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昭和34年のてるてる坊主【てるてるmemo#19】


 昭和30年代後半のてるてる坊主について、てるてる坊主研究所でこれまで蒐集してきた資料をもとに、かつて紹介しました。昭和39年(1964)から35年(1960)まで、1年ごとにさかのぼって検討を加えました。
 引き続き本稿では、それに先立つ昭和34年(1959)のてるてる坊主に注目します。これまでにジャンルを問わず蒐集してきた文献資料を対象とします。随時、昭和30年代後半の事例とも比較しながら検討を進めていきましょう。
 最初に注目したいのは絵や写真のある資料9例(★詳しくは「昭和34年(1959年)のてるてる坊主(てるてる坊主図録Ver.3.6)」、および表1参照)。

1、姿かたち、目鼻の有無、色

 検討の切り口としたいのはてるてる坊主の「姿かたち」「目鼻の有無」「色」の3点です。第一に姿かたちをめぐって。昨今のてるてる坊主は裾をひらひらとさせたスカートのような姿をしています。昭和34年当時も、そうした姿かたちのものがほとんどを占めており、9例のうち8例に見られます。
 ただし、その8例のうち3例(①④⑥)には、衣を着たてるてる坊主が併存しています(★後掲の図1参照)。なかでも、①と⑥には帯を締めた姿のものが見られます。また、①のてるてる坊主には髪がある点も注目されます。その髪型は女の子のようであったり(①の左側)、こけしのようであったり(①の右側)します。

 なお、9例のうちスカート姿のものが見られない、唯一の例外が⑤(★後掲の図2参照)。写真がやや不鮮明なのですが、木に取り付けられている無数のてるてる坊主は、いずれも衣を着ています。目をよく凝らすと、長い袖のついているものや、帯を締めているものもいるようです。写真の説明文には「服装なども、着物を着せたり、洋服を着せたりして子供たちの身近なもの(ママ)呼びおこさせる」と記されています[『教育創造』1959:75頁]。

 第二に目鼻の有無をめぐって。てるてる坊主が登場する絵画・写真資料9例のうち、眉や目・鼻・口など、顔のパーツのいずれかがあるものは7例を数えます。いっぽう、目鼻がなくのっぺらぼうのものは2例(②⑨。★後掲の図3参照)。⑨は目鼻があるものとのっぺらぼうのものが併存しています(⑤は先述のように写真が不鮮明なため不詳)。

 昭和36年から39年にかけては、目鼻のあるものとないものが数の上では拮抗しているか、あるいは、目鼻のあるものがやや優勢という程度でした。しかしながら、この昭和34年と翌35年に限っては、目鼻のあるものが圧倒的に優勢です(★表2参照)。

 第三に色をめぐって。描かれたてるてる坊主のなかには、色の着いたものが散見できます。資料④には赤や紺の衣を着たものが混じっています(★前掲した図1の右上)。また、資料⑨には全体が赤いものや、頭が赤くて衣にも赤い模様の入ったものが見られます(★前掲した図3の右)。

2、設置場所

 てるてる坊主が登場する絵画や写真9例から読み取れる情報をもとに、昭和34年のてるてる坊主の傾向を大づかみにしたところで、続いては絵や写真のない文字資料にも目を向けてみましょう(★表3参照)。

 前掲した表1と表3を合わせて注目したいのが、てるてる坊主の設置場所。まず目立つのは 軒で11例(②⑦⑩⑪⑯⑱㉒㉔㉖㉘㉜)見られます。また、窓辺にも3例(⑦⑭㉖)見られます。軒と窓辺を建物の周辺部として合わせると12例を数えます(⑦と㉖は軒と窓辺を併記)。
 また、木が9例(①③⑤⑥⑫⑳㉑㉕㉙)。資料㉕では具体的に百日紅(サルスベリ)が登場しています。句集『雲母』45号に掲載の句です。[『雲母』1959:47頁]。

百日紅照る照る坊主ぬれそぼつ   田村露生

 「建物の周辺部」と「木」を比べてみると、昭和36~39年(1961-64)の4年間はいずれも、「建物の周辺部」が「木」よりもやや優勢でした。しかしながら、昭和35年には「木」が「建物の周辺部」よりもだいぶ優勢でした。この昭和34年は再び「建物の周辺部」が優勢です(★表4参照)。

