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西日本では「日和坊主」というのは本当か【てるてる坊主の呼び名をめぐって#6】


はじめに

 てるてる坊主の呼び名について、近世・近代の文献資料や昨今の状況などを手がかりに探る作業を続けています。今回注目したいのは、江戸時代から明治・大正期にかけての文献資料に散見される「日和坊主」という呼び名です。
 「日和坊主」をインターネットで検索してみると、「民俗学者・宮田登によれば、西日本ではてるてる坊主のことを日和坊主と呼ぶそうである」というフレーズがコピペを繰り返されてあちこちに見られます。
 上記のような民俗学者による説明はいったいどこでされているのでしょうか。実際に西日本ではてるてる坊主のことを日和坊主と呼ぶ事例が見られるのでしょうか。

1、民俗学者の宮田登の着目

 民俗学者の宮田登(1936-2000)は、『世界大百科事典』において「てるてるぼうず(照々坊主)」の項を執筆担当しており、そのなかで「日和坊主」に触れて以下のように記しています[宮田2011:228頁]。

西日本地方では,〈日和(ひより)坊主〉として白い坊主頭の人形を作るが,逆に雨乞いのときは,黒い坊主頭にしたという.

 おそらくこの『世界大百科事典』の記述が注目され、広く人口に膾炙しているものと思われます。
 もとより、宮田が「日和坊主」について最初に触れたのは、「てるてる坊主と日和見」という論考です。昭和55年(1980)に国立民族学博物館から発行された『民博通信』11号に所収のものであり、てるてる坊主についての話題のなかで以下のように記しています[宮田1980:41-42頁]。

西日本の各地では、日和坊主の語がある。山口県萩市で、日和乞のために白い坊主を、雨乞のために黒い坊主の人形を軒に吊したという。

 西日本の各地において、晴天を祈願するには白い坊主頭の人形を、降雨を祈願するには黒い坊主頭の人形を作り、軒下に吊るすのだそうです。そして、具体的に山口県萩市が例として挙げられています。この論考はのちに宮田の著書『日和見 日本王権論の試み』(1992年)に収められました[宮田1992:238-241頁]。
 宮田が紹介している「日和坊主」の詳細を知りたくて、私はご本人に手紙で質問させていただいたことがあります。たいへんお忙しいなかで、ていねいなご回答をいただきました。
 返信いただいたお手紙(1998年6月29日付け消印)によれば、かつて学生時代に、山口県在住の「松岡さん(民俗学者)」から教わった事例であり、萩市をはじめとして周辺各地でも見られる風習だと伺ったとのことです。文中の「松岡さん(民俗学者)」とは松岡利夫(1914-1994)のことと思われます。残念ながら、当時すでにご存命ではありませんでした。

2、民俗語彙集の事例から

 宮田によれば、「日和坊主」の語は「西日本の各地」で見られるといいます。民俗学研究所が編んだ『綜合日本民俗語彙』を引いてみましょう。同書は、庶民のあいだで使われてきた言葉を日本列島各地から集めた語彙集です。宮田が前掲論考で「日和坊主」に触れるより四半世紀前、昭和30年(1955)に発行されました。そのなかの「ヒヨリボウズ(日和坊主)」の項には以下のような記載があります[民俗学研究所1955:1336頁]。

山口県萩市付近で日和乞のために軒に吊す径六、七寸の白いぼて玉をいう。雨乞には黒いのを吊すという。福岡県の小倉にもこの語はあり、杓子に眼、口、鼻を半分ずつ書いて吊す。長崎市にもヒヨリボンサンと呼ばれるのがあり、ふつうの照々坊主を指している。

 1点目の「山口県萩市付近」の事例は宮田が紹介しているものと重なります。ただ、その姿かたちは宮田が例示しているような「坊主の人形」ではなく、「径六、七寸の」「ぼて玉」であるといいます。2点目の「福岡県の小倉」における杓子を用いる事例とともに、たいへん興味深い作法が記されていますが、本稿では行事内容には深入りしないでおきます。
 3点目の「長崎市」の事例は「ふつうの照々坊主」ですが、語尾が少し変化して「ヒヨリボンサン」と呼ばれると説明されています。つい先日、長崎出身のフォロワーのかたから、「うちのおばあちゃんの世代は、お寺のお坊さんのことをボンサンと言ってた」と教えてもらいました。
 いずれにせよ、ここでは『綜合日本民俗語彙』に例示された「日和坊主」3点が、すべて西日本の事例であることを確認しておきましょう。

