見出し画像

不自由な帰還

「元の生活に戻りたいか?」
「良い記憶がないんだから、戻りたいなんて全然思えないね」
「そうだろうけど、必要に迫られて繰り返し見てる悪い記憶ばかりじゃないだろ?」
「俺の場合は地方の風俗店で客寄せとか運転手とかしながら、女とセックスばっかりして、時には無理やりにでも押し倒してヤるなんてこともあったし、金ができればギャンブルにつぎ込んで、空いた日は友達と酒飲んでの繰り返しだったから、再体験してるうちに自分の欲望が尽きないことにうんざりしたよ」
「楽しそうだけどな」
「最初だけな。何でこんなに女とヤりたがってんだろうとか、何でパチンコこんなに好きなんだろうとか、この友達サイテーじゃんとか思い始めるんだよな。他にもいろいろ人生の送り方はあるはずなのに執着する意味がわからないんだ」
「その時の体に戻らないと分からないのかもな」
「単に老いのせいってのもあるかもな。事故ってソイルが壊れた時に頭や体の質が変わったんだ」
 散歩の最中に話しかけてきたこの男は鈴木智則という。ソイルの障害レベルは俺と比べれば低いが過去の自分に対しての嫌悪感は強い。近々この病院を去ることが決まっているようだが、気が進まないようだ。
 永遠と整備をし続けるだだっ広い敷地を掘り起こされて雑草も生えていない、デコボコした日に当たって乾燥した薄茶の土地の真ん中に幹線道路がいくつも走っている。俺は通り過ぎる車を目で追いかけながら鈴木の話を反芻した。
「元の生活って何だろうな」と鈴木が呟いた。
「安定した日常生活ってとこじゃないの?」
「俺もそれがあると思ってたけど、どうやらなさそうなんだ。女とヤりながら、もっと良い相手がいるとか、付き合ってるうちに馴染んで来るとか、サイテーなやつでも良いところあるしとか、金だって賭け続けるうちに戻ってくるとかさ、そのうち自分に合ったちょうど良い場所に辿り着くと思ってるんだよな。だけど、そんな状況になったことがなさそうなんだ」
「無いのに欲しがれる?どこかで体験してたんじゃ無いのか?」
「子供の頃、見たような気がするけど、遠すぎてそんなの覚えてないだろ。それ自体、両親が話した理想なだけかもしれないし、それがひどすぎて見てられなくて俺が作った夢かもしれないし。今までずっと戻りたい場所を探して生きてたような気がするんだよな」
「親父の妄想を追いかけてるってこと?」
「親父やお袋だってずっと居心地悪かったってこともあり得るからな。嫌々仕方なく生きてるくせして、理想ばかり子供に聞かせるなんてことありそうだろ」
「家ではカッコつけやすいからな。でもそれって分かるもんじゃないのないの?本気にした?」
「本気で信じたんじゃなくて、何となくあってもいいかなって思ってもおかしくないなと思ったって感じかな」
 さっきからぼんやりした会話をしているのは俺を安心させようとしてのことのようだった。ここを出たって元には戻れないんだから地道に別の目的を探した方がいいと。
 病院で用意されたベージュのシャツとチノパンを履いた男女が病院の庭で散歩している。俺とどこか裏の世界の匂いがする鈴木はてっぺんに鉄条網が巻きつけられ、指で弾くといい音がする硬くて高い柵に寄りかかりながら殺伐とした風景を見ながら会話を続けた。
「俺にも戻りたい場所はあるけど、過去の俺に戻りたい訳じゃ無いかもしれない。戻れるなら最初からやり直さなきゃならないかも」
「最初?」
「産まれたところから」
「それは無理だろ」
「そうだけど、俺や鈴木くんも何となくいい未来があると信じ込まされていた訳だろ?なら気分だけでも子供からやり直した方が良いんじゃ無い?」
「裸になって女の前で赤ん坊のフリか?」
「それは趣味じゃ無い」
「俺も金払われたってやらないね」
 久しぶりに笑った。後でこの会話の内容をレポートしないといけないことがさらにおかしかった。
 鈴木の風体は悪さが好きそうには思えなかった。背丈はそれなりに170ぐらいはありそうで、筋肉質な体つきはしているが鍛えている訳でも無さそうだ。だが、この病院で目が覚めた時は眉が細く、髪型は派手な色に染めていていかつかったらしい。これが俺の顔だと認識して違和感はなかったが大して維持したい姿形ではなかったために勝手に髪や眉を伸びるまま伸ばしては切ってを繰り返して穏やかな雰囲気になったらしい。年齢は俺と近そうだった。年齢の割に若く見られがちなので軽くあしらわれがちな俺にも対等なやりとりをするので好感が持てた。
「退院したらどうするの?」
「何も決まってない。とりあえず仕事探すしか無いよな。前に付き合いのあった奴らは信用できないし、また会ったところで欠けた俺の記憶を利用して騙す奴らが多いんだろうし」
「それはヤバイね。まわりは敵だらけだ」
「間山くんも気をつけな。過去の自分も友達も信用しちゃダメだ」
「そこは問題ないよ。元々の俺は誰も信用していないし、嫌いな人間の方が多い気がする。だから、誰にも信頼されてない。悲しい話ね。鈴木くん並みのタフさが欲しいよ」
「だから、過去の自分に捉われすぎるなって。どうにかなるから」
 朝食後の自由時間が過ぎたので建物の裏の方からチャイムが鳴った。俺は鈴木と別れ病室に戻った。

記憶装置「ソイル」の視聴覚検証
