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続・鎌倉時代の「てれてれひのこ」 【てるてる坊主考note #10】

はじめに

 てるてる坊主の存在を文献資料のうえで確認できるのは、私の管見の限りでは、江戸時代なかば(18世紀初めごろ)になってからのことです。ところが、それよりもずっと時代をさかのぼった鎌倉時代(1192ごろ-1333)の女流日記に、てるてる坊主とよく似た響きをもつ「てれてれひのこ」という語が登場します。
 「てれてれひのこ」について記しているのは『弁内侍日記』。その作者は後深草天皇(1243-1304。在位1246-1260)の内侍を務めた弁内侍(生没年不詳)です。ある日の日記に晴天祈願のまじないをする様子がつづられており、そのなかで「てれてれひのこ」という語が唱えられています。
 『弁内侍日記』に見られるこのまじないの様子については、以前に詳しく検討しました(★詳しくは下記の「鎌倉時代の「てれてれひのこ」 【てるてる坊主考note #9】」参照)。引き続き本稿では、この晴天祈願の際の唱え文句である「てれてれひのこ」という語に注目してみましょう。

1、結び灯台を使った晴天祈願

 まずは、以前にも紹介した『弁内侍日記』記載の晴天祈願の記事について、簡単におさらいしておきましょう。晴天祈願のまじないについて記されているのは日記の119段め。いまから770年あまり前、建長2年(1250)秋のできごとです。
 後深草天皇(当時7歳)が母がたの祖父の家へ出かける予定であったところ、その前夜は雨が降りだしそうな怪しい雲行きでした。そこで、内裏の一室において晴天を祈願するまじないがおこなわれます。
ここでは、その様子について記した箇所の活字本文、および岩佐美佐子による現代語訳を以下に掲げます[岩佐1994:224-225頁]。

行幸ぎやうがうならんとての夜、灯台とうだいくひを七人してはせられ侍りし。果てに結ふ人は、「てれてれひのこ」とて舞ふことにてありしを、いつも少将内侍、その役勤むる人にて侍りし……

行幸ぎやうがうの前夜、雨が降りそうだったので、灯台とうだいくひを七人で結んで晴天祈願をおさせになった。最後に結ぶ人は、「てれてれひのこ」と言って舞うことになっていたが、いつも少将内侍がその役を務むる人と決っていた……

 何やら秘術めいた作法がつづられています。まじないに使われている灯台とは、「結び灯台」あるいは「結い燈台」とも呼ばれる照明器具で、土台となる3本の脚を交差させて結びつけた構造です。3本脚のうえにのせた灯明皿に油が入っており、そこに浸した灯心に火をともして使います。

 『弁内侍日記』の主な注釈書3冊を紐解いてみると、この結び灯台を使った晴天祈願について、それぞれ以下のように注釈が加えられています。

【注釈書Ⅰ】玉井幸助『弁内侍日記 新注』(初版1958年、増訂版1966年)
今日の「てるてる坊主」の如き、晴れを祈る当時の習俗であろう。どんな作法か不明であるが、ここの記事から推測すると、七人の者が共同で結い燈台を作り、それに燈火を点じ、さて最後に燈台を結び終った人が「てれてれ火(或は日)の子」といって舞うものであるらしい[玉井1966:210頁]。

【注釈書Ⅱ】今関敏子〔編〕『校注 弁内侍日記』(1989年)
晴れを祈るおまじない。結灯台の杙を結ぶ。詳しいことは不明[今関1989:119頁]。

【注釈書Ⅲ】岩佐美代子〔校注・訳〕「弁内侍日記」(『中世日記紀行集』、1994年)
杭の交差部と脚部をそれぞれ結ぶ緒を、七人で手分けして順々に結ぶ。最後に結ぶ番に当った者は、結び終って「てれてれひのこ」と唱えて舞う。以上、晴天を祈るまじないであるが、詳細は不明[岩佐1994:224頁]。

 晴天祈願の結び灯台づくりに際しては、7人が共同で、あるいは7人が順々に、土台となる脚を結んでいきます。そして、7人のうちで最後の仕上げに結んだ人が、火のともった灯台の前で舞うのが作法だったようです。