3、近世(江戸時代)の文献資料から

 歴史的にはどうでしょうか。冒頭で触れたとおり、近世・近代の文献資料に「日和坊主」という呼び名が散見されます。ときには、少し形を変えて「日和坊」「日和坊さん」などとも呼ばれています。
 まずは近世(江戸時代)の事例に目を凝らしてみましょう。私の管見の限りでは、てるてる坊主の呼び名が記された文献資料は39点。それらを年代順に並べて整理したのが下記の表1です。文献の種別は随筆や川柳、辞書など多岐にわたります。

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 時系列に沿って整理してみましょう。文献資料のうえでてるてる坊主の呼び名が見られ始めるのは、近世中期にあたる18世紀はじめごろです。「日和坊主」系の呼び名は当初(①~㉙)はなかなか見られませんが、近世後期の1830年代になると突如3点(㉚㉛㉜)現れます。その後、近世末の1859年にも1点(㊳)見られます。なお、この㊳では「祈晴僧」と書いて「ヒヨリボウズ」と振り仮名が振られています。
 次に、場所に注目してみます。表1では事例の該当地域が明らかなもの、もしくは該当地域が不明でも出版元の所在地がわかるものについては、右端に地名を記しました。その結果、近世の「日和坊主」系4点のうち、3点(㉚㉜㊳)は大坂(現在の大阪)、残る1点(㉛)は京都の事例です。
 宮田の指摘どおり、「日和坊主」は西日本で使われていることがわかります。東日本の事例においてはまったく見られません。東西のなかほどに位置する三河では「テルテルバウシ」あるいは「テル〳〵法師」(㉒)、尾張でも「照り〳〵法師」(㊱)です(同じ音の繰り返しを表す踊り字(くの字点)は横書きできないため、本稿では「〳〵」で表します)。
 裏を返せば、西日本の事例に限ってみると「日和坊主」系の呼び名がほとんどです。それ以外の呼び名が西日本で唯一見られるのは⑪です。京都で出版された俳諧集に「てる〳〵法師」と記されています。近世の事例全般のなかでは早い時期の、近世中期にあたる1773年の事例です。

4、近代(明治・大正期)の文献資料から

 続いて、近代の事例について。昭和前期の文献資料には「日和坊主」は見られないので、明治・大正期のものに限って、年代順に並べて整理したのが下記の表2です。てるてる坊主の呼び名が記された文献資料は14点あり、その種別は小説や歌劇・歌曲集、雑誌など多岐にわたります。

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 「日和坊主」系の呼び名は、明治期の文献資料8点中2点(③⑥)、大正期の文献資料6点中1点(⑬)に確認できます。場所に注目してみると、京都(③)、大阪(⑥)、長崎(⑬)であり、やはり宮田の指摘どおり、「日和坊主」は西日本で使われていることがわかります。東日本の事例においては近世(江戸時代)と同様にまったく見られません。裏を返せば、西日本の事例に限ってみるとすべてが「日和坊主」系の呼び名です。

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 なお、⑬については『長崎市史』(1925年)に収められた方言集です。そこには「照照坊主(テリテリボーズ)」「てるてるばうず」「掃晴嬢」といった多彩な呼び名が見られますが、これらは見出し項目である「日和坊さん(ヒヨリボンサン)」の補足説明として並べられたものです。のちに『綜合日本民俗語彙』(1955年)にも、「ヒヨリボウズ(日和坊主)」の項に長崎市での用例として「ヒヨリボンサン」が採録されていることは先述したとおりです。

5、東日本の「照る」/西日本の「日和」

 ここまで紹介してきた近世・近代の文献資料に見られるてるてる坊主の呼び名について、もう一度整理し直してみましょう。「照る(てる、テル)」という語やその活用形を含むものを「てるてる坊主」系として括り、いっぽう、「日和(日より、ヒヨリ)」という語を含むものを「日和坊主」系として、おおまかに分けてみます(下記の表3参照)。すると、近世の⑪を唯一の例外として、そのほかはすべて、東日本では「てるてる坊主」系、西日本では「日和坊主」系が使われていることがわかります。

