ファースト・アンド・ラストブロー

 誰よりも美しいボクシングをしていた兄と、こわれた家族の物語。

 僕はこれまでいくつの「舞台」を見てきただろうか。暗闇の中で観客たちが静かに目を瞠っている、大きなホールの舞台はもちろん、街中の空き地や、山の中で出くわした何でもない空間も、すべて僕には舞台に見える。誰かが立つのを待っている舞台に。
 自分が演者として舞台に登ることを、僕は避け続けてきた。そこは僕のための場所ではないからだ。にもかかわらず、あ、舞台だ、と思える空間があれば、近づいてしまう。人と一緒にいるときでさえそうだ。仕方がない。一つとして同じ舞台はないのだから、見逃すわけにはいかないのだ。僕は観察する。人が演じるための公的な舞台は双眼鏡で、そうでない場所には直接立ち入り、手で触れてみて確かめる。平らなもの、凸凹なもの、磨かれていて光沢のあるもの、材質、土の色や手触り、舞台装飾の配置、生えている草、転がっている石に至るまで。
 仕事で映画や演劇の記事を書いているので、舞台を見つければ、そのとき取材している作品の演者がそこに立ったところを想像して、しっくりくるかどうか、考えてみることがある。でも、僕の「舞台さがし」への執着は、職業病ではないと思う。別の仕事に就いていたとしても、同じように続けられていただろう。
 数ヶ月前、ある映画の舞台となったアメリカ南部の小さな町へ、取材に訪れたときのことだった。映画の中で重要な役割を果たすことになる、大きな一本の木がこの町にあるそうなので、見てみたい、と事前に向こうの知人へ伝えたところ、町に住むある女性が案内人をつとめてくれることになった。当日現地へ行くと、いかつい大きなバイクが、ブルブルうなりながら迎えにきた。ハンドルが獣の角のように湾曲し、ブラックの車体がギラギラ輝いている。バイクに疎い僕でも見ればわかる、「ハーレー」のモデルだった。乗り手の女性はすらりとした体型だったけれど、バイクを降りるときにも衣のようにひらりとした身のこなしで、何百キロもあるだろう鉄の塊を、すんなり手なずけているようだった。カスタードクリームの薄黄色をした長い髪に、赤く燃える炎がプリントされた黒いヘルメット。僕には何も描かれていないヘルメットを渡してくれた。
 彼女の後ろに乗って腰を持つと、見かけ以上に細く、鍛えられて締まっているというのでもなく、少女の体のようだった。けれど二人乗りに慣れない僕がいてもなお、運転に乱れはなく、天性のバランス感覚を持った人なのかもしれない、と思った。自然に、なめらかに、風になって走っていた。
 バイクを降りると、僕たちは林の中へ入った。揺れる葉のささやきや、木漏れ日の降り注ぐなか、歩きながら話をした。彼女はこの町の生まれだが、昨年までは都市部で働いていたらしい。仕事はアクセサリーショップの販売員だったけれど、子供の頃から絵を描くのが好きで、本当は絵で生計を立てたいと思っていた。でも、仕事が忙しく、休みに絵を描く暇さえなくて、ついに退職し、故郷へ帰ってきた。
「しばらくはこうやって小遣い稼ぎをしながら、ゆっくり過ごすつもり。」
 彼女への報酬はもう支払っていた。
「バイクは? 自分で買ったものなの?」
「ええ。街に出るときもあの子と一緒。」
「相棒なんだね。」
「一番のね。本当にずっと一緒だもの。人やペットじゃそうはいかない。」
「でもこんな町で乗ってると、いろいろうるさく言われない?」
「こんな田舎町だとね。」
「いや、そういうつもりじゃなくて……こんな、のどかな……」
「のどかな田舎町だとね。」
「悪かった。降参。」
 僕が両手を挙げると、
「冗談よ。ごめんね。」
 彼女は笑った。軽やかな笑いに、なつかしさを覚えた。
「あなたの住んでるところは、都会なの? トーキョーかしら?」
「そうだけど……」
「知ってるわ。大きな街だもんね。」
「ラスベガスには負けるよ。」
「LAでもNYでもなく? ベガスに思い入れがあるの?」
「……ボクシング。聖地だろ?」
「好きなんだ。意外ね。」
「好き……ってわけでもないのかな。」
「よくわからない。どういうこと?」
「ヒーローがいたんだ。」
「それって、あなたの身近な人?」
 急に風が止み、視界が開けた。林が途切れ、円形闘技場(コロッセオ)のように草原が広がっている――「舞台」だ。
「ここよ。あれが、あなたの探してた木。」
 彼女の指さす先、舞台の真ん中に、ぽつんと一本、大きな木が生えていた。
「私の好きな小説にも、あの木が出てくるの。町に居場所のない繊細な心の持ち主や、はぐれ者が集まって、あの木の上で暮らそうとする。」
 木の葉がつくる陰の中で、枝に座って楽しそうにおしゃべりをしている、二人の少年の幻が見えた。
「作者の少年時代の思い出をもとに書かれたんですって。」
 その木と舞台を、僕は他の場所で見たことがあった。
「ここ、熊が出たりしない?」
「熊? ……は、聞いたことがないわ。」
「それじゃあ……君、いま何か描くものを持ってる?」
 彼女がバッグからスケッチブックと色鉛筆を取り出すと、僕は頼んだ。
「あの木を写生して、枝から暗い赤色のサンドバッグが下がっているところを描き加えてほしい。」
 完成した絵は、素人目に見ても見事なものだった。鉛筆で描かれた黒い木を背景に、サンドバッグの赤だけが鮮やかで、のしかかってくるような重みと迫力を感じさせる。
「なんだか、これ……」怪訝な顔で自分の描いたものを見下ろして、彼女は言った。「絞首刑みたいね。」
 めまいがして、腹を押さえてしゃがみこむ。胃と腸のあいだに、鉛を埋め込まれたような痛みがあった。
「大丈夫?」
 彼女は僕の肩に手を置くと木から遠ざけ、林の陰へ導いてくれた。声色も動きも、優しくて迷いがなかった。
「体調が悪いの?」
「いや、大丈夫。少しだけ休めば……」
「無理しないで。せっかくここへ来たんだから、座ってゆっくり眺めてましょう。」
「でも、君の予定は……?」
「私は職無しの暇人よ? 退屈だったら話し相手になるわ。」
 黄色い昼の光に、夕日の橙がきざす時間。草むらから飛び立つ小虫の黒い体も、甘い色に溶かされていた。季節は夏から秋へ移り変わるさなかで、生温い風にも、一抹の涼しさが感じられた。ときどき梟の鳴き声が聞こえた。
 左隣に座る彼女は、この町のできごとや自分の思い出をとりとめもなく話しながら、こちらの様子を窺っているようだった。
「熱があるんじゃないわよね?」
 ふいにそう言って、僕の額に右手を置く。水色の瞳に間近で見つめられると不思議な感じがして、なんとなく目を閉じた。残ったのは頬を撫でる風と、温かい手のひらの感触。そのとき、彼女にずっと抱いていたもやもやした感情が、形になったことに気づいた。
 そうだこの人は、兄に似ている。
 

 兄はボクシング選手だった。六歳から近所のボクシングジムへ通わされ、それ以来毎日殴っていた。誇張なく、毎日。休んだのは肺炎で一週間入院したときと、地震でジムが一時閉鎖になったときだけだ。そのせいか、僕の記憶の中の兄はいつも、顔か体のどこかを赤く、腫らしている。それでも目が合うと、白い歯を見せ、笑ってみせる。
 殴っていないとき、兄はたいてい日陰にいた。階段の踊り場や、古ぼけたベッドと壁の隙間、めったに着られることのない、高価な衣装が並んだクローゼットの中。そんな場所を好み、しなやかな筋肉に覆われた体を隠すように、膝を抱えて座っていた。思いがけないところで息をひそめている兄は、なにか、座敷童だとか、人間でないものになりたがっているようで、意味もなく自分にお仕置きをしているようでもあった。
 母が夕食の支度を終えると、父や兄へ知らせに行くのが僕の役目だった。他のことでもそうだったけれど、母が言いつけるのは僕だけで、兄には何も頼まなかった。父は書斎にいた。ボクシングの本を読んだり、試合の映像を観たり、ノートに書き物をしたり……トレーナーに電話して、兄の様子を聞いていたり……仕事以外の時間は、寝る間も惜しんで兄のボクシングに注いでいる人だった。見つけにくいのは兄だ。家にはたくさんの「陰」があったし、庭や納屋へ出ていることもあった。それに何より、隠れているときの兄は生きていない影のようだったから。僕は時折不安になった。特に、兄のお気に入りの場所をいくつか巡ってもなかなか見つからないときは、背中を丸めて縮こまった姿が、そのままふっと消えてなくなるところを想像した。
 僕が見つけると、兄は電池が切れているような光のない黒目で、地面のどこでもないところを見ていた。本を読んだり、目を閉じてヘッドフォンで音楽を聴いたりしていることもあった。そんなときは邪魔しないよう、少し離れたところから様子を窺うのだけど、結局僕が声をかけなくても、兄は動物的な勘で気づいていて、ふいにこっちを向き
「行くよ。」
 と笑う。そのとき僕を見ている目は、たしかに生きている人間の目だ。潤んで光っている兄の目だ。
「どうした?」