2、「てれてれひのこ」の正体

 ここで注目したいのは、結び灯台を使った晴天祈願において、火のともった灯台の前で舞う際の唱え文句「てれてれひのこ」です。「てれてれひのこ」に漢字を充てるとすると、どういった表記が妥当でしょうか。
 玉井は、先述した引用のように、注釈のなかで「てれてれ火の子」あるいは「てれてれ日の子」と表記しています。玉井はさらに、「てれてれひのこ」そのものの傍注においては、「照れ照れひのこ」とも表記しています(注釈書Ⅰ)[玉井1966:210-211頁]。
 あるいは、今関は「てれてれひのこ」について、「照れ〳〵日の子、か。晴れを祈るはやしことば。」と注釈しています(注釈書Ⅱ。同じ音の繰り返しを表す踊り字(くの字点)は横書きできないため、本稿では「〳〵」と表記)[今関1989:119頁]。
 「てれてれひのこ」の前半部分「てれてれ」を漢字表記すると、玉井や今関も述べているように「照れ照れ」で間違いないでしょう。
 後半部分の「ひのこ」についてはどうでしょうか。「ひのこ」と耳にしてまず思い浮かぶのは「火の粉」です。もとより、結び灯台は先述のように灯明皿に入れた油に灯心を浸して火をともすものであり、松明のようにパチパチと火の粉が飛び散ることはありません。
 したがって「火の粉」とは考えづらく、「火の子」(注釈書Ⅰ)あるいは「日の子」(注釈書ⅠとⅡ)のようです。そして、「日が照る」とは言っても「火が照る」とは言わないことを考え合わせると、「照れ照れ」に続く「ひのこ」とは、後者の「日の子」と考えるのが妥当でしょう。

 それでは、「照れ照れ」と期待をかけられる「日の子」とはいったい何でしょう。恐らくそれは、親しみを込めて日(太陽)を擬人化した呼び名ではないかと推測されます。舞に伴う唱え文句として、単に「照れ照れ日」と言うよりも調子を取りやすいため、「照れ照れ日の子」という文言が択ばれたのでしょう。ことによると、昨今の「てるてる坊主、てる坊主……」という唱え文句と似たような、「照れ照れ日の子、照れ日の子……」と続いていく唄があったかもと想像してみたくなります。
 火を前にして女性が「照れ照れ日の子」と唱えて舞う、こうした晴天祈願のまじないは、内裏のなかだけで受け継がれてきたのでしょうか。あるいは、民間に見られた風習を内裏に取り入れたものなのでしょうか。たしかなことはわかりません。ただ、灯台にともる火は、天空に燃える日(太陽)に通じると見なされ、晴天をもたらす力を期待されたことでしょう。

3、てるてる坊主の不在

 「てれてれひのこ」という語をめぐって、注目したい点が2つあります。1点目は、冒頭でも述べたように、この語がてるてる坊主と似たような響きをもっている点です。「てれてれひのこ」とてるてる坊主、両者ともに、「照る」という動詞を活用させて2回繰り返したあとに、人を表す語が付いたかたちをしています。
 てるてる坊主の呼び名は、昨今ではほぼ画一化されていますが、かつては多彩でした。文献資料のうえでは、私の管見の限りでは1830年ごろから100年ほどのあいだ、西日本においてもっぱら「日和坊主」と呼ばれていた時期もあります。ただ、そうした特異な事例を除くと、基本的には前半部分は「照る」の活用形を繰り返したかたち(「てるてる」など)からなります。加えて、後半部分には人を表す語(「坊主」など)が付くというパターンがもれなく踏襲されてきました。
 てるてる坊主の呼び名の前半部分については、「てるてる」のほかに「てりてり」あるいは「てろてろ」といった事例も見られます。さらには、「てれてれひのこ」と同じ「てれてれ」という事例も、古今を通じて散見されます(★下記の表1参照)。