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 西日本で唯一の「てるてる坊主」系である近世の⑪は、先述のように1773年に京都で出版された俳諧集であり、そこには「てる〳〵法師」という呼び名が見られます。数少ない事例に基づく推測ながら、京都でこのように「てる〳〵法師」が使われていた近世中期(1773年)には、「日和坊主」系の呼び名はまだ誕生していなかったのかもしれません。
 「日和坊主」系の呼び名が登場し始めるのは、管見の限りでは近世後期の1830年代のこと(近世の㉚㉛㉜)。その後、幕末(近世の㊳)から明治期(近代の③⑥)を経て大正期(近代の⑬=1925年)に至るまでの100年ほどのあいだに散見されます。
 むしろ、この100年ほどのあいだには、西日本で見られるのは「日和坊主」系のみであり、「てるてる坊主」系は一切見られません。東日本の「てるてる坊主」系に対し西日本は「日和坊主」系という対比の構図がはっきりしていた時代と言えるでしょう。
 そして、「てるてる坊主」/「日和坊主」という呼び名の違いには、同じ晴天祈願でありながら、「日が照ること」と「好い日和に恵まれること」のどちらに重きをおくのか、という微妙な違いが反映しているように感じられます。日照/好天をめぐる意識の違いについては、また機会をあらためて検討してみたいと思います。

おわりに

 本稿では、てるてる坊主の呼び名の1つである「日和坊主」に注目してきました。「日和坊主」系の呼び名が文献資料のうえで登場し始めるのは近世(江戸時代)後期の1830年代(表1の㉚㉛㉜)。それから大正期(表2の⑬=1925年)までの100年ほどのあいだに散見されます。
 「西日本の各地では、日和坊主の語がある」という宮田の記述を目にした当初、「日和坊主」の使用頻度として私が想定していたのは、西日本でも「てるてる坊主」と呼ぶのが一般的だが「日和坊主」と呼ぶ事例も散見されるという程度のものでした。しかしながら、文献上の実例を整理してみると、事態は想定外に鮮烈であることが明らかになりました。とりわけ、1830年ごろから100年ほどのあいだは、西日本で見られるのはもっぱら「日和坊主」系であり、「てるてる坊主」系の呼び名は見られません。
 てるてる坊主の呼び名をめぐっては、かつて「てりてり」あるいは「てるてる」という部分に注目して、その変遷の跡を整理したことがあります。てるてる坊主の呼び名が文献上に登場し始めた当初、18世紀には「てるてる」が優勢でしたが、18世紀末から緩やかに変化し、19世紀前期~20世紀前期の100年ほどのあいだは「てりてり」が優勢となります。その後、20世紀前期のうちに「てるてる」へと緩やかに回帰し、その後は昨今まで「てるてる」の圧倒的優勢が続いています。
 注目したいのは、上記のような「てるてる」優勢期の狭間で「てりてり」が一時優勢であった19世紀前期~20世紀前期という期間です。それは、本稿で明らかにした西日本で「日和坊主」が盛んに用いられていた期間とそっくり重なります。「てりてり」という形や「日和坊主」系の呼び名は20世紀前期の同時期に姿を消していき、「てるてる坊主」に画一化されていったようです。
 その変化の要因については定かではありません。ただ、「てりてり」から「てるてる」への変化をめぐっては、国語学者の松井栄一(1926-2018)がそのきっかけとして、子どもたちが慣れ親しんだ童謡「てるてる坊主」(1921年)、および「テルテルバウズ」が登場する学校教科書(1933年)の影響を示唆しています[松井2004]。

 さて、こうした「てるてる」への画一化のなかで残響のように、20世紀も半ば過ぎに発行された『綜合日本民俗語彙』(1955年)では、「日和坊主」の項が設けられています。先述のように、そこには「山口県萩市付近」と「福岡県の小倉」における独特な行事内容の実例が採録されていました。
 いまでも西日本のどこかで、「日和坊主」という呼び名の余韻は残っているのでしょうか。