俺は「救い」を求めて本を読んでいた。哲学書や心理学書、科学書など手当たり次第に読んでいた。だが「救い」は見つからなかった。読んで行く内に探していたのは俺の理解者で俺を肯定する存在だと分かった。つまり、極めて俺に近い誰かだ。あらゆる読書体験は俺を救済する方法論的な細分化と「救い」とは何と言い換えられるかという意味の量産になり、次第に身体や精神に対する物理的な手段と方法の収集に変わった。こうした細分化は「救い」が必要であった俺を希釈し、元あった姿を捉え難くし、事の始まりが一体何だったのか分かりにくくさせた。つまり自分自身の否定を意味していた。知識を詰め込んで、知識のない時の俺を忘れていっただけとも言える。だから、救済者として自分自身がもう一人現れて、俺を肯定したとて俺は「救い」が必要だと思わせた世界に肯定はされない。「救い」を求める行為は俺を世界の端っこに打捨てた世界に入るための試験を受けたいと望むようなもので端っこにおいたことは無批判だし、そもそも俺が見ているものから逃げるための場所を与えることのできる人間は、とても打ち捨てた人間に近い連中なのだからそれもまたおかしい。どうにかして今も生きているのだが、「救い」を求める行為がとても無駄なことであると思い始めて途方に暮れている。求めること自体が愚かだったのだ。言葉によって新たな考え方を認識するためにこれまでの知識は役に立っているが、「救い」や「俺」を否定することに自覚的であるように迫られる結果になった。平日の昼間にこうして恨み言めいた想念を頭の中で繰り広げながらいつもの道を歩いている。通り過ぎるカップルが数年前の俺であってもおかしくないが、物書きの真似事をしている人間がのんきなデートを彼らと同様楽しめるとは思えない。そんな風にふと別の人生を考えるがそのような人生が楽しいと思える選択はきっと人生の最初、産まれて親に育てられるうちに見てきたものの世界やその中で良いと思われるものへ価値を付けられた時からすでに始まっていたし、勝手に開始されていたんだろう。逆に言えば俺が楽しいと思えることを彼らは楽しいと思わないはずだ。未だに彼らの会話に聞き耳を立てるが、それは彼らとは全く違う選択によって自然ととってしまった反動的な行動でしかない。若さへの渇望とは違い、俺が感じてこなかった楽しさがあまりにも多くあることに圧されているだけだ。彼らは俺がこんなことを考えているなんてことも思いもしないはずだが、俺の存在さえ目に入ったことはないはずだ。楽しさは誰にだって共通して彼らと俺の中にはあるが同じことを指していない。彼らの文脈に俺の望むものはないし、俺が欲しいものを彼らは欲しがらない。分かり合いたいと思っても俺が理解して楽しみたいからに過ぎない。楽しめなかった苦しみをぶつけるようなものだ。結局ルサンチマンでしかない。俺が楽しみきれていないだけなのだ。俺は今とても疲れている。あの路地裏にあるラーメンが無性に食べたくて仕方がない。エビのスープにフランスパンが付いている。特に食に興味があるわけではないが、うまいものは食べたい。数年前に別れた彼女に連れていかれて初めてそんなうまいものがあることを知った。あのこってりしたスープをたくさん飲みたい。

 人間の脳の中で使われる言葉はほとんどが直感的で反射的に浮かんでは消えるので、常に何らかの言葉が頭にあるように感じるのは間断なく何かに反応し、記憶を反芻しているに過ぎない。過去のある時期俺はよく散歩しては頭の中で遁世的なことを考えていた。だから何かしらのきっかけがあり、それによってこれまでの人生と符合することを反芻していた。医者が言うには「これ」を視聴し続けていれば空白の時間に俺が何をしていたか思い出すかもしれないそうだ。「これ」というのは頭から引き抜いた電子生体記録機、通称「ソイル」に記録してある俺の記憶を映像化、音響化したものだ。脳に入れても問題が無いナノミクロンのサイズなので引き抜いた後には失くさないように直径十二センチのディスクに接続されている。まさか生きている間にソイルを取り出す事などあるとは思っていなかった。それに、思い出したところで、ろくな人生じゃなさそうだと思っていた。中肉中背で特に見栄えのいい顔立ちでもないし、この病院で目を覚ました時に着ていた服は着古した安い大量生産品だった。しかし、この遁世主義者にとってはもし生き続けるのなら、今の俺の状態が一番良いかも知れない。少なくとも俺は彼が知らなかったことを新たに楽しむチャンスがある。それは輪廻転生と近い。だが、全く完全に異なる個体になる訳ではないし、ある程度彼の近しい人間と今後出会うことになるかもしれないのだから、彼を理解し、代弁する準備は必要だ。だが、彼が過去の俺だということには未だに納得できていない。共感はできる。特にルサンチマンはこの研究室兼病室にいても感じることが多い。医者や管理者への恨み節は頭から離れない。それらが起因した行動で今の俺があるのだろう。少なくとも行動の種にはなったはずだ。そして履歴書やSNSのプロフィールからは俺は何者でもない、若くもない、特に親しい人間がいるわけでもない、善良でありたいだけの市井の人間だ。俺は同時代人に比べよりまともだったという自負はあるようだし、だから、まわりがおかしいという感覚が強い。家に置いてあった書物についてのわずかな記憶を辿ると哲学や文学、社会学に関する本を持っていたことが分かる。それらの本には著者や研究者がいて、読者がいる。彼らは社会を何も変えられなかった。知識は伝播したが、理にかなった方法は見つけられず的外れの言動が広がっただけだったようだ。だが俺は分かっている。今の俺には高校生までの記憶と習慣的な長期間の学習で得られた記憶しかないが分かるものは分かる。世の中は選りすぐり積み重ねられた優れた知識で動くのではない。少し気持ちよくて、ほんの少し刺激的な何の核を突くこともないが、わかったような感じで共感できる選択の積み重ね、言わば下劣な決断の集積で成り立っている。つまりは下劣な人間たちを蔑むことなくやり過ごし、教養を与え、下劣であるが故に教養の無さにつけ込んで人生を転落へ導くことを迷いなく行う人間によって成り立っているということだ。だが彼はそちら側の人間ではないようだ。だから少し歪んでいる。行う能力はあっても立場が伴わなければ、何もできずに悶々とするばかりに違いない。全ては頭の中でしかおきない。いや、むしろ頭の中にあるものは何もしないまま、誰にも語らなければいずれは消えて行く。そうなんだ、彼の考えている事には理解を示せるが、彼そのものを分かった気がしない。知識そのものは人の間を行き交い、広がり、誰かが理解し、伝える限りは生き続ける単なる装置に過ぎない。彼が何か行動を起こさない限り誰にも彼のことは理解できない。記憶の中の彼はこれから何かをしでかしそうなのだが、その計画は俺にも腑に落ちることなのだろうか。