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 ただ、「てれてれひのこ」という文言が、てるてる坊主にいくら似ているとは言っても、『弁内侍日記』の「てれてれひのこ」の記事中にてるてる坊主が登場しているわけではありません。そもそも、『弁内侍日記』が記された鎌倉時代にてるてる坊主は存在していたのでしょうか。
 数ある晴天祈願の1つとして、弁内侍たちがたまたま択んだのが結び灯台を使った作法であり、てるてる坊主も当時すでに存在していた可能性もないわけではありません。昨今の辞書のなかには、てるてる坊主の風習は鎌倉時代(1192ごろ-1333)に先立つ平安時代(794-1192ごろ)に始まったとする記述も見られます。しかしながら、その根拠はとてもあいまいです(★詳しくは下記の「「平安時代に中国から」という誤解 【てるてる坊主考note #7】」参照)。

 『弁内侍日記』の当該記事のなかでは、それが晴天祈願の場面であるにもかかわらず、さらには、てるてる坊主を彷彿とさせる「てれてれひのこ」という文言が唱えられているにもかかわらず、てるてる坊主は影もかたちも見られません。
 『弁内侍日記』が記された鎌倉時代には、てるてる坊主は恐らくまだ誕生していなかったと推測されます。先述のように、文献資料のうえでてるてる坊主の存在が確認できるのは、私の管見の限り、ずっと時代が下った江戸時代なかば(18世紀初めごろ)になってからのことです。

4、晴天祈願に「照れ照れ」と言うこと

 「てれてれひのこ」という文言をめぐって、注目したい2点目は、晴天祈願に「照れ照れ」という表現が用いられている点です。
 晴天すなわち、雲が晴れて青空が広がるよう願うのであれば、「晴れ晴れ」と唱えてもよさそうです。しかしながら、『弁内侍日記』に記されている唱え文句は「てれてれ」です。結び灯台を使った晴天祈願においては、雲が「晴れる」ことよりも、日が「照る」ことのほうが重視されているようです。
 「晴れる」ことと「照る」ことの違いをめぐっては、以前に検討したことがあります(★詳しくは下記の「なぜ「晴れ晴れ坊主」ではないのか【てるてる坊主の呼び名をめぐって #8 わらべうた編】」参照)。
 日本のてるてる坊主とよく似た晴天祈願の風習として、中国では掃晴娘という風習が長らく伝えられてきました。掃晴娘は婦人の姿をした紙人形で、箒を手にしており、軒下や門柱に掲げられます。掃晴あるいは掃天などとも呼ばれます。
 中国の掃晴娘の場合、手にした箒で雨をもたらす雲に働きかけて、それを文字どおりに掃き晴らしてしまうことが期待されています。すなわち、「晴れる」ことに重点が置かれています。いっぽう、日本のてるてる坊主の場合には、「晴れ晴れ坊主」と呼ばれた例はなく、「照る」ことに重点が置かれていると言えるでしょうか。

 掃晴娘の文献資料のうえでの初出は、私の管見の限りでは元の時代。李俊民(生没年不詳)の詩に「掃晴婦」と題された一編があります。この「掃晴婦」が詩作されたのは元の時代(1271-1368)の初めごろと言われています。日本で『弁内侍日記』が記されたのと同じ13世紀の作品です。
 『弁内侍日記』の「てれてれひのこ」の記事は1250年の出来事なので、李俊民による「掃晴婦」の詩作時期との時代差は、わずか20~30年ほどでしょう。すなわち、両者は13世紀半ばから後半にかけてのほぼ同時代に誕生した作品と言えます。そこに書き遺された当時の晴天祈願において、中国では「晴れる」重視、日本では「照る」重視という対照がすでに垣間見られるのは、たいへん興味深いことです。