 一度、そう訊かれたことがある。不安が顔に出ていたのだろう。子供の僕は、ありのままの気持ちを伝えてしまう。兄は少し考えた後、
「リングの上って、明るすぎるし、みんなが俺を見てるだろ? それがちょっと、疲れるからさ。こうやってバランス取ってるんだ。それだけだから、大丈夫。」
 そう言って僕の、頭を叩いた。温かくて厚い、右手のひらで。

 赤いグローブをつけていないときの兄は、動きがふらふらしていて、危なっかしかった。地面を歩く、階段を下りる、料理へ箸を伸ばす。当たり前の動作一つひとつに、適切な量の力が入っていなくて、重力の違いすぎる星からきた宇宙人みたいだった。だけど実際、リングの上というのは宇宙のような場所なのかもしれない、とも思っていた。光と熱、衝撃と速度。兄にとってはそこが地上で、僕のいる場所の方が宇宙かもしれない。
 兄は強く、優しくて、歳は一つしか違わなかったけれど、親や先生や上級生よりもずっとすごい人だと思っていた。その一方で、僕には兄が、自分より幼く無防備な、子供のように感じられるときもあった。中学に上がった辺りから、めきめきと戦績を伸ばしはじめた兄は、大会のために遠く県外へ行くことも増えた。学校の集会で表彰されたり、よその大きなジムからスカウトを受けたりもしていた。けれど、兄には気負いや緊張感といったものが、まるでなかった。大会の前に荷物を詰めているときも、「明日行くところ、ずっと見てみたかった山があるんだよ。」なんて言って、遠征というよりは遠足気分だったし、全校生徒の見守る中、壇上へ登ったときも、野原を歩いているみたいにほがらかで、開けっ広げな笑顔をしていた。スカウトの件も、友達からの誘いみたいに「パス。」と軽やかに断った。重々しい雰囲気でその話を持ってきた父は怒ったけれど、
「どうしてもよそのジムへ行けって言うんなら、ボクシングやめるよ。いまの俺に何か問題がある? 大丈夫だよ、勝つから。」
 けろっとした兄の返事には、なにか有無を言わせぬものがあった。基本的には父の言う通りにする兄だけれど、たまにそうやって、「譲れない部分」を見せることがあった。それを無理に否定すれば兄はふっと立ち上がり家を出て、風のようにどこかの崖から飛んでしまいそうな気配がした。頑固だけど、あくまで軽やかだった。兄のボクシングのために大人たちがあれこれ真剣になっているのに、本人だけがどこ吹く風で、みんな狐につままれたようになってしまうことがたびたびあった。
 深刻なときほど兄は遊んでいる子供みたいな態度だった。同年代の友達は、僕の知る限りいなかった。友達になりたがる子はけっこういたみたいだけど、放課後や休日もボクシングばかりの兄は、結局のところ「別世界の人」とみなされてしまう。僕と兄弟らしい遊びをした記憶も、ごく幼い頃を除けばほとんどない。わずかな余暇は、一人陰に座って過ごしていた。
 僕が兄の背を追ってボクシングをすることはなかった。兄が闘っている姿は少年漫画の憧れのヒーローのようで好きだったけど、それは兄だけの話だ。兄は特別で、痛みに満ちた生の試合を絵空事のように見せてくれる才能があった。でも基本的にボクシングという競技は野蛮で、無目的なものに思えた。漫画の中ならともかく、どうして現実であんなことをする必要があるのかわからなかったし、そもそも僕には運動神経がなく、他に習い事もしていなかった。そのためのお金があるなら兄のために使いたいと、父は考えていたのだと思う。僕が少しでも真面目に取り組んでいる何かと言えば勉強か読書くらいだったけれど、その僕よりも兄の方が物知りなのは不思議だった。兄は試合のためによく学校を休んでいたし、家でノートに向かって鉛筆を動かしている姿だって見たことがない。本は読んでいたけど、いつもカバーをかけていたので何を読んでいるのかは知らなかった。少なくとも教科書ではなさそうだった。
 たとえば兄が教えてくれたのは、
・世界の色々な蛙たちの身体的特徴や生態について
・春夏秋冬の気候を予測するための方程式について
・効率的なミイラの作り方と、美しさを維持するための保存方法
・画家ムンクの左手中指を拳銃で撃ち抜いた恋人と、彼の関係性
 など、何の役に立つわけでもないけれど、だからこそ小さな魔法のように、虹色の小石のようにきらきら光る、世界の秘密だった。脈絡も目的もなく、散歩中に青空を指さすような調子で兄は喋った。使われなくなったテーブルの下や、静かに呼吸している押し入れの暗闇で、兄の声は遠い昔に生きていた異国の語り部たちのように、誰のものでもなく、誰もがどこかで耳にしたことのある響きを伴っていた。
 兄が十四歳の頃だったと思う。こんな夢の話を聞いた。
「俺は熊に殴られて死んだんだ。まだ機関車も走っていない昔の話だ。もちろんボクシングもなくて、俺は木を切って暮らしていた。仕事場の森には熊が出るって噂だったから、いつもは欠かさず熊除けの鈴をつけていたんだけど、その日は忘れちゃってさ。でも、それまで一度も足跡さえ見たことがなかったから、もうただの昔話なんじゃないかと思ってた。それで、普段どおり夜まで働いて、帰る途中……急に木が途切れて、円形の広場みたいになっているところへ出た。森の中にそんな場所があるなんて、知らなかった。月明かりで、地面の草が青白く染まっていた。その草がまた、誰かの手できれいに整えられてるみたいに、短く平らに生えそろってるんだ。舞台に立っているような気がした。そう思ったとき、向かいの木々の濃い闇から、熊が姿を現した。俺たちは静かに、見つめ合った。熊の目には知性があった。静かに青く、月の舟を浮かべていた。腹を空かしているわけでも、警戒しているわけでもない。でも何が起こるかはわかっていた。そのために導かれたんだ、と思った。俺たちは前へ歩きだした。広場の中心へ。」
「……勝った?」
「そりゃあ……」と兄は、言い淀んだ。僕を見ていた目が焦点を失い、一人で陰にいるときと同じ、仄暗い池の水面になった。「……相手は、熊だからなあ。夢って言っても、リアルだったし、パンチ一発で吹っ飛ばすってわけにもいかないよ。」
「じゃあ……敗けたんだ。」
「うーん……引き分け、ってところかな。まあ、俺は死んじまったけどね。」
 それから兄は、自分が死んでいくとき、どんな感じだったかを話してくれた。繰り出される熊の爪の形や色、涎や毛の根本から立ち込めるにおい、静かな夜の空気を震わすうなり声……そして、牙が深々と肉に食い込む感触や、骨の砕ける音、覆い被さってきた熊の体は温かったけれど、血が流れるにつれ自分の体の芯は寒くなっていったこと……熊の肩越しに見る夜空の深い青がきれいで、体は暗い穴へ落ちてゆくようなのに、心はそこを離れ、天へ吸い上げられていくような気がしたこと。
 僕が持っている現実のどんな記憶よりも細かく鮮明で、同時にどこまでも絵空事だった。きっとすごく痛かっただろうけど、兄がかわいそうだという気持ちは全然なくて、もっと聞きたいと思った。リングで闘っている兄を見ているときと、同じ感覚だった。兄は現実も夢も同じように生きているのかもしれない。そして夢でも現実でも、「もっとこの人を見ていたい」と思わせずにはいられない力を持っている。
「面白いか?」
「うん。すごくおもしろい!」
「そうか。」兄は鼻から息を吐いて小さく笑った。「貴重だもんな。現実じゃ死んだ人間の話なんか聞けないから。」
「でも夢だもんね。その死んだときの感じって本当じゃないんだ。」
「どうかな。輪廻の記憶だったら?」
「リンネ……前世ってこと?」
「来世かもしれない。文明や社会が滅んで、また人が自然の中で暮らすようになった時代。」
「どうして未来が夢に出てくるの?」
「夢だからだよ。」
 木こりの生活も兄には似合っていると思った。兄はきっと、草むらにしゃがみこんで、蟻の行進をいつまでも眺めているだけで楽しく過ごすことができる。本当はそういう子供だった。闘い続ける必要なんてない。
「……ボクシング、楽しい?」
 それまで一度も訊けなかったことだった。まともに兄の目を見る勇気がなく、うつむいていたけれど、
「うん、好きだよ。」と言った兄の顔が、笑みをつくっていることはわかった。「そういう風に、俺の体はできている。それは自分でもわかるんだ。でも……どの試合よりも、夢で熊と闘ってるときのほうが、楽しかった。楽しい……違うな、甘い……でもない、あれは……充実。『正しい』。かな。本当は、この一回だけで十分だったんじゃないかって気がした。俺が人生で、闘うのは。……はは、変だよな。殺されてるのに、そんなこと思うって。」
「……わからない。」
「うん。お前はそれでいいよ。……そんな心配そうな顔すんなって。現実の話じゃないんだからさ。それに、大丈夫。死んだ後も、つづきがあるんだ。輪廻だから。熊に喰われた古い体は置いといて、軽くなった新しい体で、森を渡って……卵の中へ、すべりこむ。」
「そんなにすぐリンネってするんだ。」
「俺は人気者だから、休ませてもらえないんだよ。」
