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ドイツのミーティングに参加 その1


  パリからドイツ、そして姉妹クラブのミーティングへ 

ドイツの北部、ブレーメンで行われた姉妹クラブのインターナショナルミーティングに日本人として初めて参加した話です。
当時はLLCなどなく、日本から安く行くには大韓航空かソ連からロシアになって上空が通過出来るようになったアエロフロート。まだ、大韓航空機撃墜事件の記憶が新しい。それで自国の旅客機なら撃ち落とさないだろうと、アエロフロートにしました。
後に、航空基地に行って交信を追うようになり、あれは大韓航空機が上空からスパイをしていたと確信しましたt。
なぜかと言うと、旅客機は飛びながらポジション レポートといって、決められた航路から外れないように、必ず自分の位置を頻繁に確認しながら飛行します。つまり、計器の故障とか機体のトラブルがない限り、大きく航路を外れる事はあり得ないからです。
話を戻し、モスクワ空港経由でパリに向かいます。パリの滞在先は従兄弟の部屋。従兄弟は1986年からパリに住んでいます。
その時の逸話も後で書くかもしれません。当時、従兄弟がお世話になっていた輸出関係の会社のお願いで、すごい量の食材や資料(おおよそ25kg位)を買い込み、チェックインしようとしたら、荷物だと結構な追加料金を取られるので、手荷物として機内持ち込みにしました。
今はテロ対策や機内持ち込みの規定がうるさくなりましたが、当時はまだゆるかったのです。
旅客機はイリューシンという旧ソ連製。出張ではビジネスクラスでしたから、乗ってびっくり。
まず狭い、座席も貧弱で足元も狭い、何といっても薄いカーペットがちゃんと固定されておらず、動いてしまうのです。
その理由は、いざとなったら輸送機として使うよう、簡単に座席が外せるようになっていると聞いた事があります。
ロシア製の飛行機では信頼度が低いので、墜落したら生き残る確率が高い後ろの方の座席にしました。ところが、この機体はボーイング727のように、エンジンが主翼ではなく機体の後ろに付いていて、防音も悪いからエンジン音がうるさいのです。座席も悪いのでほとんど眠れませんでした。
6月の始め頃だったと思いますが、ロシア上空は延々と何もない白い台地。
街以外は何も見えない、たまに一本だけ長~い道があって、終点がある。もちろん、重要な軍事施設の上空は飛行しませんが、今思うと何かの軍事施設への入り口とかだったのかも知れませんね。
モスクワで給油と掃除のために一度飛行機から下ろされ、余りに荷物が重いので機内に置き去りにしましたが、運良く何も盗まれる事はありませんでした。
モスクワ空港で時間を潰しましたが、見る物も買う物もありません。並んでいるのは、キャビアとマトリョーシカ位。私が好きなチェブラーシカは見た記憶がありません。
まだ社会主義時代の色が濃く、売れる物を作るのでなく、作られた物を買う時代でした。
そんな感じで、シャルル ドゴール空港に到着。従兄弟が迎えに来てくれました。
日本を発つ前にクラブの仲間には「しばらくパリに滞在します。7月にドイツのミーティングがあって会長から誘われています、出来れば行きたいと思っています」と話しました。
そのうち何人が本当に行くと思ったかは知る由もありません。出国前には一応、国際免許を取っておきました。
フランス語はほんのちょっとだけ話せますが、数字が苦手です。今では英語を話すフラン人が随分増えたようですが、当時は本当は話せるのにプライドがあって話さない人も少なくありませんでした。
パリに行くと知って、当時はフランスには姉妹クラブがなかったので、ドイツのクラブの会員になっているフランス人がいて、連絡を取りました。
一度、私のいる部屋に遊びに来て、英語版のオートバイのカタログをお借りしました。「金曜の夜には、バスチューユ広場にライダーが集まるから一緒に行こう、迎えに来る」と誘われましたが迎えに来る事はなく、それっきり連絡もなく、カタログも返却出来ないままです。
パリに滞在中に、ドイツの会長とは何度も手紙でやり取りをしていました。
eメールなどなく、FAXでさえ持っている人は少ない時代でした。
「7月にブレーメンでミーティングがある。ウチに泊まって、オートバイは貸すから一緒にミーティングに行こう」そう何度も誘われました。「せっかくここまで来たのだから、行ってみたい。二度とこんなチャンスはないかも知れない」
送られてくる会報で知っていましたが、数百台のオートバイが集まってキャンプし、飛行場を一定時借り切って、滑走路でドラッグレースをするのです!
パリには従兄弟が長く住んでいて、フランス語はぺラペラ。すでにフランスには、ミニテルといって電話回線を使ってチケットの予約が取れるシステムがありました。
でも不安なので、従兄弟と一緒に鉄道の窓口に行き、ターミナル駅のケルンまで乗り換えなしで行ける電車を探してもらい、チケットも取ってひと安心。
ドイツへの出発の前日に、ドイツのクラブの会長に電話をして、「明日、ケルン駅に迎えに行くから」、「それじゃぁ、明日の朝に会おう」と確認をしました。
夕方、GARD NORD(北駅)から夜行電車に乗りました。ヨーロッパの駅は改札がない所が多い。階段を登らずそのままに駅の構内に入る事が多いのです。
パリ発の夜行列車で、確かルクセンブルグ公国を通りケルン駅で降りる。
乗り換えはありませんでしたが、とても不安でした。