参考文献
【全体に関わるもの】
(編著者名の五十音順)
・松井栄一『「のっぺら坊」と「てるてる坊主」 現代日本語の意外な真
 実』、小学館、2004年
・宮田登「てるてる坊主と日和見」(『民博通信』11号、国立民族学博物
 館、1980年)
・宮田登『日和見―日本王権論の試み―』、平凡社、1992年
・宮田登「てるてるぼうず(照々坊主)」の項(『世界大百科事典』(改訂
 新版)19、平凡社、2011年)
・民俗学研究所〔編〕『綜合日本民俗語彙』第3巻、平凡社、1955年

【表1に関わるもの】
(丸数字は表1の№に対応。発行年のあとの括弧内は掲載箇所の詳細。二重括弧内は原典にあたることができなかったための参照元。)
①榊原玄輔『榊巷談苑』 ≪太田南畝〔編〕『三十輻』第1、国書刊行会、
 1917年(巻之2)≫
②松月堂不角〔編〕『篗纑輪』11集 巻3、1727年 ≪穎原退蔵〔著〕尾形仂
 〔編〕『江戸時代語辞典』、角川学芸出版、2008年≫
③松月堂不角〔編〕『篗纑輪』11集 巻4、1727年 ≪穎原退蔵〔著〕尾形仂
 〔編〕『江戸時代語辞典』、角川学芸出版、2008年
④苔翁『裏若葉』、1732年 ≪鈴木勝忠〔編〕『雑俳語辞典』、東京堂出
 版、1968年≫
⑤四時庵紀逸〔編〕『武玉川』、1753年、(5編)≪国書刊行会〔編〕『徳川
 文芸類聚』第11、1914-16年≫
⑥自楽『地獄楽日記』、太田庄右衛門ほか、1755年、(巻之2 第1) ≪古
 谷知新〔編〕『滑稽文学全集』第7巻、文芸書院、1918年≫
⑦川柳〔評〕『万句合』、1758年、(満) ≪石川一郎〔編〕『江戸文学俗
 信辞典』、東京堂出版、1989年≫
⑧川柳〔評〕『万句合』、1761年、(桜2) ≪前掲同書『江戸文学俗信辞
 典』≫
⑨如露〔評〕『風丈・如露評万句合』、1762年 ≪鈴木勝忠『未刊雑俳資
 料』第43期、1968年、(8「風丈・如露評万句合」)≫
⑩按山子『静夜独言』巻3、1771年 
⑪滄浪居嘯山『俳諧新選』、橘仙堂善兵衛ほか、 1773年、(巻之1 春
 「藪入」) ≪佐々醒雪・巌谷小波〔校〕『名家俳句集』(俳諧叢書第3
 冊)、博文館、1913年≫
⑫薪葉〔著〕湖竜斉〔画〕『松茸売親方』、1778年 ≪幸堂得知〔校訂〕
 『黄表紙百種』4版(続帝国文庫第34編)、博文館、1909年≫
⑬鳥山石燕〔画〕『続百鬼』、1779年、(中之巻、晦)
⑭川柳〔評〕『万句合』、1785年(智3) ≪前掲同書『江戸文学俗信辞典』
 ≫
⑮菅江真澄『蝦夷喧辞弁』、1789年 ≪菅江真澄『真澄遊覽記』第34冊(巻
 16)≫
⑯山東京伝〔作・画〕『傾城買四十八手』、1790年、(「やすい手」) ≪
 『近代日本文学大系』第11巻(洒落本代表作集)、国民図書、1926年≫
⑰太田全斉〔編〕『俚言集覧』 ≪村田了阿[編]井上頼国・近藤瓶城〔増
 補〕『俚言集覧』中巻 増補、皇典講究所印刷部、1899-1900年≫
⑱呉陵軒可有ほか〔編〕『誹風柳多留』、石井佐太郎ほか、1808年、(41篇
 12丁) ≪前掲同書『江戸文学俗信辞典』≫
⑲式亭三三〔著〕歌川豊国3世〔画〕『鬼児島名誉仇討』、西宮、1808年 ≪
 式亭三馬〔著〕歌川豊国(3世)〔画〕林美一〔校訂〕『鬼児島名誉仇
 討』(江戸戯作文庫)、河出書房新社、1985年≫
⑳小林一茶『我春集』、1811年 ≪小林一茶〔著〕信濃教育会〔編〕『一茶
 叢書』第7編、古今書院、1926-30年≫
㉑小山田与清『松屋筆記』、(巻94)
㉒中山美石「諸国風俗問状 三河国吉田領答書」、1817年 ≪竹内利美ほか
 〔編〕『日本庶民生活史料集成』第9巻 風俗、三一書房、1969年、
 (「諸国風俗問状答」)≫
㉓高田与清『擁書漫筆』巻第4、伊勢屋忠右衛門ほか、1817年
㉔清水浜臣『語林類葉』5
㉕尾上梅幸〔作〕歌川国貞〔画〕『皇国文字娘席書』、丸屋甚八、1826年
㉖文亭綾継〔著〕春川英笑〔画〕『小糸佐七糸桜形見釵』巻之1、1827年 ≪
 中村幸彦ほか〔編〕『角川古語大辞典』第4巻、角川学芸出版、2012年≫
㉗奥山四娟〔著〕円洲〔画〕『浮世名所図会』上巻、1829年(「てる〳〵法
 師雩の霊場」) ≪博文館編輯局〔校訂〕『滑稽名作集』下 5版(帝国文
 庫25、26編)、博文館、1909年≫
㉘喜多村信節『嬉遊笑覧』、1830年、(巻8「方術」) ≪喜多村信節〔著〕
 日本随筆大成編輯部〔編〕『嬉遊笑覧』下、成光館出版部、1932年≫
㉙呉陵軒可有ほか〔編〕『誹風柳多留』、石井佐太郎ほか、1830年、(111
 篇24丁) ≪前掲同書『江戸文学俗信辞典』≫
㉚柳生範萊〔編〕『冠附類題集』、1834年 ≪前掲同書『江戸時代語辞典』
 ≫
㉛山月庵主人『意気客初心』巻之下、吉田屋新兵衛・山城屋佐兵衛、1836年
㉜『冠附あふむ石』、1839年≪前掲同書『江戸時代語辞典』≫
㉝呉陵軒可有ほか〔編〕『誹風柳多留』、 石井佐太郎ほか、1840年、(162
 篇18丁) ≪前掲同書『江戸文学俗信辞典』≫
㉞野之口隆正・ 西田直養・ 岡部東平 『嚶々筆話』第2集、1842年(森田春
 郷「雑説」)
㉟万亭応賀〔著〕静斎英一〔画〕『幼稚遊昔雛形』下巻、吉田屋文三郎、
 1844年 ≪尾原昭夫『日本わらべ歌全集』27 近世童謡童遊集、柳原書
 店、1991年≫
㊱『をたまき集』、1849年 ≪鈴木勝忠『雑俳語辞典』続、明治書院、1982
 年≫
㊲歌川国芳「てる〳〵法主おひよりおどり」
㊳田中楽美『大阪繁昌詩』巻之中、紀律堂、1859年
㊴『和英語林集成』初版、1872年