「そっかあ。そうだなあ。何の卵に入るの?」
「鳥かな。」
「鳥だったら、熊に食べられないですむね。」
「そうだな。」
 兄は笑った。僕は自分の言った言葉の意味を、考えていた。「鳥だったら」。……じゃあ、人間に生まれてきたことは、兄にとって間違いだったんだろうか。人間に――いや、僕たちの家族に生まれたから、闘い続けるしかないのだとしたら――
 それ以上考えるのは、怖かった。頭の隅に追いやって、蓋をすることにした。
「俺が死んだらさ。」急に兄が言った。「墓には入れないでくれよ。」
「なんで?」僕はギョッとして、慌てた声を出した。
「……墓だと、ずっと残るだろ? それに足を引っぱられそうな気がするんだ。自分の前世の、体にさ。だから、骨は砕いて、粉にして、海でも山でも撒いてくれ。頼んだ。」
「……いやだ。兄ちゃん、いなくなっちゃうじゃないか。お墓もなかったら、どこに会いに行けばいいんだよ。」
「いるよ。どこでも。いつでも。風になって、お前の周りで遊んでるよ。」
 そう言って笑う兄の顔を見ていると、この人は、どんな時代、どんな場所、どんな姿であっても、こんな風に軽やかなのかもしれないと思った。だけど、練習を終えて家に帰ってきたときや、次の試合に向けた父の作戦会議を聞いているとき、母に皿洗いの手伝いを申し出て、「いいの。」と申し訳なさそうな笑顔で断られたときなんかに、ひどく息苦しそうな顔をしているところも、僕は見たことがあった。
 僕たちの暮らす家は、建築会社の社長である父方の祖父が、父の結婚祝いに建ててくれたものだった。広くて、清潔で、新しく、友達からはうらやましがられたけど、僕にはよくわからなかった。兄が生まれるのと同じくらいのタイミングで建てられたこの家は、僕ら兄弟とともに過ごした、わずかな歴史しか持っていない。ピカピカだけど、重みがない。嵐や地震がきたら、すぐ壊れてしまいそうな気がしていた。何十年か経てば、この家もどっしりした「風格」を身につけるのだろうか? 僕にはそれが、想像できない。僕たち家族がいくら一つ屋根の下で時を重ねても、この家はずっと、今のまま――白々しい、不気味な新しさを保ったまま――そんな風に思えてしまう。
 父は祖父の会社で、部長でも課長でもない、よくわからない役職に就いていた。どんな仕事をしていたのかも知らない。家での父は、ボクシングの話しかしなかった。ただ、一度学校の同級生に、「お前の父ちゃん、七光り!」とからかわれたことがあって、僕はそれを否定するどころか、納得した。父が会社でどんな立場に置かれているのか、たやすく想像できてしまった。
 若い頃、父がボクシングをやっていたことは知っていた。父の書斎の本棚から、偶然一枚の写真を見つけたことがある。どこかのジムで、赤いグローブ、黒いボクシングパンツの父が、仲間たちと肩を組み、両手を挙げて笑っていた。白い歯がまぶしすぎて、光そのものに見える。けっこう良いところまで行った選手だったのか。何がきっかけで引退したのか。僕は調べなかった。なんとなく、調べるのが癪だった。そのちっぽけな意地をいまでも貫いている。たぶん死ぬまで。
 兄がどれだけ完璧な試合内容で相手をねじ伏せるか。それが父のすべてだったと言っていい。美しい闘い、血が燃えたぎるような試合を父は求めなかった。ただ兄に圧倒的な勝利を収めさせるため、どんな細かいことも惜しまなかったし、それに協力することは家族の義務だった。グローブ、シューズ、パンツに至るまで、兄と同じフライ級の歴代王者が使っていたものを調べ上げ、かなりの大金をはたいて揃えた。試合の記録用に、最先端のハイスピードカメラを毎年買い換えた。金がなければ祖父に借り、借りすぎてこれ以上は無理だと言われれば、しきりに孫の顔を見たがる祖父へ、交換条件に僕を差し出した。身売りだった。夏休みも冬休みも、友達と全然遊べず市外の祖父母の家へ送られる僕はたまらなかったが、祖父母の前では嬉しくてたまらないという演技をするよう命じられていた。母には完璧な栄養管理を命じ、少しでも父にとって不備と思える部分があれば怒鳴り散らした。兄は自分のことだからと、母と一緒に食事のメニューを考えようとしたけれど、その現場を見つけた父は母を殴った。兄にくだらないことをやらせるなと。
「あいつはお前たちにはできないことをしてるんだ。できないやつができるやつの足を引っぱるな。」
 母や僕が「失敗」すると、父はいつもそう言った。僕は悔しかった。自分が兄に劣っていることが、ではない。兄は特別な人間だった。僕はやんちゃな同級生の一人にも勝てないのに、兄は全国の「殴るプロ」の人たちと闘って、勝ち続けている。十七でプロになった兄は一年もすると、その道の人たちに口を揃えて「世界制覇を狙える天才」と謳われるようになった。そんな兄と、自分を比べるなどおこがましい。兄は僕にとって、神様みたいな存在だった。僕が悔しかったのは、父に言われたということだ。父はまるで、兄が勝てているのは自分のおかげだ、兄の力は自分の力だと言っているようだった。でもそれは間違いだ。どうしようもなく恥ずかしい勘違いだ。父の存在が、美しい兄の才能を汚している。そう思っていたけど、面と向かっては言えなかった。もしこの頃にちゃんと言えていたら、変わったのかもしれない。……いや、これも、勘違いだ。僕の言葉に、そんな力があるはずない。
 僕たち四人が揃って外出するのは、兄の試合のときだけだった。家族旅行どころか、近くの遊園地にも連れて行ってもらった記憶がない。母が兄と僕を連れ出すこともなかった。母は食材の買い出しを除けば、ずっと家にこもったまま、黙って音楽を聴いている人で、兄がプロに上がるまでは、試合を観に行こうという素振りも見せなかった。プロデビュー戦の日だって、父にこう言われなければいつもの通り、どこ吹く風だっただろう。
「お前には母親の自覚があるのか? 息子には母親の応援が必要なんだよ。心理学的に証明されてるんだ。知らなくても親なら当然。なんで言わなきゃわからない、いつもいつも……幽霊か? お前は。いるのかいないのか、はっきりしろ。こんなときくらい、存在を見せろ。さもなきゃ死んでるも同然だ。」
 それまで母を無視していた父が急にそんなことを言い出したのは、記念すべきプロデビュー戦だからという以上に、たまたまそのとき読んだ心理学の本の影響が大きかったのだと思う。付け焼き刃で吐かれた、紙切れのような言葉。重く受け止める価値なんてないのに、それ以来母は試合の日、誰よりも早く起きて準備をするようになった。
 会場の大小に関わらず、ボクシングの観客席にはどこも独特の熱気がこもっていた。蒸し暑い真夏の空気のようなそれは、体をすっぽりと包み込み、頭をぼうっとさせ、自分がどこにあるのかわからなくさせた。リングを見上げていると、その幻惑感はさらに強まった。これまでその場所で闘った人たちが飛び散らせた汗や、倒れて打ちつけられた肉、染み込ませた血が積み重なり、目に見えない波となって、押し寄せてくるようだった。息苦しさを覚えることもあったし、観戦のために休日が潰れることもあったけど、兄が闘いはじめると何もかも忘れ、夢中で見入った。ボクシングのことは何も知らなかったけれど、僕の目から見て、兄ほど美しいボクシングをする人はいなかった。足は軽やかに踊るようなステップを刻み、攻撃が触れるか触れないかの寸前、蝶みたいにひらりと躱す。そしてひとかけらの殺意もなく、見えない速さで繰り出されるパンチ――重力から解放された、まるで重みのない拳が音もなく顎先をかすめると、次の瞬間、相手はリングに倒れている。何が起こったのかわからない。兄のパンチと相手のダウンには、何の因果関係もないように思える。だから兄の勝利に熱狂はない。レフェリーが兄の右手を持ち、高々と掲げても、普段と何も変わらない様子でニコニコ笑っている。リングの上、熱に浮かされた男たちの夢が渦巻く真ん中で、兄の姿だけが爽やかに涼しく、自由だった。
 兄の試合にはいつも余裕があったけれど、皮肉なことに一番の天敵となったのが父だった。父は興奮すると試合中でもおかまいなしに立ち上がり、セコンドよりも大きな声で兄に指示を出した。周りからすれば指示というより怒号の域で、しかも僕たちは家族枠でリングサイドの席にいたから、後ろの観客にとって迷惑極まりない存在だった。「おいおい」と呆れる声や、「おっさん邪魔だー!」と怒鳴る声、笑い声まで聞こえてきて、恥ずかしくてたまらなかったけど、兄は何も聞こえていないみたいに――いや、本当に聞こえていなかったのかもしれない――眉一つ動かさず試合に没頭していた。父はさらに必死になって、気持ちを荒々しくさせる効果があるという剣の形のお守りや、闘牛用の赤い旗を兄へ向かって振りかざし、背後からより大きな非難、嘲笑を集めることになる。騒ぎが大きくなってくると、さすがに兄も父へ目をやり、困ったように笑ってみせ、その隙を狙われ被弾することもしばしばだった。何もなければ、兄がまともにパンチを浴びることはめったになかった。八割くらいは父に殴られたようなものだと思う。