 俺は「ソイル」の視聴覚検証について報告書をしたためた。特に決定的な行動については見つけられなかったが見つけられなかったことを報告する必要があった。何の特徴もない自分自身についての報告ほど虚しいことはない。白く塗装された清潔さを強調した部屋の窓からは誰もいない庭が見える。散歩用の遊歩道には等間隔に植えられた街路樹が影を落としている。俺の病室からは塀の外を走る車の音はかすかにしか聞こえない。木の上に止まった鳥が虫を食べる音が聞こえそうなほど静かだ。報告書を書いている時にたまにやって来る医者や看護師との会話は退屈すぎる。彼らの聞くことはマニュアルが透けて見える内容ばかりだ。「御気分は?」とか「外出はしましたか?」とか回りくどく俺の体調をそれとなく探ろうとする。彼らは俺の病状を常に把握したがっている。日常生活については問題ないのだが、精神的な窮屈さは耐え難い。鈴木と話すようになって俺が置かれた状況が理解できてからは病院の外に出たって、この窮屈さは変わらないんじゃないかと何となく感じている。
「鈴木くんの退院はいつ頃決まったの?」
「二、三週間前かな」
「回復したって?」
「その辺がよく分からないんだ。世の中のことがどうなってるのか理解できてからは、早く出たくて仕方なかったんだけど、それでも一向に退院の話が医者や看護師から出てこないもんだから、早く外に出て仕事がしたいって社員に申し出たんだ。そしたら退院の流れになったんだ」
「ずいぶんいい加減だね」
「まあな。そのおかげで次の仕事が見つかったから、助かったよ」
 やっぱり鈴木は世渡り上手な男だった。社員と建物の中ですれ違うことはあるが、あまりこちらの話に耳を傾けてくれそうな雰囲気は感じられなかった。次に予定している会議の時間や経費の話を看護師長たちと話しているところを盗み見たことがあるがとてもビジネスライクな会話で少しの冗談も挟む余地はなさそうだった。
「間山くんはソイル入れたの高校からだろ?」
「そうなんだよ。だから変な感じ。何かしら表現できそうな知識があっても言葉が出てこないことが多くて。会話しててフリーズすることがよくある」
「俺とはそんなことないじゃん」
「複雑なこと話さなないからね」
「そりゃそうだな」
 思い起こせる範囲で最近の「ナマの」記憶は今から二十年以上前、俺がまだ高校生だった頃の記憶だ。受験勉強を控えていた俺がソイルを頭に入れる手術に向かうシーン。傍に親族がいるのは分かっているが不安で目を動かせず手術台からじっと見上げた天井の蛍光灯をよく覚えている。ソイルは高価な代物だったが、ソイルを入れた同級生たちとの学習能力の差が如実に表れていくのを実感し始めており、進学するために必要な道具としてソイルを使わないなんて選択肢は俺になかった。ソイルの利用者が広まるのもすぐだった。若かった俺は危機感を感じて流行りに遅ればせながら乗った。周囲への漠然とした嫉妬心がきっかけで俺や人類は頭を壊し始めた。そして、この病室で目覚めた最初の記憶は新しいソイルを入れましたとの看護師の報告だ。
 いつものように味気ない薄味の朝食後に歯に挟まった魚の骨を指で引き抜こうと苦心しながら柵のそばで佇んでいると鈴木が社員の一人と談笑しながら庭に入ってきた。鈴木はチェックのシャツにジーンズの出で立ちで片手にはダウンジャケットを持っていた。ここに運ばれてきたのは冬だったらしい。もう片方の肩には荷物が詰め込まれたリュックをかけている。社員とはとても仲が良さそうで、話しながら笑いが絶えない様子だ。社員は鈴木と握手をすると病院の中に消えていった。
「もしかして、今日退院なの?」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「知らないよ。さっきの人?助けてくれた社員さんて」
「そうそう。今後も世話になるから、愛想よくしとかないとな」
「で、どうすんのこれから」
「しばらくは助けてくれそうな友達のところ顔出すかな。あんまり深刻になるなよ」
「なってねぇよ。いつのまにそんな準備してたの?全然そんな感じださなかったよな」
「いや、別にできてないし。どっちみち今動いてることに追いつこうとしても追いつけないしさ。ビギナーズラックに頼るしかないと踏んだまでだね」
「二の舞になっても?」
「同じかどうかは俺らには分からないだろ。そんなこと気にしたところでしょうがない。どのみち同じ体に同じ脳なんだ」