おわりに

 本稿では、鎌倉時代の『弁内侍日記』に記された「てれてれひのこ」という語に注目してきました。結び灯台を使ったまじないの際の唱え文句です。
 この結び灯台を使ったまじないは、昨今のてるてる坊主と同じく、晴天を祈願する風習の1つです。タイミングとしては、翌日に行幸を控えた前夜におこなわれています。それは、特別な行事などの前日に「あした天気にしておくれ」と願いを込めて吊るされる、昨今のてるてる坊主とやはり同様です。
 すなわち、祈願の目的やタイミングに注目すると、この結び灯台を使ったまじないは、昨今のてるてる坊主と瓜二つと言えます。裏を返せば、翌日の晴天を祈願して前夜におこなうまじないという条件がそろっているにもかかわらず、『弁内侍日記』の記述にはてるてる坊主はいっさい登場しないのです。
 どうやら、『弁内侍日記』が書かれた鎌倉時代には、てるてる坊主はまだ誕生していなかったようです。それでも、『弁内侍日記』に書きつけられた「てれてれひのこ」という言葉には、てるてる坊主誕生に向けた萌芽のようなものが感じられます。
 何度も繰り返すようですが、「てれてれひのこ」はてるてる坊主と似た響きをもっています。両者ともに、「照る」という動詞を活用させて2回繰り返したあとに、人を表す語が付いたかたちです。とりわけ、呼び名の前半部分で「照る」の活用形が繰り返されていることに注目すると、晴天を祈願するに際して、雲が「晴れる」ことよりも日が「照る」ことを重視する心意が通底している点に気づかされます。


≪長い付記≫ 「日の事」である可能性

 「てれてれひのこ」の「照れ照れ」に続く部分をめぐっては、「日の」ではなく「日の」ではないかとする解釈もなされています。『弁内侍日記』の現存する諸本のなかに、「ひのことまふ」ではなく「ひのことまふ」と記されている例が散見されるのです(傍点筆者。以下同じ。なお、ここでは、漢字か平仮名かという用字の別、および、繰り返しを表す「くの字点」などの使用や歴史的仮名遣いの有無については、こだわらないこととする)。
 『弁内侍日記』にはいくつもの諸本が伝えられています。もとより、諸本を比べてみると、全体的には大きな相違は見られません。ただ、細部には異同が認められ、傍注や朱引などで修正が加えられている事例も数多く、諸本の系統や優劣をめぐる研究が進められています(前掲の注釈書Ⅰ[玉井1966]やⅡ[今関1989]のほか、[岩佐1986]や[阿部1999]など)。
 諸本研究の詳細に触れる余裕はありませんが、本稿では「てれてれひのこ」という語、および、そのあとに続く箇所に注目してみましょう。この箇所の表記には、諸本によって細かな違いが見られ、先述のとおり下記の2通りに大別されます。

てれてれひのことまふことにてありし
てれてれひのことまふことにてありし

 前者は「てれてれひのこ」のあとに「とて」と続きます。この部分を漢字で表すならば「照れ照れ日のとて」、意訳すると「“照れ照れ日の”と言って」となります。いっぽう、後者は「てれてれひのこ」のあとに「とと」と続きます。漢字で表すならば「照れ照れ日のと」、意訳も同様に「“照れ照れ日の”と」といった具合になるでしょう。

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 「ひのこ」という語のあと続く箇所の表記をめぐって、私の管見の及んだ諸本や先行研究をもとに整理したのが上記の表2です。
 10点のうち、修正が加えられる前の、もとの本文が「とて」という表記の諸本は4点(表2の№①②③④。以下同じ)。同じく「とと」という表記の諸本は6点(⑤⑥⑦⑧⑨⑩)。その数は拮抗しています。ただ、前者の「とて」という表記の場合、傍注が付されて「とと」に修正されている事例が3点(①③④)見られます。
 いっぽう、もとの本文において「とと」という表記の場合、修正が加えられているのは1点(⑧)のみです。この⑧では「日のことと」という本文に傍注が2通り加えられており、本文右の傍注に従えば「日のこと」(すなわち「”日の”と」)、本文左の傍注に従えば「日のこととて」(すなわち「”日の”とて」)となります。
 このように、本文に付された傍注による修正を勘案しつつ、表に掲げた11例(⑧は重複して2例)を概観してみると、「とて」という表記は2例(②⑧)であるのに対し、「とと」という表記は9例を数えます。「とて」(すなわち「”日の”とて」)よりも「とと」(すなわち「”日の”と」)という表記のほうが優勢であることがわかります。