 母は試合中、ずっと肩をすぼめてうつむいていた。父のせいで辱められているせいでもあったが、リングサイドはそれ以前に、あまりにも母の生きる世界と異なる場所だった。普段は家で静かな電子音楽に耳を澄ませているばかりの母にとっては、ボクシングも、それを取り巻く熱気や喧騒も、理不尽に襲いかかり攻め立てる、凶暴な嵐のようなものだったのだろう。でも、違うんだよ、母さん。何度も喉まで、そんな言葉が出かかった。兄さんだけは、特別だ。兄さんのボクシングは、目に見える音楽みたいなものなんだ。だから、一度でいい。目を開いてリングの上を――
 だけど、細い体でじっと耐えている母を見ると、何も言えなかった。顔を上げ、目に入ったものがそれでもやっぱり、「息子の暴力」でしかなかったら――母は本当に、ぽきっと折れてしまうかもしれなかった。
 父が母の様子に気づくことはなかった。母があまりに辛そうなときは、外へ連れ出してあげたかったけれど、さすがにそれには父も気づいて、殴られるかもしれなかった。どうせ兄しか見ていないなら、完全に無視してくれればいいのに……結局怖くて、何もできずにいた。
 試合が終わると、父は控室へ行って兄を叱った。
「何だあれは? 気を抜くな!」
 褒めているところは見たことがない。どんな試合内容でも、必ず粗を探して責め立てる。でもそれは粗と呼べるものではなかった。父以外の人間にとって、兄の試合は完璧に近いものだった――いや、完璧とは別の次元にあって、そもそも評価の対象外だった。兄のボクシングは兄だけのもので、他の誰とも比較ができない。訓練以前に、持って生まれた天分と気質なくしては不可能なもの――評論家がそう書いているのも読んだことがある。トレーナーだって指導はしても、決して兄のスタイルを否定することはなかった。それでも父は兄を責めた。父の知っているボクシングとは違っていたからだ。兄はすでに強いが、父の言う通りにすればもっと完璧に勝てるようになる。そう思っているようだった。
 褒めずに叱るという育て方は、父が本で学んだ、昔の有名なトレーナーの受け売りだった。漫画や映画でも、ボクシングトレーナーと言えば大体「鬼」だ。でも、それは確かな指導能力を――プロの「目」を持っていることが前提であって、厳しさ自体が本質ではない。
 父に叱られているとき、兄はいつも困ったような笑みを浮かべていた。
「何だその腑抜けた顔は。真面目に聞く気があるのか!」
「いやあ、ごめん。でもさ、しょうがないよ。俺だって笑いたくて笑ってるんじゃなくて……勝手に頬が、緩むんだ。甘かったから、今日の試合。はちみつみたいに、とろけちゃった。」
 甘い。兄独特の言葉だった。危ない場面が何度もあった、接戦のときほど兄はそう口にした。父の文脈からするとそれは「舐めくさった発言」でしかなく、兄に手を上げることもあったけれど、文字通り「上げる」だけで終わった。振り下ろした拳が兄に当たることはないからだ。兄は笑いながら避けた。甘い試合の余韻が心を弾ませているのか、なんだか知らないけど笑い続け、その間だけ父と兄は、親子で遊んでいるように見えた。だけどふたりは、通じていない。ボクシングという同じ一つのことを愛し、語る者どうしでありながら、少しも交わらず、別々の言語で話していた。僕も笑った。悲しいほどに滑稽で、空気が金色に溶けていた。兄は独楽のようにひらひら回り、どんどん小さく、幼くなって、子供の神様の姿へ還っていく。僕の「兄」であることをやめて、届かない遠くへ行ってしまう。不安になって、僕は隣にいるはずの母の袖を引く。椅子に座った母は斜めに傾き、壁に頭をもたれかけて、廃人の顔で虚空を見ている。父は愚かな赤鬼になって、飛び跳ねる兄と鬼ごっこをしている。めちゃくちゃだった。でもそれだけが、かろうじて「家族の光景」だった。兄の闘い――殴り、殴られる決死の遊びが、僕たちを繋ぎとめていた。
「大丈夫。俺が勝ち続ければ、うちは平和だ。」
 そう言って僕に笑ってみせる、兄はまぎれもなくヒーローだった。敗けるところなんて、想像できない。軽やかでしなやかな兄の体は、決して折れることがないだろう。
 でも現実に、ヒーローはいない。馬鹿な子供の僕には、わからなかった。

 兄が十九歳の秋だった。
「庭にサンドバックを置く。」
 急に沈黙を破って、父が告げた。夕食の席だった。母がぴたりと凍りつき、兄も一瞬、箸を止めた。
「……置くだけなら、勝手にすれば? 観賞用だろ。拳闘気狂い。」
 僕はそう言ったけど、父は何も聞こえていないみたいに、黙って兄を見据えていた。
「……わかったよ。」
 兄はいつものように笑って言った。
「兄さん。」僕は兄を見てから、父をにらみ、「なにが『置く』だよ。せめて堂々と、『殴れ』って命令したらどうだ? 兄さんが言うのを待つなんて、卑怯だ。恥ずかしくないのか。」
 父は少し固まった後、茶を啜り、ゆっくり息を吐いて、
「相変わらず、お前はくだらない言葉遊びしかできないんだな。恥ずかしいやつだ。」
 ナメクジみたいにどろんとした目で、僕を見下しながら言った。頭に血が上って席を立ったけれど、父の目はもう僕を離れている。少し息を荒げただけで、何もできないまま僕は逃げた。
 その頃から、僕は小説を書くようになっていた。書いたものは兄以外に見せたことがなかったけれど、あの父の言い草は、知っているとしか思えなかった。盗み見たのか。まさか。僕が何をしているかなんて、父は興味もないはずだ。ということは……。でも、兄を責める気はなかった。兄には善意しかなかっただろう。悪いのは父と――
「やっぱりここか。」
 兄が目の前に現れた。ベッドと壁の隙間の陰に、僕は座っていた。よく父と言い争い、そこへ逃げ込むようになっていた。
「ごめん。」
 と僕は言った。
「何への謝罪? 別に俺の領土とかじゃないよ。」兄は心底おかしそうに笑った後、「こっちこそ、ごめんな。お前の小説のこと――」
「兄さんは悪くないよ。……悪いとすれば、あいつを信じたことだけど、それだってやっぱり、あいつが悪い。子供の信頼を仇でしか返せない親なんて。」
「ずいぶん嫌われてるなあ。かわいそうに。」
「かわいそう? 誰が……あいつだけやりたい放題で、人のこと全然考えてない。好きにやってるんだから、せめて楽しそうな顔すればいいのに、いつも苛立ってて……」
「真剣だからだよ、父さんは。俺と違って。」
「真剣だったら、人を殺してもいいの?」
「極論。」
「どうかな。僕には兄さんも、母さんも――」
「殺されてるように見える?」
 僕が固まると、兄は笑った。
「重い重い。重いよ、お前も父さんも。」
「あいつと一緒に――いや、そうだね。僕も同じだ。口先だけで、見てることしかできないんだから……」
「それでいいんだよ、お前は。手出したら負けだ。」
 フ、と僕は鼻で笑い、「兄さんが言う? それ。」
「リングの外では殴ってないから。」
「……うん、そうだね。だから兄さんは、ずっと勝ってるんだ。リングの上でも、下でも……。僕が兄さんだったら、あいつのことは殴ってる。」
「ダメだ。」
「知ってるよ、ボクサーが素人に手を出すな。でしょ?」
「そうじゃない。どうあろうと、お前が父さんを殴るのはダメだ。」
「どうして。」
「父さんは、お前だけは殴ろうとしたことがないだろう。」
「……殴る価値もないと思ってるんだろ。」
「違う。わかってるんだよあの人も。お前は違うって。だからこっちにきちゃいけない。いいな?」
「違うって、何。僕が弱いから……」
「違う、逆だ。お前は、闘える人間なんだよ。」
「闘う? 冗談きついよ、兄さんに言われると。」
「そういうことじゃない。俺は闘ってないしな。ずっと逃げてる。本当の闘いに向かわずに……それに比べりゃ、リングでやってるのは遊びだよ。」
「あれが遊びですか。みんな聞いたら怒るよ。」
「全力の遊びさ。怒られるのは慣れてるから大丈夫。」
「遊びだから、きれいなのかな……僕も兄さんみたいに、遊べたらいいのにな。悔しいよ。言葉じゃ何も、できないんだ。」
「そんなことないさ。言葉で殴ることもできるし……他にもいろいろ、」
「たとえば?」
「赦すとか。救うとか。」
「無理だ。」
「かもな。いまはまだ。でも大丈夫、そのうちなんとかなるさ。訓練すればな。」
「僕は兄さんとは違う。」
「お前の小説、俺は好きだよ。だからやめんな。恥ずかしくなんてないから。お前にしかできないことだ。」
「……でも……」
「俺と親父、どっちを信じる?」
「……信じたいのは、兄さん。」
「おう。ぜひそうしろ。それが一番大事だよ。どうしたいかが。」
「……兄さんは、どうしたいの? 本当は。」
 一瞬、兄は石のように固まってから、笑顔に戻り、
「いいじゃんいまの、ナイスカウンター。」
 ははっ。