 連絡先を聞いておけばよかったと思った時には遅かった。鈴木は本数の少ないバスがもうすぐ着くと言って、門扉の前にいる警備員に会釈すると颯爽と病院を出て行った。騙された気分だった。今後も良き相談相手として繋がりを保ち続けられると思っていたのだ。ちょっとしたことだが俺には依存心が強いのかもしれない。もともと人から優しくされるということ自体、稀だったのだろう。鈴木のことは何の疑いもなく俺への思いやりから声をかけてくれたのだと思っていた。ところが、鈴木は鈴木で話したかったから話しかけたのであって、俺が何を思っているかどうか何てどうでも良かったのだ。だらだらしているようで先を考えて手を打っていたなんて抜かりない奴だ。とはいえ、眠っているところへ水をかけられたように緩んでいた気分が引き締まった心地でもあった。俺は頼るものもなく、何もかも新たに始めなければならないのだ。
 病室の外にある庭は中世フランスの幾何学式庭園で刈りそろえられた植木に囲まれており、中心にはそれらを見下ろすように円柱が立っている。俺の他に二、三人うつむき加減で歩くか、所在無く腑抜けた顔で立ち止まっている。俺はこの病院にやってきてからというもの鈴木としか会話していなかった。今の所俺には急いで病院を出る理由はないが、代わり映えしない日々の生活に飽き飽きしていた。俺はもっと別の見方が出来る人間を求めた。中でも一番絶望していそうな奴の方が真っ当なような選択な気がした。最も絶望している奴ならこの空間のことをよく知っているはずだし、快活さを失った理由が長期間の拘束により外に出る望みがないからという場合なら、それについても事情が聞きだせるはずだ。とにかく情報が欲しい。俺は庭を歩いている老若男女に目をやった。植木の日陰になっているベンチに初老の男が腰掛けていた。男はシャツの袖やパンツの尻部分は黄ばんでいた。俺は向かい側のベンチに腰掛けてしばらく観察した。初老の男は何やら聞き取れないくらいの声でぶつくさ言っているが、ため息が混じるせいで何を言っているのかはっきりしなかった。その姿は誰かしら決まった相手に話しかけているようにも見えた。
「な?」と男は発したので不意を突かれ、さっきまで横目にちらちら見ていただけだったのに意を探るように男の顔を直視してしまった。
「え?」
 男は再び独り言を始めた。俺は話し相手に選ばれなかったようだ。男の目は周囲に飛び回る蚊がいるかのようにあちらこちらを見て忙しない動きだ。男の抑揚には周期的なリズムがあった。先程の「な?」が周期の終わりに位置していた。視線が合わないように避けていたが、威圧感がしたので恐る恐る男の視線を見ると俺ではなくあさっての方向に向いていた。俺以外の誰かを見て仕切りに懺悔している。頭を上下に振り、または同じ問いを振り払うかのように。男がどんな経緯でここに来ているのであれ、俺と同じようにちょっとした記憶の断片について反省し続けているのかも知れない。俺には自分を裁く強い道理も罪を犯した記憶もないが、担当医に執拗に尋問を受ければ話は別だ。彼らのそぶりからは適当にやってるようにしか見えなかったが人によっては拷問の類いを受けることがあってもおかしくはない。俺は焦燥感を覚えた。男は少なくとも言葉を発しているのだし、もしかしたら、彼の置かれている状況を聞き出せるかもしれない。あまり期待はできないが。
「失礼ですが、あなたはなぜここに来たか覚えてますか?」
「娘が心配だった事は確かなんだが、目の前には妻と娘の死体があった。死体の場所と俺が倒れていた場所は別の所だった。残っていたデータはその他に酒を飲んで夜道を歩いているシーンだけだ。俺は娘と妻を殺していないよな?」
「私には分かりません。私は何故ここにいるのか今もってわからないんです。あなたはいつからその問答を繰り返しているんですか?」
「自分の事で分かる感覚は仕事への勤勉さや日々の生活における几帳面さなんだ。君も真面目そうだな」
 この男の都合の良い話し相手にはなりたくない。俺は少し語気を荒げて言った。
「私が何を言っているか分かりますか?あなたは何故ここにいるんですか?」
 男は目を見開き、口を開けて狼狽の体だが、実際俺の声が頭の中に届いているのかどうかは分からない。痴呆のようだ。
「居ても立っても居られなくなって、妻と娘への謝罪の手紙を書いた。何故か分からないが俺の中に彼女たちへの義務感があった。俺が殺したかどうかなんて分からないのに書き殴った」
 男はポケットから折り畳んだ紙を取り出し、自分の膝の上に叩きつけた。このままじゃ埒が明かない。どの道再び同じセリフが繰り返すのだろう。
「あなたはまだ外に出られないんですか?」
「俺はあいつらにまた会いたいんだ。どうしたらいいんだ。な?」
 男は立ち上がって俺の肩を揺らして言った。怖くなった俺は反射的に男の腕を振り払ってしまった。男は床に跪くような形で地面に手をついたが、ゆらゆらと立ち上がってブツブツ呟きながら歩いて行った。膝から落ちた紙はノートの数ページを引きちぎって書いた手紙だった。俺は手紙を拾いあげて男を呼んだが何の反応もなかった。
 今日の報告を書き終えるとドアに備え付けてあるボックスへ入れた。念のため男の話は書かなかった。男は外へ出たがっていた。掛け替えのない存在が彼自身を追い込んだとも言える。幸運なことに俺にはすぐに外に出る理由がない。娘や妻という言葉に少し掻き立てられたが、それは元々の言葉が持つ観念だろう。幼少期の記憶もあるにはあるが、特定の誰かが思い浮かぶ事はなかった。女性の持つ美しさが断片的に想起されただけだ。触れてみたいが触れられない肌。女性を思い浮かべる事が憎しみと分かち難いなんて、俺はどんな人生を送ってきたんだ。若い頃の俺にはいい思い出は一つもなかった。女性との関係は後悔しかない。死んでも良かったのだろう。だから、俺は自暴自棄になった。そして、記憶を失った。誰かへの八つ当たりで反撃されたか、もしくは自殺?それにしても体は無傷だった。失敗したなら何故こんなところへ?俺は一人部屋の中を月明かりに照らされた円柱を見ながら行ったり来たりしていた。何かの違和感を感じ取っていたのかも知れない。薄ぼんやりシルエットが見える円柱に動く影が見えた。影は円柱の上方へ動いている。さっきまで疑心暗鬼になっていた俺は自分の目が信じられず、人を呼ぶ気は全然なかった。俺はもっと目を凝らした。昼間に会った男が円柱の頂上に立っていた。ナースコールを押す前に影が放物線を描いて落ち、鈍く重い音が庭園から聞こえた。