パリ北駅から単身ドイツのケルンに向かいました

以後、写真はオリジナルを探すのが大変なので、会報を写しました。こんな感じで旅に出ました。写真はケルンからパリに戻る時のもの。
パリ郊外を出ると、車窓はいかにもヨーロッパらしい牧歌的な風景が続きます。そういう風景は好きなのですが、飽きてしまいます。何度も停まった駅で時刻表を見ては、駅名を確認します。「○○駅だな、間違いない」と。
遅くに闇夜になり、配られた毛布で仮眠します。とはいっても、おちおち寝ていられません。
ぐっすり寝て、寝過ごすのが怖かったのです。そうしているうちに、何か足首のあたりが痒いのです。その痒みはしつこく、数日続きました。おそらく客車で貸してくれた毛布にダニか何かがいたのだと思います。
うとうとしながら、朝になりました。寝過ごす事なくケルン中央駅に到着し、ホームに立ちました。ところが彼の姿が見えません。「え~っ、昨日約束したのにいないよ。どうしよう」
ケルン駅のホームで一人たたずむ私。きょきょろ見回してもいません。
どうする事も出来ずに少し待っていると、ふたつ向こうのホームから手を振っている会長が見えたのです。
数年前に知ったのですが、ドイツでさえ、”事前に電車が何番線ホームに入るかが決まっていない”のです。知っていましたか?要は電車が走って来たら、その時空いているホームに電車を入れる(のです!
だから、日本のように”何番線に到着する”というのが分からなくて、彼はいくつものホームを周って私を探していたので、時間がかかったという訳。
それを知って、数年前にドイツの会長から連絡があり、仕事で来日したドイツ人と会って、「本当にそうなの?」って聞いたら「そうだよ」と、本当でした!
ダイアグラムを発明した英国でも、日本のような綿密で正確な運航は出来ません。日本だからこそ出来る”特技”なのです!

テストドライバーとして、長い趣味の経験からしても除電チューニングは面白い。電源を使用せずに静電気を除電して走行性能を高める。それだけではなく、エネルギーやタイヤも節約出来るから元が取れてしまう。
つい最近も、マジ軽ナットシリーズのヘビーユーザー(各部を除電チューニング)のお客さんから報告がありました。
毎回ディーラーに車検に出しているので、タイヤの溝の測定値が整備記録簿にかいてあるそうです。前回の車検時にディーラーから「次の車検の時にはタイヤ交換が必要になると思います」と告げられていたそうです。
そうしたら、マジ軽ナット  タイヤ用を付けたてから、明らかにタイヤの減りが少なくなり、タイヤ交換は持ち越し。
タイヤの除電で転がり抵抗が減るので「タイヤの寿命も気にされて下さい」とはお伝えしているのですが、その情報が実感となり、連絡を下さったのです。
「少しのお金で結構な効果、そして元が取れる」というのは、このような事です。

除電のメリットは他にもありますが、企業秘密の部分を除き初歩の技術的な事から、大手自動車メーカーより先にやっていた、この除電が理に適っているのかを、小学生・中学生の授業で習った事も交えながらお伝えしたいと思います。
皆さん、昔に習った事を忘れてしまうようですので。

横浜タイヤのホームページから引用。転がり抵抗と燃費について

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