 兄が笑うと、重力が減る。僕の気持ちもふわっと浮かんで、父の言葉はしぼんでいく。
 だけど父は、止まらない。裏庭の大きな木にそれが吊るされる。兄よりはるかに大きく重い、百八十センチのサンドバッグ。暗い赤色のそれが宙にぶら下がっている様は不気味だった。特に夜、強風でサンドバッグが揺れ、枝が悲鳴を上げていたりすると、家の裏を通りかかった人が驚いて、身を引くこともあった。裏庭には小さなテラスがあって、天気の良い日には母がそこで洗濯物をたたみながら音楽を聴いたり、僕が本を読んだりしていたのだけど、もうそんな気分にもなれなかった。それに、サンドバッグに奪われてしまった庭の木陰は、兄のお気に入りの場所の一つでもあったのだ。
 リビングの窓からも、兄と僕の部屋の窓からも、サンドバッグが目に入った。僕は寝床で、病的な妄想、悪夢を見た。白い袋に入れられた人がめちゃくちゃにリンチされ、血だるまになって袋を赤く染め、そのまま何週間も放置された後、あの木の下へ運ばれてくる……。
 サンドバッグの中には普通、布やスポンジを詰めるものらしい。あまり固いものだと拳を痛めるおそれがあるからだ。でも、父が詰めたのは砂だった。そうでなくても、フライ級の兄にそこまで重いサンドバッグが必要なのか、僕には疑問だった。
「まだ軽い。もっと強く!」父は兄の傍で何度も怒鳴り、「違う、こうだ!」とグローブを奪って自分で殴った。聞いているだけで痛い、耳を塞ぎたくなるようなものすごい音がした。たしかに、父のパンチには威力があった。兄に唯一弱点があるとすれば、パンチに重みが足りず、決定打を逃すことがあるところだ――それはトレーナーも指摘していた。だけど兄の天分は、相手の動き出すタイミングを的確に狙い澄まして打つ、体内時計の精度とスピードにあって、無理にパワーをつけなくても十分やっていけることは明らかだったから、そこまで強くは言われなかった。しかし父は、「弱点」を完全に克服しなければ気が済まないらしかった。兄は冬になっても毎日庭へ出され、殴り続けた。
 サンドバッグと対峙している間、兄はリングで殴られているときにも見せたことのない、苦しそうな表情をたびたび覗かせた。陰影に覆われ、深い皺が刻まれているようにも見えるその顔は、急に何十歳も老けたみたいで恐ろしかった。練習を終えて家に上がると、僕の前では笑って隠そうとしたけれど、真っ赤な拳が痛々しかった。
 それでも兄のボクシングは美しかった。凍える冬の夜、静かな星空の下でサンドバッグに向かい続ける兄の、白い息、身を削りながら繰り出す拳、半ば意識を失っているような暗い瞳。試合のときとは違う、絶対的な孤高の闘い、壮絶さがあった。見ていると心が糸のように細く、頼りなく、寒々として虚ろになった。
 地面の黒ずんだ枯葉が踏み潰される微かな音も、老人のような裸の木が兄を見守っている様も、一つの舞台の音響であり、装飾だった。兄の生命力が枯渇しつつあるのは目に見えていたけれど、あまりにもきれいで、現実感がなく、ただ眺めていたいと思ってしまった。
 
 サンドバッグの成果か、兄の筋肉は硬くなり、量も増え、パンチに重みが出てきたし、取っ組み合うような接近戦でも圧し負けなくなった。体重も増し、体がやや横に広がった分、「陰」に身を押し込めていると息苦しそうに見えたけれど、その習慣をやめることはなかった。むしろ、サンドバッグに奪られている時間を取り戻そうとするかのように、深夜にベッドを脱け出してまで、陰にいることが多くなった。夢遊病者か、徘徊老人を探す気持ちで、僕は家の中を歩き回った。見つけ出した兄の目は暗い湖面、鏡のようで、開いたまま眠っているらしく、声をかけても反応しないことが多かった。音楽を聴いているときの母の様子と似ていた。兄が夢を見ているのなら、せめてそこではボクシング以外の遊びをしていますように、と胸の内で祈った。何の役にも立たない願いだった。
 終わりの始まりは、兄の記念すべき二十歳の誕生日だった。「陰」では廃人のような姿をたびたび見せているにもかかわらず、リング上の兄は無敗のヒーロー。才能が敗北を許してくれず、自分自身の力の奴隷となって、勝たされ続けているみたいだった。そしてついに二週間後、世界のベルトへ手をかけるべく、渡米するというタイミングだった。
 僕は兄の好きなバンドのデモ音源をプレゼントした。公式には発表されていない、個人が録音したものだった。兄が前に「欲しいけど無理だろうなあ。」とこぼすのを聞いて、ネット上をしらみつぶしに探し、なんとか持っている人から譲ってもらうことができたのだ。兄はとても喜んで、「向こうでも聴くよ。」と言ってくれた。久しぶりに笑顔を見た気がした。僕も嬉しかったけれど、五曲入りの音源のうち、兄がいちばん気に入った曲は「星の奴隷」という意味のタイトルで、こんな歌詞から始まった。
「君の奇跡はとうに 使い果たされて
 あと残っているのは 消化試合だけ」
 炎に包まれた隕石が、斜めに宇宙を落ちていく。そんなイメージが脳裏を過り、なんでよりによってこの曲なんだろうと、後悔、不安の影が差した。
 その日、何の前触れもなく、家の中でいろいろなものが壊れた。僕が家族共用のパソコンを使っていると、急に画面が真っ暗になり、その上で赤い煙みたいな模様が踊っているだけになった。謎のウイルスに侵されているらしく、電気屋に連絡しても手立てがなかった。父の書斎のレコーダーは、兄の試合が録画されたディスクを飲み込んだまま停止し、いくら叩いても二度と反応しなかった。キッチンのコンロも火がつかなくなり、母は夕食のしたくを途中であきらめるしかなかった。父がそれを知ったとき、母は怯えながら謝ったけれど、
「物が身代わりになってくれたんだろう。家族全員で、支えてきたんだからな。これできっと、アメリカでもチャンピオンになれる。」
 と、父は気持ち悪いくらい前向きなことを言って、その上みんなで外食をしようと提案した。高級レストランのテーブルでも、父は上機嫌だった。赤ワインをがぶがぶ飲み、兄に対する自分の指導がいかに優れているか、自分の言う通りにスタイルを修正してきたから、いまの大きな成果があるのだと豪語した。兄は「その通り!」と調子を合わせて相槌を打つ。僕は最初から最後まで会話には入らないつもりだったけど、兄がニコニコしながら話しかけてくると、無視するわけにもいかなかった。食後に大きなバースデーケーキが運ばれてくると、兄は二十本の蝋燭に黄色く照らされながら、喜びでいっぱいの笑顔になった。驚いたことに、母までも頬を上気させて微笑んでいた。絵に描いたような「家族の誕生日」の光景。夢の中で、もはや別の家族となった自分たちを眺めている気がした。僕はそれが夢であることに気づいているから、ふわふわした幸せに頭を浮かされながらも、嘘くささと、底が抜けているような不気味さを感じていた。
「ハッピーバースデー!」
 そして、僕たちに罰が下る。
 翌日から、兄は右腕をだらんと垂らして、持ち上げようとしなくなった。朝食の席で、兄が右手を使わず頑なに左手で箸を動かし、何度も食べ物を落としているのを見たときは、また何か、父が新しいトレーニングを考えたのだろうと思っていた。けれど、起きてきた父が兄を見て、
「何をしているんだ。」
 と言うので僕も、
「どうしたの兄さん。それ、わざと……だよね?」
 兄は何も言わなかった。「陰」にいるわけでもないのに、兄が父や僕の言葉を無視するなんて、初めてのことだった。
 兄の右腕は完全に脱力しているらしく、壊れた振り子のようにぶらぶらしているばかりだった。でも腕の先では手が拳を握りしめていて、いつでもグローブをはめて人を殴れそうな感じだったから、アンバランスで奇妙だった。
 兄は左手だけで朝食を食べ続けた。はじめはぎこちなかったのに、十分も経たないうちにスイスイ口へ食べ物を運ぶようになった。片腕で生活するための訓練を、誰にも知られないところでひそかに積んでいたんじゃないか。そう思えるほど、スムーズな動作だった。
「もう誕生日は終わったんだぞ。」父が言った。「いつまで浮かれてふざけるつもりだ。切り替えろ。わかってるのか? お前。二週間後にはリングの上だぞ、アメリカの。わかってるなら、手を挙げろ。」
 しかし、兄の右腕は沈黙していた。リングの上、光の速さで敵を打ち倒し、勝利の証として掲げられてきたのが嘘みたいに。父はその腕をつかんで、食卓の上に置いたり、強く揺さぶったりしたけれど、死体のようになすがままで、本当に一ミリも力が入らなくなっているとしか思えなかった。当の兄は、まるで他人事だった。右腕と父に目もくれず、黙々と豆乳を飲んでいた。
「いい加減にしろ!」
 ついに父が兄の腕を放し、自分の右腕をふりかざした。それでも兄は意に介さず、避ける素振りさえ見せなかった。兄の反射神経なら、直前で簡単に躱せるだろう。これまではずっとそうしてきた。でも、もはや兄にその気がないことも、兄の体を見ていればわかった。