 この施設の食堂では無料だ。これはとても重要なことだと俺の脳の片隅が訴えていた。お前は食うに困った貧乏な人間だと言っていた。トレーの上にあるのは精進料理ほどのものでまずくもなくこれと言って特徴的な味であるわけはないが、俺は満足だった。食事にこだわりがない。これも俺の記憶の一つだ。今の所は腹が鳴った事は一度もない。胃袋に収めたらここには要はない。食堂の中にはまだ食事中の人間が多くいたが、俺は真っ先に立ち上がって、食器を返却棚に置いた。昨日の騒ぎが夢だったかのように静かだ。だから、聞きなれない靴の音はとてもよく聞こえた。スーツ姿の男が部下らしき男を引き連れて食堂の中に入ってきた。食堂のカウンターでキッチンにいるおばちゃんと親しげに会話した後、席についている全員に向かって言った。
「ここで暮らしていた柳井寛さんが昨日亡くなられました。つきましては事情聴取が行われます。本日の外出は控え、呼び出しの際には必ず来ていただきますようお願いいたします」
 室内はわずかにざわめいた。もちろん死んだ人間がいるという驚きの方ではなく、庭に出ることが許されないからだ。食堂を出ようとしていた俺はスーツの男たちの後を追うような形で食堂を出た。先ほど喋っていた男が俺の気配に気がついて振り返った。
「ああ、間山さん。あなたはお呼びしませんので外出しても良いですよ」
「え、いいんですか?でも、周りの目もあるし」
「そうか。確かにそうですね。第一発見者のあなたには昨晩十分ご報告いただきましたし…、では窮屈な思いをさせてしまいますが、部屋でゆっくりお過ごしください」
 去りかけた男はもう一度振り返り俺に言った。
「ちなみに今日は通夜に参加なさいますか?」
「一度も話した事がないのに通夜に行くのは変じゃないですか?」
「いえ、少し迷信じみていますが、昨日のことがありますし、亡くなった方にご挨拶したら気持ちがすっきりするのではと思いまして」
「そうですね。どうしようかな…」
「では後ほど執り行う部屋と場所のご案内をお送りいたします。気が向いたらお越しください」
「わざわざすいません」
 余裕のある会釈で江沢と書いたネームプレートをつけた男は部下と去っていった。何故かわからないが俺は躊躇してしまった。そもそも俺は人そのものが苦手なのかもしれない。
 部屋の窓から誰もいない庭を見た。柳井寛が落としていった手紙を俺はいつまで持っていよう。じっくり読むのは気が滅入るので何となく中身を飛ばし読みをしたが、妻と娘への懺悔が書いてあった。頭がおかしくなったのかと思う様な人でも書き言葉になると常識的な内容になることは珍しくない。柳井はまさしくそのタイプだった。自殺そのものについては言及していないが、読みようでは遺書としても理解できる内容だ。誰かが柳井の死について事件性を疑っていたとしたらこの手紙があればその疑念はなくなる。会話がなかったと言ってしまった手前気がひけるが仕方がない。落し物を拾っただけだ。落し物を拾うことは柳井との会話を根拠づけはしない。思い悩む種を残しておく理由はないのだし誰かにそれとなく渡そう。
 夕方になり女性の看護師が何かしらの冊子を持って来た。彼女は通夜会場の案内ですと言った。俺は通夜の事をすっかり忘れていた。というよりこの辺で通夜ができるとは思えなかったし、するならテントでも作るのだろうと思ったが誰も動かないので結局通夜のことを考えなくなっていた。
「通夜ってどうやってするんですか」
「といいますと?」
看護師は俺の言葉に面食らったようで何を聞きたいのか分からないようだった。俺は俺で聞いている内容があまりにも子供じみていて恥ずかしくなった。
「いや、その、ここにそんな場所あるんですか?それに外には何もありませんよ」
「間山さん、ちゃんとこれ見てください」
 冊子には簡易な地図があり、隅にある庭から中心にある通夜会場への経路を示していた。通夜会場の建物は俺のいる「病棟」と思っていた建物と繋がっていた。「病棟」は想像していたよりも大きな建物の一部だった。
「行き方わかりました?」
「私のいるこの場所は一体何なんですか?」
「この施設はライヴレイジが運営している病院です。前にもご説明したかと思いますが」
「ああ、確かに、そういえばそんなこと聞いたかもしれないな」
 俺は全く聞いた覚えがなかったが、頭の不調を疑われないように適当に嘘をついた。看護師は怪訝そうな顔をしていた。
「もう一度説明した方がいいですか?」
「いや、大丈夫。これ見ていけば良いんだし」
 やはり看護師は別人と勘違いしている。
「やっぱり、私は何の説明も受けてません。あなた、誰かと勘違いしています」
「そんなことありません。確かにお話ししました」
「ならいつですか?」
 看護師は小型端末を取り出し、作業記録を確認した。所作が止まり何か言おうと考えているようだ。
「すいません。隣の部屋の方と間違えてました」
「自信たっぷりだったのに」
「ですが、間山さん、何で知ったふりしたんですか?感じたことは率直に伝えてください。異常に気づきにくくなります。それは間山さんのためにはなりません」
「すぐに言ってたら異常扱いになるところだったんですね。それなら知ったふりした方がいい」