【表2に関わるもの】
(丸数字は表2の№に対応。発行年のあとの括弧内は掲載箇所の詳細。)
①『現代日本文学全集』第84(明治小説集)、筑摩書房、1957年(巌谷小波
 「妹背貝」)
②稲垣達郎ほか〔編〕『斎藤緑雨全集』巻7、筑摩書房、1991年(「門三味
 線」)
③松井由谷『麗新画帖』、本田書店、1900年 
④『ホトトギス』8巻9号、ほととぎす発行所、1905年(寺田寅彦「龍舌
 蘭」)
⑤『風俗画報』346号、東陽堂、1906年
⑥松瀬青々『妻木 青々句集』、春俎堂・宝船発行所、1904-06年
⑦『実業之日本』10巻20号、実業之日本社、1907年(「坪井正五郎樺太にテ
 リ〳〵坊主を遺す」)
⑧巌谷小波『お伽歌劇』(小波お伽文庫2)、博文堂、1912年
⑨『小学男生』1巻2号、実業之日本社、1919年
⑩徳永寿美子『薔薇の踊子』、アルス、1921年
⑪『少女の友』14巻6号、実業之日本社、1921年(浅原鏡村・中山晋平「て
 るてる坊主の歌」)
⑫中山晋平『童謡小曲』第2集、山野楽器店、1922年
⑬長崎市『長崎市史』風俗編、1925年(古賀十二郎「長崎方言集覧」)
⑭『四年の小学生』創刊号、一星社、1926年(福田正夫「てるてる坊主」)

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