 このほかに、めずらしいところでは「竿の端」や「電灯の下(洗面所)」という例も見られます。前者は全日本海員組合の機関紙『海員』11巻8号(資料⑮)から。「小・中学生のつづり方」欄に寄せられた、木村直棋(小学3年生)の「すいえい」と題する短文です[『海員』1959:71頁]。

ぼくたちは、おとうさんが「あす、あやめ池へおよぎにつれていってやろう」と、にこにこしていつたので、雨がふらないように、てるてるぼうずを表のさおの、はしの方においておきました。

 後者は薬学博士・服部安蔵(1895-1974)の『温泉の指針』(資料㉗)に掲載された短歌から[服部1959:10頁]。

今日の旅の霽るるを願ひてか
 洗面所の電灯の下のテルテル坊主

3、工作としてのてるてる坊主

 てるてる坊主は何を使ってどのようにして作られるのでしょうか。この昭和34年には、てるてる坊主の材料や作りかたに触れた記述の多いのが特徴です。まずは子ども向けに書かれた工作の本2冊から。
 第一に、前掲した資料②(★図3の左)は公楽源一郎(生没年不詳)『やさしい工作教室』の挿入写真ですが、それを説明した本文には次のように説明があります[公楽1959:85頁]。

上は、紙くずをまるめて、丈夫な半紙で包んで糸でゆわえて吊りさげた一番単純なてるてるぼうずです。普通はこれに千代紙の着物を着せます。

 写真のてるてる坊主は、裾をひらひらとさせたスカートのような姿をしていますが、本文中では「普通はこれに千代紙の着物を着せます」と説明されているのが注目されます。

 第二に、同じく前掲した資料⑥(★図1の下)は松石治子(生没年不詳)『子供のためのたのしい室内環境づくり』の挿絵ですが、それを説明した本文には次のように説明があります(傍点は原文のママ)[松石1959:79-80頁]。

てるてる坊主
材料=折紙、画用紙、糸、紙テープ
つくり方=紙テープと折紙で左右に木をつくっておきます。
画用紙や折紙でみんな協同して思い思いのてるてる坊主をつくり、糸をさげておきます。
少しふといたこ糸に、たくさんのてるてる坊主をさげます。
……(中略)……
〈てるてる坊主〉前記の材料の他に、日本紙や、ちり紙を用い、形や顔は子どもの創造性をとり入れて、思い思いにつくらせると、なかなかおもしろいてるてる坊主ができあがります。
例=ざら紙を縦にふたつ折とし、袖を切り込んで首を通します。色紙を帯にしてはりつけます。首は半紙をまるめたものをしん●●にして、別な半紙でくるんで糸で首のところをくくるか、画用紙で平面的なものをつくります。

 てるてる坊主の材料として、画用紙・折り紙・日本紙・ちり紙といったさまざまな紙が挙げられています。日本紙とは和紙のこと。
 あるいは、別に更紙ざらし、いわゆるわら半紙で衣を作るといいます。更紙をふたつに折って、袖のかたちに切り込みを入れ、頭を通します。衣には色紙で作った帯を貼りつけます。衣に通す頭の部分は、半紙を丸めて芯にして「別な半紙でくるんで糸で首のところをくくる」と説明されています。衣のなかの芯となる部分は、昨今のてるてる坊主と同じ姿が想像されます。もしくは、画用紙で平面的なものを作ってもよいと説明されています。
 なお、ここではてるてる坊主を吊るすための木も、紙テープと折紙を用いて創作されています。前掲した『やさしい工作教室』(資料②)とともに、この『子供のためのたのしい室内環境づくり』(資料⑥)も工作の本であるため、一般的なてるてる坊主より装飾性が強めである可能性も否めません。

 このほか、『図工科ハンドブック』(資料⑰)にもてるてる坊主が登場します。久保田ぬい子(生没年不詳)が著した「布をつかって」という節のなかで、「衣裳をつけるお人形」の例として「てるてる坊(ママ)」に触れています[林・島崎・湯川1959:296頁]。