「どうした。殴れよ。」気づけば僕は、父の前に立ちはだかっていた。「どうせあんたには、ボクシングをやってた誇りも残ってないんだろ。だから母さんや兄さんを、平気で殴ったりできるんだ。殴り返せないのをわかっていて……ウジ虫野郎。」
「なんで、知ってるんだ。お前。」腕を少しずつ下げながら、腑抜けた顔で父は言った。「……お前が教えたのか?」
 父に見られて、母は凍りついた。ただただ哀れで、怒りが湧いた。
「たまたま写真を見たんだよ。何でもかんでも母さんのせいにするな! いい加減にするのは、あんたの方だ。てめーの終わった夢、人に押しつけて、縛って……大人の男がやることか? 自立できてないんだよ、あんたは。年だけ食って。情けない。どっちがガキだ、クソッタレ。」
 父はあくびをした後のような変な顔で、しばらく僕を見た後、去って行った。僕の言葉で父が黙ったのは初めてだったけど、勝利の喜びなんて微塵もない。苦々しいむなしさだけだった。背後で兄が、席を立った。
 どうして手を上げようとしないのか。何度訊かれても、兄は答えなかった。質問を無視するだけではない。喋ること自体、ほとんどなくなった。大学にもジムにも行かず、サンドバッグを見ようともしない。世界への挑戦なんて論外だ。ついこの間までアメリカ行きの話をしていた人間が、家の外へ一歩も出ることさえなくなった。兄が望んだのは陰だけだった。それまで顧みられることのなかった、新しい陰を家のあちこちに見出し、ときには自ら創り出した。水の抜かれた真昼の浴槽へ、蓋を閉めて潜り込んだり、来客用の布団を積み上げて塔をなした隙間に、緩衝材のように身を押し込んだり……使われていないベッドの下を覗いたら、埃まみれになった兄の見開いた目に出くわして、腰を抜かしてしまったこともある。どんな場所で、どんな体勢を取っていても、右腕は変わらず眠っていた。布団を重ねたり、ベッドの下から這い出たりするときも、全部左腕だけでやってのけた。
 もちろん、父は黙って見ていたわけではない。何人もの医者や、有名な元ボクサー、トレーナー、果ては「癒しの力」を持つとされる霊能力者までもが、家を訪れた。その人たちを呼ぶのに、どれだけお金がかかっているのか、考えたくもなかった。僕が直接祖父に、「援助」を請わなければならないことさえあった。兄は入院もさせられた。緑に囲まれた保養地で、長期休暇を過ごしたこともあった。ぜんぶ無駄だった。
 兄が自分の意思で右腕を動かそうとする瞬間は、一度として見られなかった。重いものを持ち上げるときも、シャワーで髪を洗うときも、学校の運動場沿いの道で、右からすごい速さのボールが頭めがけて飛んできたときでさえ、右腕はぴくりともせず、筋肉が強張る気配も見せなかった。怠惰にぶらぶらと遊んでいるばかりで、神経が一本残らず断ち切れているとしか思えなかった。兄の生きる一番の武器だったはずのそれは、もはや何の役にも立たない、ただの錘になってしまったのだ。でも、そんなものはじめからなくてもよかったのだと、兄の暮らしぶりは語っているようだった。飛んできたボールは首だけで躱した。軽々と。そして斜め後ろを歩いていた僕に、横目を細めて笑ってみせた。
 父は兄以上に無口になり、かろうじて会社へ行って帰ってくるだけの機械と化していた。家で口にする言葉といえば、「まだ軽い。もっと強く。」くらいのもので、すでにそれは意味を失くした、祈りの文句になっていた。神頼みしかできることがないのだろう、例の霊能力者に言われるがまま、うさんくさい開運アイテムをたくさん買い込んで書斎に置いた。ボクシングに関わるもので溢れていた父の書斎は、どぎつい原色の「ラッキーカラー」に上塗りされた。子供の王様が作った、トチ狂った王国みたいにカラフルな部屋で、父にもふと我に返る瞬間があったらしく、やがて立ち入らなくなり、夫婦の寝室に引きこもりだした。母はそんな父を、かいがいしく世話した。笑顔で、浮足立ち、家中をきびきびと動き回るようになった。食卓でうつむいている父と兄の暗い顔を、ニコニコ眺める母は若返ってさえいた。兄や父が寝ている隙に、血管に針を刺し、生命の蜜を吸い取っている。僕はそんな妄想をしていたので、母に笑顔を向けられると心臓が縮み上がった。
 母と父の蜜月は、そう長く続かなかった。仕事を終えても父がなかなか帰らなくなり、ある晩ついに、泥酔状態で見知らぬ女を連れ込んだのだ。それに対して母が怒ることができないのを、父は見越していたらしかった。母は大量に薬を飲み、一日の大半を寝て過ごすようになった。父は母に家のことをやれとは言わず、ただ放っていた。そのままでは家が荒廃してしまうので、僕と兄で分担して家事をするようになった。といっても、兄はどこにいるのかわからないこともあるから手伝い程度で、中心は僕だった。
 あるとき、夕食ができたのを知らせに両親の寝室へ行くと、めずらしく母が起き上がっていた。窓からの青い月明かりで幽霊のような母の顔が、まっすぐ僕を見据えて口を動かした。
「あなたにそれを言われるのは、変な気分ね。」
「……そういえば、そうだね。」こちらも変な気分になりながら、言葉を選んだ。「元々は逆だったし……でも最近はずっとこうでしょ?」
「最近?」
「うん、最近……」
「……才能なんか、なければよかったのにね。」
 右下へ目を伏せ、母は言った。
「……急に何?」
「あの子のせいで、お父さんは変わった。」
「やめてよ。」
 寝室に父はいなかった。深夜まで帰らないのはもうわかっていた。
「夢とか。なんだとか。家族を壊してまで追うものだと思う?」
「それは父さんに言えよ。父さんのやり方が間違ってたんだ。夢が悪いんじゃない。」
「……あなたは、全部あの人が悪いように言うけれど。昔のお父さんを思い出して。優しい人だったでしょう?」
「覚えてない。」
「兄さんは覚えてるわ。だから逆らわない。」
「違う。兄さんが優しいだけだ。」
「まるでお父さんの優しさを、吸い取ったみたいにね。」
「……兄さんの優しさは演技だって言うのか? 父さんの代わり? ふざけるなよ。」
「怒らないで。私は悪くないんだから。あなたもね。私たちは同じでしょう? 巻き込まれただけの被害者どうし。」
「違う。……僕は、自分も悪いと思ってる。」
 母は唇を歪め、鼻で笑った。
「口だけで何もしないくせに。」
「だから、いま、こうやって――」
「今更ね。手遅れなのに。もういいわ。わかったから。私が馬鹿だった。……そうよね、結局、あなたもあの子の味方なんだ。」
「味方とか、そういうことじゃ――」
「私はずっとひとり。」
 母は前方へ向き直り、それからは何も喋らなかった。僕が何を言っても反応しない、目を開けたままの横顔は、心を失い静まり返った、冷たい人形のようだった。
 どれだけ家族が壊れても、サンドバッグは吊り下げられたままだった。忘れられたわけではない。少なくとも、僕はよくそれを眺めていた。静かな夜にはそいつの前に、闘う兄の幻影が現れる。風が吹けば消えてしまいそうな、銀色の煙でできた透明な体。音のないパンチを繰り出す仕草は、孤独なダンスを踊っているようでもある。記憶が見せる、過去の残像なのだろうか。それさえ再生されなくなったとき、僕たちは最後の希望の一かけらをも失うことになる。僕も、父も――兄を責める母でさえ、心のどこかで幽かなその糸に、縋っている気がした。だから誰も、あの赤い遺物を片づけようとしない。すべてをゼロにして新しい道を歩きだす、力も勇気も残っていない。僕たちの誰よりもずっしりと揺るがず、サンドバッグはそこにある。大地が揺れ、家がバラバラの瓦礫になったとしても、それだけは変わらず浮かんでいる。釘で宙に打ちつけられたみたいに。その釘を打つ金槌は、血のにじむ兄の拳だった。

 兄が殴らなくなって六年が経った。兄は二十六、僕は二十五。プロボクサーの年齢制限は十七歳から三十六歳までだから、プロでいられる二十年のうち、半分近くが経過してしまったことになる。「六」というのは兄がボクシングを始めた年でもあった。生まれてからの六年――ボクサーではない、「ただの人」として兄の過ごした最長期間。それがもう少しで、更新されるところだった。
 でも、そんな計算をしているのは僕だけのようだった。父はすっかりボクシングをあきらめ、普通のサラリーマンに戻っていた。家庭を大切にするというわけでもないが、でたらめな夜遊びをすることはもうなかった。母もだいぶ落ち着いて、家のことができるようになっていたけれど、完全に回復したのでないことはわかっていた。薬に頼らなければ眠ることもできない。そうでなくても、彼女の傷が癒えることは永遠にないだろう。父とは表面的に、人形劇のような夫婦ごっこを続け、ただ何事もなく人生が終わるときを待っているように見えた。
