★キャンピングカー生活まであと95日★「対等?平等?」
今日は何の日?
こんにちは。
いかがお過ごしでしょうか。
ぐっちーです。
本日のキーワードは「対等」です。
「平等」とは何か?を考える場があり、そこで出てきたもう一つのワード、「対等」。
私の信条の一つに「対等でいたい」というものがあります。
この信条、自分の中では結構強いものなんです。
自分が地位や役職に興味があまり無いのもここから来ていると思われるのですが、自分も相手も、どんなに偉いとされる人であろうが「同じ人間」として見れる特殊能力(?)があります。
つまり、根本的に同じ人間なんだから、地位とか役職で上に立とうとしないでよ。って考えに至ります。
年齢についても、相手が年上であろうが年下であろうが、基本的には同じ言葉遣いでいたいです。
一方がタメ語とか、あんまり好きじゃない。
もしそう話したいなら、断りを入れて欲しい。
これは社会的には非常識と言われかねないですが、上司であろうが先輩であろうが、いきなりタメ語で来られるのは抵抗があります。
(やはり組織に向いていない...)
ちなみに僕は年下の方とお話しする時も、必ずタメ語で話していいかを確認します。(もし勝手に話してたら忘れてしまってる)
年齢でも立場でもない。
その人の信念や人間性を尊敬できるのか。
常に視点はそこを向いています。
と、ここまでは実は以前の記事でも書いた部分。
改めて「対等」という言葉の意味を調べてみました。
ここで出てきたワード、優劣。
調べていて、気づきました。
優劣をつけたり競争したりするのが嫌い。
自分自身のことも占っていて、思い当たる節が多々あります。
結果で1位を獲ることに興味はない。
自分の個性がオンリーワンで発揮されればそれでいい。
逆に結果だけを求めようとする、他人を蹴落としたり陥れる、意地でもトップを取ろうとする人は苦手。
んー、もう少しでまとまりそうなんだけどな。
宿題にします。
もう一つ、似た響きの言葉である「平等」を調べてみました。
対等とは微妙にニュアンスの違う説明のされ方です。差別という言葉が出てくるように、平等の対義語は差別のような気がします。そして差別は常に人の意思が含まれていると考えます。
対等=主観的・一人称視点・内的要因
平等=客観的・俯瞰的・恣意的・外的要因
なイメージです。
しかしながら根本的に、この世に平等は存在し得ないと考えています。
(追い求めるのは重要です)
完璧な平等を求めるほど、どこかで平等じゃない部分が出てくる。
あちらが立てばこちらが立たず。
そんなわけで「社会的不利な人が平等になるように努めています」なんて宣(のたま)う人は絶対に平等を求めてないし、本当の意味で実現しようともしていないんだろうなぁと思います。
平等という言葉は恐らく、軽々しく口にしてはいけない言葉の代表格でしょう。
聞く人によっては、悪魔の言葉になり得る。
だからというわけではないけど、私は平等より対等という言葉を好みます。
対等っていう状況は、自分が努力したり定義することで「なれる」ものだと思う。
精神的な部分が大きいと思う。
かの隋の煬帝に対し、聖徳太子が送ったとされる「日出ずる処の天子書を日没する処の天子に致す」の手紙。
実際当時の日本(倭国)が、国の状況とか規模的に隋と肩を並べるわけがないのは誰の目にも明らか。
しかし聖徳太子は「対等」だと自分の中で定義していた。ぶっちゃけ煬帝が対等を受け入れるかどうかは眼中になかったのだろうと思います。
平等っていう状況は、自分の努力だけではどうにもならないことが多い気がする。
そして精神的な部分というよりは、現実的な状況を指し示す場合が多いと思う。
平等な場を用意するためには他人の協力が必要だ。
しかしながらその他人に自分にとっての平等を完全に理解してもらうことは難しい。
他人次第なのが嫌だ。
もし平等を追い求めようとするなら、目的と現在地をしっかりと確認して常に把握しておく必要があると考えます。
平等を実現することをゴールにしてはいけない。
それすなわち、一生辿り着かぬアリ地獄です。
なぜ平等を目指したいのか?
平等ばかりを意識しすぎて事態が悪化することは避けなければなりません。
そして。
実現するかどうかは別にして、平等を追い求める活動に必須なのが「対等」であると考えます。
お互いに対等と認め合えて尊重し合える関係構築。
そういった精神的土台が揃っていなければ、途端に「平等」という言葉が薄っぺらくなってしまいます。
平等の裏には対等が隠れている。
平等を謳う前に対等を確認せよ。
人類永遠のテーマ。
一つずつでも差別の種が減りますよう。
<<<あと95日>>>
結果だけ求めるから、平等を履き違える
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