4、姿かたちと材料

 前掲した工作の本以外にも、てるてる坊主の姿かたちや材料に触れた記述は散見できます。まずは、姿かたちが着物姿であることがわかる事例。原田士朗(1912-)と原田ひさ江(1930-)の詩集『朝の虹』(資料⑬)から。「もうすぐえんそく」と題した詩の一節です[原田士朗・原田ひさ江1959:41頁]。

せんせい おてんき だいじょうぶ
てるてるぼうず てるぼうず
みんな つくって つるしたわ
きれいな きもの きせました
えんそく えんそく もうすぐだ

 続いては、材料がちり紙であることがわかる事例。高知市の「子供を守る婦人の集り」が編んだ『泉よどこから』(資料⑱)から。市内に住む51歳の主婦が寄せた「子どもの世界」と題する一文に次のような記述が見られます[子供を守る婦人の集り1959:53頁]。

けさもまた、しとしととやみまなく雨音がしています。洋服のたちくずで無造作に結んだだけで、まるめたちり紙が頭と胴にわかれ、頭の方に目口を書いたてるてる坊主が、軒先にぶらさがっています。ゆうべ、七才の甥の手になったものでした。

5、文字を書く

 ちり紙で作ったてるてる坊主が登場する事例をもうひとつ。東京駅の駅長であった加藤源蔵(1895-1974)の随筆『東京駅発車:ゆうもあ号』(資料⑯)です。「テルテル坊主」と題した節に、箱根(神奈川県)の宿での一場面が記されています[加藤1959:197-198頁]。

女中さんの話によると、このはなれは新婚専門の部屋で、前夜も新潟から来た新婚のお客様があったとのことである。
軒下に白い紙で作った人形が吊り下ってゆれていた。なんの気なしに取って見ると、ちり紙で作ったテルテル坊主であった。このテルテル坊主は、前夜の新婦が、雨がやんでくれるようにと念じて作ったのだそうであるが、顔も可愛らしく描けていて、なかなか手ぎわよく上手に出来ていた。背中の方に新婦が書いたらしく達筆な女文字で、「心あらばどうぞ天気にしておくれ」と書き込んであった。

 材料がちり紙である点ととともに注目されるのは、てるてる坊主の背中に願いを表した文字が書き入れてある点。前掲した資料⑨(★図3の右側)でも、男の子が手にしているてるてる坊主には、赤や緑色の文字で「てる」と2か所に書き込まれています。ひとつは衣の部分ですが、もうひとつは頭に書いてあります。
 このように、てるてる坊主に文字を書き入れるのは、近世・近代(江戸時代から明治・大正期を経て昭和前期まで)を通じて、しばしば見られた作法です(★詳しくは「【てるてる坊主動画#4】てるてる坊主に文字を書くこと―近世・近代編—」参照)。

6、ウイスキーを注ぐ

 願掛けの作法は、文字を書き入れるだけではありません。ウイスキーを注ぐという例もふたつ見られます。登山家・春日俊吉(1897-1975)がまとめた『山岳遭難記』に記されている事例です。
 2例ともに、舞台は6年前(昭和28年=1953)の夏、北アルプスの数ある山小屋のひとつ烏帽子小屋。富山・長野県境、標高2551メートルの地点に建つ小屋です。悪天候のなか、山々を縦走してきた一行は7月19日の午後に烏帽子小屋へとたどりつきます。
 連日の雨に見舞われ、小屋で待機を余儀なくされている場面に、てるてる坊主が登場します。同じ光景を別々の人物が描写しています。ひとつは『山岳遭難記』第2に収められた「鷲羽岳北方稜線上の風雨異変」と題する一文より[春日1959a:52頁]。

弱ったのは天候だ。小屋には十五名からの客がいた。なかには雨に足をとられ、まる二日も滞留しているひともある。……(中略)……だが、天ははなはだ無情であった。雨がやむどころの沙汰ではない。前日よりもひどい吹き降りだ。とても前進は不能である。同じ思いの十五名、しぶしぶテルテル坊主などをつくり、持参のウイスキーをふりかけて一日あそぶ。

 もうひとつは『山岳遭難記』第3に収められた「アルプスの谷の彷徨十三日間」と題する一文より[春日1959b:33頁]。

翌二十日の朝も相変らずの悪天候で、強風までが、小屋の屋根を吹きとばしそうであった。……(中略)……当方も騒ぎまわったところでしようがない。テルテル坊主をつくり、それに持参のウ(ママ)スキーをを垂らしたりして、退屈で退屈でたまらぬ一日をむなしくおくる。実に長い夏の二十余時間であった。