 多少声に怒気を孕んでしまい余裕のない俺の卑小さを恥じたがすぐに抑えられはしない。
「間山さん落ち着いてください。ストレスを強く感じるのは分かりますが」
「そんな簡単にコントロール出来ませんよ。来る日も来る日も同じことしてるんですから」
「お気持ちはわかります。私たちも出来る限り間山さんのために尽くしますので」
 看護師の持っていた端末のアラームが鳴った。素早く手に取ると看護師は会釈をしてすぐさま俺の部屋を出て行った。
 時間になり、通夜の会場に向かった。庭園を横切り、突き当りを右に曲がっていくと俺が寝泊まりしていた部屋からは死角になって見えなかった位置に会場の入り口があった。受付が恭しく頭を下げたが、視野が開けたので奥の方まで歩いて行った。ホールは外の通りに面しており、直接車が入って停車出来る駐車場がそばにあった。俺が生活していた場所はこの建物の中心ではなかった。ある病院の中で特異な例を受け入れる少数の部屋を割り当てられていたのだと思っていたが、どうやら俺のような人間だけがいる場所らしい。駐車場の奥のガラス張りのビルにはスーツ姿の男がビルの廊下で立ち話をしたり、高層階で重役たちが会議を行っているのが見える。一階の大きく開いたシャッターのそばではトラックの荷下ろしをしている。広く一般の患者を受け入れているようには見えなかった。建物の最上階に当たる壁面には企業のロゴの隣に『Live Rage【ライヴレイジ】』と書いてあった。
「どうかなさいましたか?」
「ああ、いえ。ここが何なのか気になって」
「ソイルを作っている場所ですよ。多分あそこでアップデートの会議をしているんでしょうね」
 受付の男は会議室を指差した。俺の指に軽く握られていた案内の紙を受付の男が引き抜いた。
「患者さんだったんですね。最近服が変わったみたいで分かりませんでした。どうぞお入りください」
 促されるまま室内に入ると部屋の奥に柳井の棺があった。俺は参列者の行列に加わった。参列者たちは棺の前で待ち受ける親戚と思しき人間へ次々に頭を下げていた。友人や知人が多い人間のようだ。それなりの役職に就いて働いていたのだろう。この中にいる人間が死ぬ前の振る舞いを見たら目を疑うだろうな。喪服姿で待ち受ける中に十代の女性とその母親らしき女性が並んで立っている。
「同じ病棟の方ですか?」
「はい。まさかこんなことが起こるとは」
「主人は何かおっしゃってませんでしたか?」
「主人?柳井さんは旦那さん?私は挨拶程度にしか言葉を交わしていなくて」
「そうでしたか。すいません」
 俺はまだ何か言いたそうにしていた柳井の妻を無視して前の参列者に続いた。妻と娘は生きていた。では柳井は誰のために死んだんだ。誰に悩まされていたんだ。俺は会場の椅子にもたれかかり、何が起きているのか考えようとしたが、頭がよく働かなくなっていた。わずかに俺は動揺していた。気がつくと物憂げな表情の柳井の妻をじっと見ていた。
 読経が終わると弔問客は一人また一人と会場を出た。俺はまだどうしたらいいのか分からないでいた。この状況はもはや俺だけの問題ではないのかもしれない。柳井は確かに自分の記憶に押しつぶされていた。だがそれは正確な記憶ではなかった。過去の記憶を勘違いしてしまうことはよくある。だが、俺や柳井がここにいるのは「ソイル」がかすかな断片を残して壊れ、ほとんど「ソイル」を使う前の記憶や日常的な動作の記憶しかないからだ。脳に埋め込まれたデータを頼りにしていたのにわずかに残ったその記憶さえも疑えというのか。いやいや、俺はここから出られるかさえ分からないのに他人の心配なんかしてどうなる。だが、それは俺のデータも疑わしいということでもある。柳井の妻がこちらにやってきたので、気持ちの整理がつかないまま、俺はポケットに忍ばせていた封筒から柳井の手紙を取り出した。
「何か主人のことでご存知のことがあるんですか?」
 俺は黙って柳井の手紙を渡した。人に手渡すことを考え、しわをなるべく伸ばした数ページのノートは柳井の妻が握って再びしわくちゃになった。柳井の妻の表情は胸元まである髪で隠れて見えなかったが頭が微妙に揺れている。柳井は意味もなく罪悪感を抱いて死んだが、妻にとって夫が罪悪感を持つのはもしかしたら少しは望ましいことでもあるのではないだろうか。妻子を傷つけていない夫はきっといないはずだ。俺の少ない女性経験や家族観がそう告げた。俺は柳井の妻の涙が一体何を意味するのか計りかねた。それは経済的な損失や家族内の権力的なバランスが失われること、もしくは長年連れ添った人がいなくなるという習慣の断絶、もしくは愛する人を失ったことによる喪失感かもしれない。どれでもない気もするし、全てなのかもしれない。いずれにしろ推測ばかりだ。女の事なんか一度だって理解できたはずがないんだから。
「これは本当に夫が書いたものなんですか?宛先もないし、署名もない」
 柳井の妻は目に涙を浮かべていた。だが、俺への怒りのようなものも含まれているようだった。
「それは私に託されたものではなくて、落し物なんです。旦那さんはとても思いつめて錯乱していたようでした」
 柳井の妻はノートを握り潰すようにくしゃくしゃにしてしまった。
「もっと早く教えてくれれば良かったのに!」
「待ってください。拾ったその晩にあんなことになってしまって。旦那さんは私が声をかけても何も反応がないし、どうすれば良いか分からず…」
「どうしてなの」
 柳井の妻は俺のことなどどうでも良くなっているようだった。手のひらで顔を覆い、涙を拭っている。
「ちょっと聞きたいことがあるんですが」
 柳井の妻はまだ泣いたままだ。