 諸本に見られるこうした傾向をふまえて、前掲した注釈書3冊にも目を向けてみましょう。玉井幸助『弁内侍日記 新注』(注釈書Ⅰ)は「群書類従本」(⑤)を底本としています。しかし、ところどころでほかの諸本と校合しながら手直しが加えられています。「てれてれひのこ」に続く部分については、底本の「群書類従本」ではなく、「内閣文庫蔵「寛元記」本」(①)が参照されており、「とて」という表記(すなわち”日の”)が採用されています。
 今関敏子〔編〕『校注 弁内侍日記』(注釈書Ⅱ)は「彰考館蔵本」(③)を底本として、忠実に活字化しています。原本に則って、もとの本文には「とて」と表記(すなわち”日の”)されていますが、「て」という字のそばに「と」が傍注として付されています(すなわち”日の”)。
 岩佐美代子〔校注・訳〕「弁内侍日記」(『中世日記紀行集』。注釈書Ⅲ)は、「内閣文庫蔵「寛元記」本」(①)を底本としています。そのため、上記の注釈書Ⅰと同じく「とて」という表記(すなわち”日の”)が採用されています。
 そして、これら注釈書3冊においては、いずれも「とて」という表記(すなわち”日の”)を前提に解釈が進められています。「とと」という表記(すなわち”日の”)の可能性についてはいっさい触れられていません。

 現存する『弁内侍日記』の諸本においては、先述のように「とと」という表記(すなわち”日の”)が優勢、いっぽう、注釈本においては「とて」という表記(すなわち”日の”)が優勢ですが、はたして、正確なのは「日の事」と「日の子」のどちらでしょうか。
 舞う際の唱え文句という位置づけをふまえると、「照れ照れ日の事」と言うよりも「照れ照れ日の子」と言ったほうが自然な印象です。
 あとに続く「まふことにてありし」という部分も、謎を解くヒントになりそうです。「とと」という表記の場合、前後を含めて漢字で表すと「照れ照れ日のと舞ふにてありし」となり、「事」が重なってしまい違和感があります。いっぽう、「とて」という表記であれば、同様に漢字で表すと「照れ照れ日の子とて舞ふ事にてありし」となり、違和感がありません。
 こうしたことから、「てれてれひのこ」のあとに続く箇所は、「とと」は誤りで、正しくは「とて」であろうと私は考えます。すなわち、結び灯台を使った晴天祈願における舞の際の唱え文句は、「照れ照れ日の事」ではなく「照れ照れ日の子」と考えるのが妥当でしょう。


参考文献一覧

【全体に関するもの】(編著者名等の五十音順)
・阿部真弓 「「弁内侍日記」の総合的研究」、大阪大学博士論文、1998年
・今関敏子〔編〕『校注 弁内侍日記』(和泉書院、1989年)
・岩佐美代子〔編〕後深草院弁内侍〔著〕 『弁内侍日記 彰考館蔵』(和泉書院影印叢刊)、和泉書院、1986年
・岩佐美代子〔校注・訳〕「弁内侍日記」(『中世日記紀行集』(新編日本古典文学全集48)、小学館、1994年)
・玉井幸助『弁内侍日記 新注』(大修館書店、初版1958年、増訂版1966年)

【表2に関するもの】(編著者名の五十音順)
① 鈴木勝忠〔編〕 『雑俳語辞典』、東京堂出版、1968年
② 国書刊行会〔編〕 『近世文芸叢書』第9 川柳下巻、1911年
③ 清水浜臣 『語林類葉』5巻、1824年以前
④ 巌谷小波 『お伽歌劇』(小波お伽文庫2)、博文館、1912年
⑤ 日本国語大辞典第2版編集委員会ほか〔編〕 『日本国語大辞典』(第2版)第9巻、小学館、2001年(初版は日本大辞典刊行会〔編〕、第14巻、1975年)
⑥ あきやまただし 『はなかっぱ』、2006年~
⑦ 山田忠雄ほか〔編〕 『新明解国語辞典』(第8版)、三省堂、2020年(初版は1972年)

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