 小屋に到着した翌日の7月20日も朝から雨続きであったため、退屈しのぎにてるてる坊主を作って、天候の回復を待つよりしかたない様子が記されています。
 注目されるのは、作ったてるてる坊主にウイスキーを振りかけたり垂らしたりしている点。むろん、このウイスキーは山での愉しみとして、重たい思いを我慢しながら担いできたものなのでしょう。

 願いがかなって好天に恵まれたら、てるてる坊主へのお礼に神酒を供える、という作法はかつて一般的でした。江戸時代末期から明治・大正期を経て昭和中期まで散見できます。対して、ここに挙げた2例では、てるてる坊主を作ってすぐ、結果がわからないうちにウイスキーを注いでいます。
 このように、願いを掛ける時点で早くも酒を注ぐという事例はまれです。ほかにわたしの管見が及んでいるのは2例のみ。ひとつは大正11年(1922)に発行された郷土研究雑誌『土の鈴』に報告されている長崎の事例[田中1979(1922):79-80頁]。もうひとつはフィクションで、この翌年の昭和35年(1960)に発行された、長崎謙二郎(1903-68)の時代小説『天晴れ鳶』に綴られている事例です[長崎1960:86-88頁]。

7、坊主ではなく法師

 最後にてるてる坊主の呼び名をめぐって。小倉郷土会から発行された『記録:郷土北九州』第6冊(資料㉓)に郷土史家・浦橋七郎(1911-60)が「続・豊前童戯抄」と題した一文を寄せています。豊前の子どもたちのあいだに伝えられてきた遊びを紹介した報告です。豊前とは現在の福岡県東部と大分県北西部にまたがる地域。
 「綾取り」「将棋遊び」「石なげ」などについて詳しく説明したあとで、最後に「雑戯」として遊びの名前だけがいくつか挙げられています。そのなかに、「しゃぼん玉」「指相撲」などと並んで「てるてる法師」と記されています。注目されるのは、てるてる坊主ではなく「てるてる法師●●」である点。

 文献資料のうえでてるてる坊主の存在を確認できるのは、わたしの管見の限りでは、江戸時代の半ばごろから。呼び名の語尾には、当初からいまに至るまで「坊主」あるいは「法師」が多く使われてきました。
 「坊主」と「法師」はどちらも、言うまでもなく僧侶を意味します。そして、読みかたも「ぼうず」と「ほうし」でよく似ています。かつて分析してみたところ、「坊主」より「法師」のほうが多く見られた時代があります(★表5参照)。

 具体的には、「法師」が優勢だったのは、江戸時代中期にあたる18世紀前半から、江戸時代後期の1830年ごろまでの約100年間。それ以降は現在に至るまでおよそ200年のあいだ、ずっと「坊主」が優勢です(★詳しくは「「法師」から「坊主」へ【てるてる坊主の呼び名をめぐって#7】」参照)。

 昨今に目を転じてみると、わたしたちの日常語での主流は言うまでもなく「てるてる坊主●●」。研究書や辞書類で「法師」系に触れていることもありますが、あくまでも副次的な扱いで、主となっているのはやはり「坊主」です。昭和中期以降でてるてる坊主ではなく「てるてる法師」という表記が用いられているのは、本稿で紹介した『記録:郷土北九州』の事例が、わたしの管見の限りでは唯一のものです。
 「法師」単独ではなく、「法師」が「坊主」と並列されている事例にまで視野を拡げてみても、昭和中期以降で該当する事例は、わたしの管見の限りではひとつだけ。台東区(東京都)から平成9年(1997)に発行された『台東区むかしむかし:お話と遊び』において、「春の遊び」のひとつとして「てるてる坊主・照々法師」と題する項が立てられています[台東区立教育研究所1997:182頁]。