「旦那さんは何であの施設に入っていたんですか?」
 柳井の妻はヒックヒックさせながら喋った。
「あの人は、事故に遭って入院しました。骨折だけだったからその内出てくると思ってたのに」
 俺は柳井の妻が落ち着くまでしばらく何もせず隣に座っていた。何か言葉をかけようにも何も思い浮かばなかった。そこへ葬儀屋のスタッフが声をかけてきたので、俺はその場を辞した。去り際に柳井の妻へ頭を下げたが、まだ目元を押さえていた。柳井の妻はいい香りがした。香水の香りだった。人前に出ることが多い人間がするさりげない香りだ。体のラインがはっきりしており、ひざ下から覗くストッキングは俺には毒だった。久しぶりに会話した看護師以外の人であり女性だった。素直に言うと俺は柳井の妻とやりたくなった。俺はこの施設に来てから初めて女のことを思いながら自慰に耽った。
 俺は液晶テレビの電源をつけ、ハードディスクに記録された映像を再生し、日課である視聴覚検証を始めた。色欲と言うのはすごいもので、今日は今までと違い、何か気持ちがすっきりして新たな発見があるかもしれないと思った。記憶は歩道を歩くシーンから始まる。気の抜けた普段着だ。ちらほらと人が出入りしている公園に入る。ぼーっと考え事をしながら公園を歩いているところでカップルが通り過ぎる。一見カップルをちらっと見たように思ったが、フォーカスは女性の方に合わせようとしていた。俺は女性を見ていた気がする。女性を見ることが単に目の前にいる女性を見ていると言うのではなく、記憶の中にいる誰かを思い出して見ているような感じだ。懐かしく思い、また後悔しているような。俺は記録用紙に今考えたことを書き残すと再び再生ボタンを押した。瞬時に頭に思い浮かんで誰に伝えるでもない言葉が音声化される気恥ずかしさは耐え難い。おそらくあの路地裏にあるラーメン屋に行ったのは思い出していた女性に誘われたからかもしれない。残り数秒で終わる時、清掃員の男と目があった。彼は俺のことを覚えているだろうか。清掃員の目は訝しそうだった。白髪混じりで中年の痩せた男だった。映像はここで終わる。この後、俺に何かが起き、施設へ運ばれた。俺は看護師に聞いたことがあるが、ただ、気を失っていた事しか分からないと言っていた。
 俺は記録用紙に推論を書き殴って興奮したまま看護師が集まる部屋へ持って行った。勢いよくドアを開けたせいで中の奴らはびっくりして俺を見た。
 看護師たちは何やら作業中のようで誰も記録用紙を取りに来なかった。俺は近くにいた若い女に無理やり渡した。女は躊躇しながらも俺の発見を落ち着いた様子で読み進めた。俺の考えがどうかなどどうでも良い感じだ。
「間山さん、とても良く書けていますね」
「何が良いんですか。俺の記憶はまだ戻ってないんですよ」
「私たちの仕事は間山さんの脳の機能が正常かどうか診る事です。残念ながら記憶を取り戻させる力はありません」
「は?医者は記憶が戻るかもしれないって言っただろ?」
「あくまで奇蹟的にです。先生には希望を持たせることは言わないようにと言ってるんですけど」
「じゃあこれは、何のために」
「それは脳の機能障害を確認する一環です」
「柳井ほど正常さに欠けたやつはいなかっただろう」
「ん?柳井さんについて何かご存知ですか?」
「いや…、自殺してるんだ。正常じゃないに決まってる」
「確かに柳井さんについては把握しきれませんでした。しかし、毎日、報告書を読み、患者さんの…」
「もういい。分かった」
 後日、俺が退院だという報告を受けた。退院だと?全く基準が不明確だ。自室に戻ると夕暮れの日差しで円柱が部屋を覆うように影を落としていた。机の上には形式張った退院手続きの書類が置かれていた。書類に挟まっている簡易的な用紙は明日の朝退院だと告げている。これからの生活についてのパンフレットも挟まれており、それなりの分厚さがあった。
 俺は少しばかり握ったところで開くのを諦め、寝巻きとバスタオルを持って部屋を出た。この施設で入る最後の風呂だ。いつもは食事の後、そのまま浴室に移動していたが今日は逆だ。浴室は共同スペースでシャワー一人分の仕切りは二十人分ある。広さには満足しているし、いつも清潔に保たれているから申し分ないが、湯船が狭いせいで先に入った人間が出るまで入れないことが多い。今日は早めに来ているし、いつもの混み具合とは違うだろう。
 脱衣所は閑散としていた。入ったのは俺が最初かもしれない。脱いだ服を入れる籠はほとんどが空だった。焦る必要はないのだが、服を籠へ投げ入れ、中へ入った。一人俺よりも歳食った四十代くらいの男がシャワーを浴びていた。運悪く俺が体を洗い終わるタイミングで男は湯船に入った。俺は男の視界に入らないように隅の方で湯船に浸かった。そいつはずっと独り言を言っていた。六年前に来た時と変わっていないと言っていたのが耳に残った。
 食堂で目の前にあった皿を取り手当たり次第に料理を盛った。周りの連中には今までの分を取り戻そうと食い意地を張ったように見えたかもしれないが、単純に必要な気がしたからだ。明日のことを考えるのがたまらなく不安だ。休み休み俺は山盛りになった煮豆と正方形に切られた焼いた肉を口に入れると廊下で男女が歩きながら話しているのが見えた。一人は江沢でもう一人の女は見覚えがあるがはっきりしなかった。俺は口に料理を入れたまま立ち上がって二人に近づいた。女は柳井の妻に似ていたが、髪が短くなっていた。
「柳井さん?」
 俺の声に柳井の妻はぼんやりした表情で反応し、こちらを見るなり小首をかしげた。
「あ、間山さん、面識がおありで?」江沢は少し驚いた様子で聞いた。
「ああ、…この間の通夜で挨拶しただけですが」
