色とハーモニーと感覚と

以前少し書いた『ギヴァー 記憶を注ぐ者』の感想(というより読んで考えたこと?)第一弾である。

ネタバレは回避しようが無いので、ネタバレしたくない方は回れ右で。途中ちょっとマニアックな話もあるかもしれないです。

3000字超えなのでお時間ある方向け。管理社会について考えたい人の一助にはなるかも。




主人公のジョナスはもうすぐ12歳になる少年である。コミュニティの子どもたちは12歳になると「任命」され、それぞれの職業の訓練を受けることになる。

ジョナスが任命されたのは「レシーヴァー」。コミュニティにただ1人の「記憶の器」となることが、彼に課せられた仕事だった。管理されたコミュニティの外の情報、コミュニティができるよりもずっと以前の誰かの記憶。ジョナスは様々な記憶を前任者のレシーヴァー「ギヴァー」から注がれ、受け継いでいく。

あらすじとしてはそんな感じで、管理されたコミュニティの中でただ1人(ギヴァーを含めれば2人)、それ以外の情報、記憶を持つことを許されたジョナスの物語である。


「ただ1人であること」の葛藤についてはまた後日書きたいなと思うのだけれど、今日のテーマは「色」。色と個性について考えたことを書けたらなと思う。



任命を受ける少し前から、ジョナスはたまに見たものに変化を感じるようになった。一瞬だけ何かが違って見える。けれど何が違うのかがよくわからない。

ギヴァーは言った。

「つまりきみは、赤という色を認識しはじめているんだ」

読者である私は驚く。それはつまり、この世界で生まれ育った人々は「色」を認識できないということだ。


この「コミュニティ」という場所は管理された社会でルールが沢山あり「何歳になったらこれをしてもいい」「夢を見たら毎朝家族に報告しましょう」等々いろいろ決められている。「同一化」を目指して作られたのが今のコミュニティだそうで、おそらく「争いが起きないように、平和に管理すること」を目的として作られた。

争いは何から起こるのか?それは相手との「違い」から起きる。違いをなるべく小さくしよう。なるべく「同じ」にしてそれしか無いようにしよう。そうして作られたのがこの「コミュニティ」という世界なのではないかなと思う。


「色」は「違い」のもとになる。「色と争い」と言えば「肌の色」は実際に争いのもとになることもあるけれども、それだけじゃなく。

人それぞれ好きな色は違う。纏いたい色も、その色に対して思うことも、全然違う。その違い、「感じる心」というのは単純に色だけの話ではなく、他のものにも派生して広がっていく可能性がある。

おそらくだけれど、「個性のスイッチ」としての機能を恐れて、この世界の人々は色を失くしてしまったのではないだろうか。


コミュニティの人々も、個性が全くないわけではない。配偶者を選ぶ時も、職業を選ぶ時も。可能な限りその人を観察し、それぞれの人に「合う」組み合わせが選ばれている。いくら「同一化」しようとしてそれを目指していても人にはまだ「個性」があるし一応「感情」も存在しているのだ。

ただ、薬によって感情を抑制し、ルールで縛り、「これ以上の感情を持ってはいけない」というラインは決められていると感じる。

個人が感じること全てを把握して管理することは難しい。だから最初から刺激を最低限にして、感情のラインを超えないように管理しているのだと思う。

そのためには感覚は邪魔であり、感覚を伴った記憶は邪魔であり。だからこそ色の感覚を切られ、「レシーヴァー」というただ1人しかそういう記憶を持つことを許していないのだろう。


ジョナスが最初に気付いた違和感は「色」だったけれども、ギヴァーが最初に気付いた違和感は「音楽」だったそうだ。

この世界には「音楽」もない。「お祝いの歌」はあるようなので、もしかしたら「許された数曲は存在する」という状況なのかもしれない。



色は「視覚」、音楽は「聴覚」。この世界は怪我の痛みにもすぐに薬が処方されるようで、とにかく「感覚」というものを可能な限り排除しようとしている。

感覚は「個性」を生む。感覚の違いはより大きな「個性」の違いを生む。管理社会において「自由な感覚」は排除すべきものなのだろう。


そこで思い出したのは、「この世界はハーモニーでできている」という話だった。

この世界(「宇宙」と言い換えてもいい)は音、そして様々な音が合わさった「ハーモニー」でできていると考えた人がいて、そんな文章を読んだことがある。

「天球の音楽」という考えもあるけれどもそれとはまた違っていて。人それぞれ、人に限らず全ての存在に固有の音があって、その音全てが合わさってこの宇宙ができている。ひとつの大きなハーモニーを奏でているのだ、という話だったと思う。

それは別に音じゃなくて色でも良くて、1人1人違った色を持っていて、「全部合わさったのがこの宇宙だ」でもいいのだと思う。


その話に当てはめてみれば。この「コミュニティ」という場所は、きっと幅も厚みも変化もない、単調な音を奏でているのだろうと思う。モノクロの世界に生きているのだろうと思う。

それはある意味安全で安定していて心地良い場所である。実際、本を読んでいても「コミュニティ」での生活は物凄く窮屈そうには感じないし、「この生活が良い」と言う人もいるだろう。

ただここが、「作られた環境」であることは間違いない。本来あったものが取り除かれた「作りものの世界」なのだ。

レシーヴァーなど無くしてしまえば、外の記憶を知られる心配は無いのにそうしない。それは何故かと言えば、「不測の自体に備えるため」であり。残してある時点で、それが「不必要な記憶ではない」と言っているようなものなのである。


違いが、個性があれば、何が起こるかわからない。ただその分、何かあった時に「新しい道」を見つけることもできる。違いや個性というのは包丁と同じで、使い方によったら傷つけるものになりうるし、新しいものを作り出すこともできる。決して「いらないもの」「無くせばいいもの」ではないのだ。


ただ逆に、「コミュニティ」が悪者なのかと言えばそういうわけでもなく。

本人の性質がコミュニティに向いていてコミュニティの生活が良いと思うなら、そうすればいいのだと思う。ただ、そこに生まれた時点でコミュニティの枠にはめられてしまう。それ以外に触れさせず許さない環境というのは、やはり違うのではないかなと思う。

「自分はこういう生活をしたいから、この環境に身を置く」

それを自分で選べない世界は自由ではないし、多かれ少なかれ管理された社会である。

それは本の中の「コミュニティー」も今私が生きている現実も同じこと。


『「個性」「感性」をどれだけ持ち、どれだけ出すことを許されているのか?』というのは、管理されているかどうかを測るひとつの物差しになるのだな、と今回本を読んで改めて思った。

それを持って生まれたということは、きっと意味があるのだと思う。自分の個性、感覚を思いっきり発揮できる世界であって欲しいと私は思う。

その人の感覚で「コミュニティが良い」と思うならそれがその人にとっての正解だし、「コミュニティの外がいい」と思うならそれもその人にとっての正解。人それぞれに良いと思うものは違うし、それはその人の自由なのだと思う。

そうして自分が本当に心から「良い」と思う生き方ができれば、その人本来の色や音が出てくるのではないだろうか。


できれば世界はカラフルで。様々な音が鳴り響く場所であればいいなと思う。




色や個性に的を絞ったハズなのに長い。もはや長すぎて自分が何を書いているのかよくわからない罠。

高校生で読んだ時にこの本で読書感想文を書いたのだけれど、きっと全然違う内容だったのだと思う。生きていく中で知ることもあったし、考え方も随分変わったはずである。

人は感じて変化していく生き物だから。その変化に合う場所をその時その時で自由に選べる世界であって欲しい。まぁ要は、そういう話である。



ではまた明日。



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