 僕は大学を出て、カルチャー誌の記者になっていた。休日、暇があれば小説を書いて、ときどき兄に読んでもらっていた。兄はどこへも行かず、職にも就かず、一日中家にいたが、見かねた祖父の計らいにより、祖父の会社の事務方の部署で、たまに働くようになっていた。仕事と言っても週に一度か二度しか出勤せず、時間も自由で、アルバイトですらない、リハビリのようなものだった。けれど兄は飲み込みが早く、基本的にパソコンを使う仕事であるにも関わらず、片手でそつなくこなした。口数が多いわけではないけれど、態度は柔和なので、職場の人にも気に入られ、よく家へお菓子をもらって帰ることがあった。
 穏やかな春のような時期だったと思う。何もかもが良くなったと言うつもりはないけれど、その小康状態が、ずっと続きそうな気さえしていた。六年だ。人を錯覚させるには――特に、僕のような若輩者にとっては、十分すぎる年月ではないだろうか。兄の右腕だって相変わらず動く気配を見せなかったけれど、もう当たり前のものとしてみんな受け容れていた。
 でも、もちろんそれは当たり前なんかではないのだ。僕は時折、じっくりと観察してみることがあった。その腕はタコの体のようにぶにょぶにょと柔らかく、骨がないみたいだった。役に立たない器官とみなされ、血の供給を断たれたのか、根元から先まで老木のような灰色になっていた。手だけが頑なに、固い拳の形を取り続けていた。元々は兄が自分の意思で握り締めていたのかもしれないけど、年月を経て死後硬直を迎え、もはや本人にも動かせなくなってしまったんじゃないかと思えた。指を一本ずつ剥がして開かせようとしてみたこともあったけれど、触れた瞬間の冷たさ、人ではない、爬虫類の皮膚のような感触にゾッとして、僕は手を引っ込めてしまった。すぐに罪悪感に襲われた。いまの僕の反応を見て、兄はきっと傷ついただろう。おそるおそる顔を上げると、
「火星人だ!」
 兄は右腕を波打たせるように揺すぶりながら、笑ってみせた。
 僕と兄の関係だけは、変わらなかった。外の世界へ出なくても、兄は僕よりはるかにいろいろなことを知っているようで、たびたび感心させられた。仕事で書くネタを探しているときに、兄が良い素材をくれることもあった。兄は兄で、僕が取材で行った遠い土地の話をすると、物語を味わうようにうなずきながら聞いて、
「お前はすごいな。」
 と褒めてくれた。
「そんなことないよ。ただあったことや聞いたことを話してるだけだし……誰にでもできる仕事さ。」
「同じ場所へ行っても、同じ話を聞いても、目のつけどころが違う人間が見つけ出すものは新鮮で、面白い。」
「僕に観察眼なんてないと思うけどな。それに、僕の視点を面白がる人が多いとは限らないし……」
「俺は面白がってるよ。」
「それは兄さんだから。」
「あんまり自分を卑下するなよ? お前は立派だ。ちゃんと人の役に立つことをやってるんだから。」
「……じゃあ、『僕が小さいんじゃない。世界が広くて、偉大なんだ。』」
「オーケー。それでいこう。」僕の上司の口癖だった。
 兄の「隠れ家」で、僕たちはくすくす笑いあった。そうしていると、いつまでも子供の兄弟のままでいるみたいだった。でも体は大きくなっていて、兄と同じ場所に身を押し込めるのはもう難しかった。たとえばベッドの下の陰に兄がいるとき、僕はベッドの横の床に寝転がって、頭だけ潜り込ませているという具合。傍から見ればいい大人が、何をやっているのかという感じだった。
「俺ってさ、」一度だけ、兄がぽつりとこぼしたことがある。「どうしてここにいるんだろうな?」
 階段の踊り場だった。窓が一つあって、日が差し、時間帯によって角度を変えた。兄は二つの壁が接する窪み、隅っこの陰にあぐらをかいていて、そこはどんなときも光の届かない場所だった。僕は踊り場の中央で、傾いだ白い日の光を背に、片膝を立てて座っていたけれど、兄の言葉を聞くと前へ体をずらして、陰の中へ納まった。
 傍に寄ったはいいが、何を言うべきかわからなかった。兄はまともに自分の右腕を見下ろしていて、それは僕が知る限り、この六年間で初めてのことだった。真剣に言葉を探して答えなければならないと、わかっていた。
 僕は言った。
「大丈夫。」
 兄は目を丸くして僕を見た。僕も自分で驚いていた。考える前に勝手に転がり出た言葉だった。驚きながら、するする糸がほどけるように、言葉のつづきは紡がれていった。
「どこにいようと、僕にとって兄さんはずっと、憧れだよ。今だって。……ボクシングだけが、兄さんじゃない。リングの上だけが居場所じゃないんだ。」
「でも、みんなが俺に望んでたのは――」
「兄さんの望みは?」
「俺の……」
「そう。兄さんは、自由なんだよ。どこにいてもいいんだ。誰にも文句なんて言わせない。疲れたでしょ? リングの上は、眩しすぎて……ずっと勝ち負けに、追い立てられて。勝つだけが人生じゃない……違うな。そもそも、人が決めていいことじゃないんだ。」
 壁と壁の窪みに背を預けた兄の姿は、ノイズのような黒い薄闇に蝕まれて見えた。左目を細め、右目と唇の端を上げた兄の笑みは、おどけているようでありながら、どこか寂しそうな、何かが抜け去ってしまったような諦めと疲れをも感じさせた。兄がどんな気持ちで、何を考えているのか、僕には全然わからなかった。僕がわからないということを確かめたように、兄はふっと顔を下げ目を閉じると、
「ここには、風がないな。」
 と言った。
「窓、開ける?」
「いや。大丈夫。」
 瞼の裏で、兄は夢を見ているのかもしれなかった。大きな風の一群が、草を倒しながら渡っていく高原。遠い背景には青空と、それに溶けてしまいそうな白くぼやけた山々の姿。ほかには何もない。僕はポケットからペンと手帳を取り出し、その光景を文字に書き留めた。世界のどこかにその場所はあるのかもしれなかった。兄のための場所。いつかそこへたどり着いたとき、わかるように。兄や僕がこの家を出て、長い旅路に就くときがきても、ずっと忘れずにいたいと思った。

 僕の二十六歳の誕生日。自分でも半ばどうでもよくなってきていたその日を、兄はきちんと覚えていて、プレゼントには何が欲しいかと尋ねられた。ボクシングが見たい、と僕は答えた。もう一度だけ、兄さんのボクシングが。どうして自分がそんなことを言ったのか、わからなかった。でも、「今なら大丈夫だ」という気がしていた。
 兄は意外とあっさり承諾してくれた。寝起きみたいに眉を上げた後、柔らかく笑って「わかったよ。」と言った。秋の半ばの夜だった。風はなく、まばらに紅葉した葉の残る、ほとんど裸の木の下で、暗い赤色のサンドバッグが静止していた。それはもはや、枝にくくりつけられ、吊られているというより、自らの意思で自分をそこに固定し、何者にも動かされまいと押し黙っているみたいだった。兄がリングの上で闘った、どの相手とも違う不気味な強さがあった。サンドバッグの下には、リングの代わりに橙色の落ち葉が敷き詰められている。夜と木と落ち葉と、サンドバッグ。その光景は、既に一枚の絵として完成しているように見えたけれど、兄が加わるのを待っている――自分たちの一部として、迎え入れようとしている感じもした。
「ねえ、兄さん。やっぱり――」
「大丈夫。」
 兄は言って、長袖の白いTシャツを脱ぎ捨てた。自分だけでは、もうこれを止められないのだ――僕はそう悟って、背後を振り返ったけれど、家の中ではただ暗闇が、静まり返っているばかりだった。父も母も、寝室にいるのは知っていた。にも関わらず、その家にはもう何十年も人が住んでいない――いや、はじめから誰も住んだことなんてないのだ、という感覚に襲われ、拭い去ることができなかった。
 前へ向き直ると、もう兄はサンドバッグの左に立ち、構えていた。左腕を曲げて腹の前まで下げ、右腕はもちろん、垂れ下がったまま。僕はそのフォームを知っていた。ヒットマンスタイル。本来なら右手は顔のそばで構えるが、左腕の特徴的な構えだけでもそれとわかる。けれど、兄がヒットマンスタイルを取るところは初めて見た。なぜ今になって。殺し屋(ヒットマン)。その響きに胸騒ぎがした。
 ふいに兄の足が前へ出て、パアン! という音が空気を一気に張り詰めさせた。サンドバッグが枝を軋ませながら揺れているのを見て、兄が左のジャブを打ったのだとようやく気づく。二発目、三発目も、気づいたときには終わっていた。ステップを踏んだ後、四発、五発。目を凝らしていれば、かろうじて残像が見える。遺伝子の形に結ばれていた何本もの銀色の糸が、光りながらほどけるような残像。兄が動くことで、体のいろいろな部分が目に入った。肩や背中の筋肉。落ち葉とこすれ合う音を立てながら、細かく踊るようなステップを刻む足。何もかも、昔のままのように思えた。いや、「昔」という感覚すらなく、当たり前に続いてきたみたいに、自然に――あの頃見ていたのと同じものを見ていた。兄の中でボクシングはずっと生きていたのだ、と思った。練習をしなくても、何も殴らなくても……。世の中には、何年続けても芽を出すことのない「努力」がいくらでもある。続けることでかろうじて「延命」できる、小さくか弱い灯火(ともしび)が。兄のボクシングは、そうしたすべての営みを一瞬で無化するものだった。あまりにも無慈悲で美しい、生命の塊のような力。周りの小さな火も、自らの宿主さえも喰らって大きくなる怪物のような炎。