 本稿で注目した昭和34年のてるてる坊主を含め、もっと長い目で見た昭和30年代全般のてるてる坊主の動向については、また稿をあらためて検討できればと思います。

参考文献

【表1と表3に関わるもの】(発行年はいずれも昭和34年(1959)。丸数字は表の左端の№に対応。うしろのカッコ内は詳しい掲載箇所や作者等。表記は原文のママ。⑳に見られる、同じ音の繰り返しを表す「くの字点」は横書きできないため「〳〵」と表記)
①日本歌謡出版社〔編〕沢田弘〔絵〕『100万人の唱歌集』、鶴書房(「てるてる坊主」)
②公楽源一郎『やさしい工作教室』、誠文堂新光社(「てるてるぼうず」)
③折井英治『たのしい理科の学校』2年生、大日本図書(「おばあさんの てんきよほう」)
④静岡福祉事業協会〔編〕『あそび』13(6)、児童福祉会(早川元二〔文〕林俊夫〔絵〕「あめ あめ やんどくれ」)
⑤『教育創造 = The educational creation』1-129、高田教育研究会(松岡中庸「教科の実践 豊かな人間をめざして―立体表現を主とした創造教育」)
⑥松石治子『子どものためのたのしい室内環境づくり』、ひかりのくに昭和出版(「六月 てるてる坊主」)
⑦『読切倶楽部』8(9)、三世社(小島功〔作・絵〕「二色マンガ てるてる坊主」)
⑧『めばえ』2(3)、小学館(人形座〔製作〕久米茂〔写真〕「てるてるぼうず」)
⑨『よいこ』4(3)、小学館(林義雄〔絵〕「てるてるぼうず」)
⑩赤井田正『学校劇の道:学芸会の運営と創作演出の指導』、刀江書院(「「つくる」分野の指導」)
⑪湯本信夫ほか〔編〕『理科の治療的指導』小学校低学年、学芸図書(「迷信を重んずる子ども」)
⑫新川和江『絵本「永遠」:新川和江詩集』、地球社(「問」)
⑬原田士朗・原田ひさ江『朝の虹』、理論社(「もうすぐえんそく」)
⑭文学教育の会〔編〕『講座文学教育』第3  文学教育の実践的構想、牧書店(近藤徹「もっと“ゆとり”がほしい」)
⑮『海員=The seamen:全日本海員組合機関誌』11(8)、全日本海員組合本部(木村直棋「すいえい」)
⑯加藤源蔵『東京駅発車:ゆうもあ号』、東西文明社(「テルテル坊主」)
⑰林健造・島崎清海・湯川尚文〔編〕『図工科ハンドブック』、門書店(久保田ぬい子「布をつかって」)
⑱子供を守る婦人の集り〔編〕『泉よどこから』、高知市立市民図書館(「子どもの世界」)
⑲稲富栄次郎ほか〔編〕『道徳教育実践講座』第6巻、牧書店(阪本一郎「三・四年生の道徳意識」)
⑳『心の花』63(4)、竹柏会(藤代孝「てる〳〵坊主」)
㉑『ポトナム』36(8)ポトナム短歌会(「作品Ⅲ」高橋依理恵)
㉒『覇王樹』39(12)、覇王樹社(小西静子「身辺雑詠」)
㉓『記録 : 郷土北九州』第6冊、小倉郷土会(浦橋七郎「続・豊前童戯抄」)
㉔『酒放談』1(5)、酒放談社(中村公昭「花の頃」)
㉕『雲母』45、雲母社(田村露生)
㉖大井洋子『子の歴史:大井洋子歌集』、林間短歌会(「昭和三十二年」)
㉗服部安蔵『温泉の指針』、広川書店
㉘永井誠一・永井茅乃『長崎の鐘はほほえむ:残された兄妹の記録』、知性社(「原子野の鐘」)
㉙春日俊吉a『山岳遭難記』第2、朋文堂(「鷲羽岳北方稜線上の風雨異変」)
㉚春日俊吉b『山岳遭難記』第3、朋文堂(「アルプスの谷の彷徨十三日間」)
㉛『沃野』14、沃野社(青山みのる)
㉜『歌と観照』29(8)、歌と観照社(品川静枝)

【そのほか】(編著者名の五十音順)
・台東区立教育研究所〔編〕『台東区むかしむかし:お話と遊び』1、台東区、1997年
・田中田士英「小学生も有する俗信」(土の鈴会『土の鈴』復刻版 第15輯、村田書店、1979年〈原本は本山豊治ほか〔編〕、1922年〉)
・長崎謙二郎『天晴れ鳶』、明文社、1960年(「てるてる坊主」)

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