑『比較文化研究』(2)、東京大学教養学部比較文学比較文化研究室(小野健一「山の神とオコゼ」)
㉒『温泉』30(8)、日本温泉協会(井崎一夫「飯坂から東山へ」)
㉓『産業動向』7月(166)、国民経済研究協会(「百貨店」)
㉔朝日新聞社神戸支局〔編〕『ミナト神戸』、神戸国際観光協会(「あちこち」)
㉕『民間伝承』26(3)、六人社(伊藤公司「天気俚諺について」)
㉖ 『政経時潮』17(8)、政経時潮社(「ハンデを背負った日本経済」)
㉗『児童精神医学とその近接領域』3(4)、児童精神医学とその近接領域編集部(石井高明「1自閉症児の精神発達的考察」)
㉘『バンキング』177、産業経済社(「雨降り坊主」)
㉙警視庁警務部教養課〔編〕『自警』44(6)、自警会(荒垣秀雄「日本の歳時記」)
㉚『新婦人』17(11)、文化実業社(「民芸の旅〈山梨県の巻〉」)
㉛唐津市史編纂委員会〔編〕『唐津市史』、唐津市(「第六編 現在」「第七章 宗教」)
㉜加藤玄智『神道信仰要系序論』、文学博士加藤玄智先生学績記念出版会(「各種シンボルの真義精考」)

【表4に関わるもの】(白抜き丸数字は表の左端の№に対応)
❶三省堂編輯所〔編〕『日本百科大辞典』第7巻、三省堂書店、1912年
❷落合直文ほか『言泉』、大倉書店、1927年
❸新村出〔編〕『辞苑』、博文館、1935年
❹下中弥三郎〔編〕『大辞典』第18巻、平凡社、1936年
❺新村出〔編〕『言林』昭和廿四年版、全国書房、1949年
❻福原麟太郎・山岸徳平〔編〕『ローマ字で引く国語新辞典』復刻版、研究社、2010年(原版は1952年)
❼新村出〔編〕『広辞苑』、岩波書店、1955年

【表6に関わるもの】(白抜き丸数字は表の左端の№に対応)
❶姉崎正治『宗教学概論』(早稲田叢書)、東京専門学校出版部、1900年
❷佐藤賀陽(賀陽生)「各地子供遊」其124 信濃子供遊(『風俗画報』346号、東陽堂、1906年)
❸愛子「天気か雨か」(『少女の友』11巻14号、実業之日本社、1918年)
❹川路柳虹『はつ恋』、新潮社、1925年
❺信濃教育会北安曇部会〔編〕『北安曇郡郷土誌稿』第4輯 俗信俚諺編、郷土研究社、1932年

【そのほか】
・浜田勝次郎『葦笛』宗教童話集第1編、文書堂、1931年


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