 もちろん、現実には「あの頃と同じ」ボクシングではありえなかった。兄の右腕は眠ったまま、動くたびぶらぶらと体の周りで揺れている。しかし、その右腕さえ含めて今は一つのスタイルとして、完成されているように見えた。従来のヒットマンスタイルは、下げた左腕から軌道の読めないパンチを繰り出すことで相手を翻弄しつつ、右腕の強打でKOを狙う戦法だが、左のガードが甘くなるため、そこを相手に狙われやすくなる。兄の場合は加えて右腕もあの状態だから、ほぼノーガードのようなもので、もし向かい合っているのが本物のボクサーなら、相手の目には兄こそサンドバッグに見えただろう。それでも、兄は敗けない気がした。計算されていない右腕の動きさえ計算に入れて、相手を惑わせつつ、何か――捨て身の一撃、みたいなものを狙っている。そんな気が――
 一瞬のできごとだった。兄が足を踏み出し、クシャッと落ち葉の潰れる音がして、何十発目かの左のジャブを放つ――かに見えた瞬間、左腕に集中していた僕の視界の前方で、恐ろしい速さの光が走った。右だった。死んだ右腕が蘇り、まっすぐに伸びて、拳がサンドバッグと接していた。すべてが止まっていた。夜空、木、落ち葉、サンドバッグ、そして殴る兄。それらは全き調和の中で、一枚の絵となっていた。世界は静かに息を休め、安らぎのなかに眠っていた。もう大丈夫。そう囁かれた気がした。この一撃で全部ひっくり返って、これからはみんな上手くいく。永遠を感じた、瞬間だった。
 風が吹いた。唐突に、どこからかやってきた、冷たい夜風。それを合図とするかのように、枝が折れ、サンドバッグが地面に倒れた。そして、兄の右腕は砕けた。血も出さず、作り物の、硝子細工のような破片になって、きらきら瞬き、降り注ぐ。兄は気づいていないかのように、息も乱さず、木の根元辺りをぼんやり見ていた。僕の硬直が解け、駆け寄ると、落ち葉に混じった右腕の欠片はすでに壊死して、灰色の、コンクリートの屑のようになっていた。それでも僕は、地面に四つん這いになって、散りぢりに破れた本のページみたいに、それらを拾い集めようとしたけれど、ひときわ強い風に襲われると、指の間をすり抜けて、奪われてゆき、すぐに目にも見えなくなった。風になって、消えたのだ。僕は自分の両手を見下ろした。何もできない、無力なこの手。
 うなだれた僕の頭に、何かが触れた。僕を見下ろし、右手を置いた兄の姿を、僕は思い浮かべた。僕が悩んだり、不安を感じたりしているとき、僕の頭を軽く叩いてくれた、兄の右手。そのとき僕に触れていた手は、僕の慣れ親しんだ右手とは違っていた。静かで、温度がなく、存在感のない――空気のような、紙のような手のひらだった。闘う者の手ではなかった。
「俺、一つお前に謝らなきゃなって、思ってたことがあるんだ。」
 兄の声が降ってきた。
「昔、夢の話をしただろ? 熊と闘う夢。あれ、引き分けなんて言ったけど、完敗だったんだ。手も足も出ずに、殺されたんだよ。本当は。」
 兄は力なく笑った。からっぽの笑いだった。
 僕は泣きだした。必死に謝ろうとしたけれど、涙が口に蓋をする。ずっとわかっていた、いつかこうなることは。僕は無知な子供なんかではなかった。気づかないふりが立派にできる、弱くずる賢い、人間だった。兄は片目を細め、不思議な笑みで僕を見守っていた。人間じゃないみたいだった。


「気分は良くなった?」
 隣に座っている彼女が尋ねた。
「うん。体のほうは……ありがとう。」
 僕は答えた。もうすっかり夕方で、景色は橙色に染まり、草木の傍では影がくっきりと濃さを増していた。
 木から落ちたサンドバッグは、誰にも手をつけられず、そのまま放置されて日差しや風雨に晒され、朽ち果てて行った。赤い革が色褪せてあちこち破れ、砂を吐き出し、その砂も風に攫われていく。それでも僕には、僕たちの住む家より、ただの残骸になったそれの方が、生きた証のように思えた。
 兄の一撃は、決定的に僕を変えてしまった。あの瞬間から僕の中で何かが固まったまま、化石になった。それと同時に別の何か、硬直していた時間が流れ出し、一時として休まらない。今も。僕は書き続けている。兄が殴り続けたように。家を出て、兄とも気軽に会えなくなり、読んでくれる人のいなくなった小説を、僕は賞へ応募するようになった。芽が出る気配はない。それでも死ぬまで書くのはやめない。僕にできるのはこれだけだから。
 永久の眠りについた母は、見たことのない安らかな微笑みを浮かべていた。棺の中で、柔らかい光に包まれた母の顔はあどけなく、こんな人だったのかと僕は思った。涙は出ない。ただ、左胸にぽっかり穴が空いたような感覚がした。その穴は、これからも広がり続けて行き、塞がることはないのだと思った。なんとか目を逸らして、前へ進むほかに道はない。
 父は母の遺影を黙って眺めていた。葬儀の場でも、その後ずっと、家の中でも。今や一人であの大きな空っぽの白い家に残された父が、どんな暮らしを送っているのか、僕には知るよしもない。ただ、たまに帰ると家はいつも綺麗に――誰も住んでいないみたいに整頓されていて、薄暗い。中でも、父の書斎は文字どおり空っぽだった。その部屋にあったすべてのものを、父は捨ててしまった。霊能力者の開運グッズや、ボクシングにまつわる品々――本や試合の記録、写真、グローブ、トロフィーに至るまで。原形を失くしたサンドバッグだけが、ずっと裏庭にとどまっていた。青い月夜、テラスに腰かけ、地面にうずくまっているその残骸を見下ろしながら、酒を飲んでいる父の姿があった。冷酒を注いだ透明のグラスは、月光で水色に染まって見えた。
 兄からはときどき手紙がくる。高原の療養所に入っている兄は、自分が元ボクサーであることについて、周りには伏せていたけれど、この間ついにバレたそうだ。
「同じ棟に、俺のファンだったっていうけったいなおじさんがいてね。ボクシング教えてくれって、しつこいんだ。脚が麻痺してて杖ついてるけど、上半身は動くからってさ。これも運命かと観念したよ。教えるかわりに俺のことをチャンピオンって呼ぶのはやめてください、って頼んでるんだけど、全然聞いてくれない。まったくさ、どこでも一緒なんだね、男ってやつは。こんな平和な場所でさえ、ずっとヒーローを夢見てるんだ。暇人すぎて、笑っちゃうよ。」
 その手紙を思い出し、僕はくつくつと笑っていた。
「ちょうど十年か。」
「何が?」
 彼女に訊かれて、僕は答えた。
「僕のヒーローが、リングを去ってから。」
 それでも兄のボクシングは忘れ去られず、生きている。
「そういえばあなたって、何歳なの?」
「二十九。」
「嘘。私より年上? やっぱり日本人って幼いのね。」
「そうかな。僕が子供なだけかもしれない。」
「二十九歳の子供。」
「救いようがないね。」
「本当にそう思ってる?」
「うん、僕についてはね。ずっと子供のままでも、美しい人はいるけど。」
「美しい。あなたのヒーローのこと?」
「かな。」
「子供のヒーローって、不思議。」
「この国のヒーローは、大人の男ばかりだから?」
「そう。」
「変かな、やっぱり。」
「変わってはいるかもしれない。でも、いいと思うわ。私の好きな作家もそういう人だから。大人になろうともがいていたけど、結局無理だった。」
「生まれついた星……」
「何? 占星術?」
「星に縋るのは、弱い人間なんだろうね。」
「弱いのは嫌?」
「うん。」
「弱いからわかりあえるんだとは思わない? 強さは孤高よ。」
「でも、弱くちゃ何もできない……本当に良いことは、できないんだ。」
「いつもそんな風に自分を虐めてるの? 苦しそう。」
「それがライフワークなのかもしれない。」
 僕が笑うと、
「理解不能だわ。」
 彼女も肩をすくめて笑った。
 風が吹いた。草を一列に撫でていくように。木の上では、濃い緑の葉がはたはたと音を立て、無数のひそやかな会話をしていた。
「あれは草の竪琴よ。」彼女が言った。「いつもお話を聞かせているの。丘に眠るすべての人たち、この世に生きたすべての人たちの物語をみんな知っているのよ。わたしたちが死んだら、やっぱり同じようにわたしたちのことを話してくれるのよ、あの草の竪琴は。」
「きれいな台詞だね。」
「でしょう。」
「うん。……でも、きっとそれじゃダメなんだ。僕には。……もう一度、あの木の下へ行きたいんだけど、いいかな?」
「私はいいけど……大丈夫?」
「大丈夫。」
 それは嘘かもしれないし、本当になるかもしれなかった。でも、嘘でも行かなければならなかった。
 彼女が僕の背に右腕を回し、脇に手を差し入れ、立ち上がらせてくれた。
 闘いの場へ、僕は歩きだした。

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