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脱衣の衝動【てるてるmemo#4】

長局 てるてる法師 脱衣させ

 この句が詠まれたのは江戸時代の半ば。宝暦11年(1761)に編まれた『川柳評万句合』に収められています(桜2枚目のオモテ16句目)。長局ながつぼねとは宮中に住まう女中のこと。
 のちに『誹風柳(ママ)拾遺』(1796-97年ごろ)にも再掲されており、そこでは「ぐちな͡とかな〳〵」という前句が付されています(同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)[山沢1995:91頁]。
 晴天を願って「てるてる法師」を作ったものの、残念ながら願いはかなわなかったと見えて、長局が愚痴をこぼしながら「てるてる法師」の衣を脱がせている、という光景を詠んだ句であることがわかります。
 衣を着たてるてる坊主というと、いったいどんな姿なのか、昨今では想像しにくいかもしれません。しかしながら、かつてのてるてる坊主は着物を着ているのが一般的な姿だったようです。
 たとえば、江戸時代末期の浮世絵師・歌川国芳(1798-1861)にも、てるてる坊主を着物姿で描いた絵があります。「時世粧菊揃いまゑうきくぞろひ」シリーズのなかの1枚、「まじなひがきく」がそれで、まさに「長つぼね」がてるてる坊主を作っている光景が描かれています(★下記の図参照)。
 着物姿のてるてる坊主は、時代を大きく下って昭和30年代前半ぐらいまで、実は多く見られました(★詳しくは文末の「【てるてる坊主動画#2】忘れられたてるてる坊主 ―かつて見られた着物姿をめぐって―」参照)。

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 さて、冒頭に掲げた「長局 てるてる法師 脱衣させ」という句に話を戻して、注目したいのが「脱衣させ」という行為。
 それはただ単に、用済みとなった「てるてる法師」を片付けようとしているだけなのでしょうか。あるいは、役立たずに終わった「てるてる法師」に対する、罰としての意味を含む作法なのでしょうか。
 はたして、「脱衣させ」という行為は、ただ単に長局の気まぐれによるものなのか、あるいは、晴天祈願がかなわなかった場合の懲罰として定式化された作法だったのか、たしかなことはわかりません。
 ただ、てるてる坊主と衣をめぐっては、『日本大辞典』に興味深い説明が見られます。同書が発行されたのは明治期の半ば過ぎ、明治29年(1896)のこと。「てるてるばうず(照々坊主)」の項を引くと、次のように記されています[大和田1896:1323頁]。

晴天を祈る時紙にて裸体の人形を作り外に出だし置くもの。願叶へば衣を着せ食物を供へなどして之に謝す。

 願いがかなったお礼として、「食物を供へ」ることと並んで「衣を着せ」ることが記されています。お礼に衣を着せるという作法が明記されているのは、わたしの管見が及んだ古今のてるてる坊主資料のなかでは、この『日本大辞典』が唯一の例です。
 てるてる坊主に対する《願いの成否》と《衣の着脱》の関係については、いまのところこれ以上に深く立ち入ることはできませんが、今後も要注目の課題の一つです。

 なお、「長局 てるてる法師 脱衣させ」の句をめぐっては、まったく別の解釈も見られます。昭和43年(1968)に編まれた『続雑俳語辞典』では、この句の説明として「これは、べっこう張型の比喩」と記しています[鈴木1968:653頁]。すなわち、「てるてる法師」は「べっこう張型」を喩えたものだというのです。
 張型は「張形」とも表記されます。男根のかたちに作った淫具で、かつて宮中の長局などにひそかに玩用されました。金属製や木製のもののほか、鼈甲べっこうや牛角を材料とした高価なものもあったようです。
 こちらの『続雑俳語辞典』の解釈が正しいとすると、天気を晴らす本来のてるてる坊主のほかに、人の鬱憤を晴らすために用いられる、隠語としてのてるてる坊主もあったことがわかります。きっと、使い手である長局の気分が晴れるのに伴って、「てるてる法師」はまるで雨後のように湿り気を帯びたことでしょう。


参考文献(著者名等の五十音順)

・大和田建樹〔編〕『日本大辞典』、博文館、1896年
・鈴木勝忠〔編〕『続雑俳語辞典』、東京堂出版、1968年
・山沢英雄〔校訂〕『誹風 柳多留拾遺』上(川柳集成7)、岩波書店、1995年

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