「通夜?」と柳井の妻は言った。
「柳井さん、出口はこちらです。間山さん、退院おめでとうございます」
「どうも、ありがとうございます」
「食事は席についてしてくださいね」
「ああ、すいません」
 俺は急いで口の中のものを飲み込んだ。
「柳井さん、行きましょう」
 柳井の妻は去り際に振り返って軽く会釈をしたが、釈然としない様子だった。一夜で俺のことを忘れたのか。あのどこか気の抜けた表情は柳井が独り言を言っていた時にも似て不気味さがあった。
「間山さん、どうされました?」
 看護師に促されたので静かに食事を続けながら廊下の方を意識することなくぼうっと見つめた。柳井の妻に感じた色気はどこかへ行ってしまっていた。夫への思いはなく、今日の晩御飯の予定をいつものように考えられる余裕すらありそうだった。戻って来た江沢がこちらを見つめて来たので、はっとしてすぐに口に含んでいたものを飲み込んでしまった。江沢は軽く頭を下げて廊下を去って行った。
 突然看護師に起こされた。朝から社会のルールを総ざらいする予定らしい。ゆっくり昼頃出るつもりでいたのに、寝ぼけ眼で座学をする羽目になった。どこへどうやって帰ればいいか聞かれたが、自宅のイメージだけはできても具体的な手段が全く思い浮かばなかった。よく考えれば家がどこにあり、どうやってたどり着くのか全く思い出せなかった。
 ライヴレイジ周辺は新浜町という。家まではバスと電車で二時間、さらに最寄りの首石町という駅から二十分歩く。郊外の静けさからは都心部の喧騒がはるか遠くに思われた。着いた途端にめまいでも起こしそうだ。あっさりした看護師たちの見送りの後、バスに乗った。客はほとんどいなかった。ひたすら真っ直ぐ走った。ライヴレイジの周辺では新しい施設を建築中だ。密集した建物が縁取る地平線に向かってバスは走った。
 首石町の駅で人ごみに巻き込まれ、右往左往しているうちに気分が悪くなり、近くのベンチに腰掛けた。誰かに声をかけられたようだが適当に追い払ってしまった。しばらくして落ち着きを取り戻すと何かに導かれるようにして行った方が良いと思われる場所に向かって何となく歩きだした。改札口からすぐのエレベーターにたどり着くと上階へ向かった。どこからか漂ってくる油臭い料理の匂いや散らばったゴミや横たわる老人のそばを通り抜け、薄暗い汚れたビルの前で立ち止まった。この奥の階段が気になった。上着のポケットに入れてあった小型端末を取り出した。薄く小さな液晶画面に目的地の自宅が点滅している。首石ハイツはこの建物だ。古い建物で屋内の照明は少なく階段はとても暗かった。俺の部屋は三階にある。近隣からは怒鳴り声、女のケタケタ言う笑い声が聞こえた。安らかさとは程遠いホームタウンだ。ドアの隙間やドアポストに無造作に放り込まれた郵便物をむしり取って、家に入った。部屋の中からは食べ物が腐った臭いが漂っていた。すぐさまベランダを開けた。ベランダから覗く景色はこの建物のある土地と比べると低くなっており数キロ先まで見渡せた。当然ながら電気、ガス、水道は止まっている。机の引き出しに入っていた財布には数日食事には困らない額があったが、真っ暗な部屋で静かに食べるしかない。冷蔵庫の中は賞味期限切れのものばかりだったので、全て取り出してゴミ箱に捨てた。片付けの最中に暗い部屋の中で小さな灯りが目に入った。ラップトップはスリープ状態のままでかろうじて充電が残っていた。画面を開くとメールボックスが表示された。最近受信したメールの中で既読のものを開くと『世の果ては君と』という小説を家に五十冊配送したとの通知だった。メジャーな恋愛小説のようだ。コピーからすると舞台は終末的な世界で、話的には恋愛らしい。机の前に並んでいる本と比べると俺の趣味に合うものとは思えない。スパムらしい。何で五十冊も。これに引っかかる奴がいるとしたら相当なバカだな。他のメールは何かしらの購入履歴や給料の入金を知らせるものばかりだ。そうこうしているうちにラップトップの電源が切れた。俺は小型端末で電気、ガス、水道の復旧の相談を電話でしながら、ライヴレイジから案内のあった職業紹介所に向かった。ひとまず近々の月の分を支払ったら電気、ガス、水道は復旧することになった。
 職業相談に当たる担当者の役人たちはそれぞれ対応中で順番を待つ人間が座席いっぱいに座り、小刻みに動きながら立つ者や壁に寄りかかって役人をにらみつける者が室内の隙間を埋めている。俺は受付番号が印字された紙を手にして若い女が立ち上がった後すぐにその席へ座った。くたびれた服装の老若男女が行き来している。各自が苦境を語りながら希望の仕事を担当者に相談していた。誰が何を言っているか分からない程には騒がしかったが、中には相談した相手に怒鳴りつける男もいた。別に怒鳴っても何も変わりやしない。向き合っているのはただ日々のルーティンをしている人でしかない。結局は自分自身の人生と向き合うしかないんだ。人生について考えることほど辛いことはない。コントロールできるのは僅かのことなのに何故か全て自分で選びコントロールした結果のように自分でまとめあげて人に伝えなければならないのだ。その点は昔も今も変わらなかった。要するにわかりやすいフィクションだ。大きな歴史でいえば一見、知識の深さや人心掌握に長けた権力者や宰相が政治を推し進めたように見えても、本当のところは近隣諸国との外交関係や忠臣の進言や親からやりやすく導かれるまま従っていただけ何てことがままある。誰かの力や判断から逃れられる人間なんていない。人生なんて欺くことで成り立っている。感情的に怒り狂う人間は純粋さを求める馬鹿だ。とはいえ職に就けない人々が多い理由から自らの欲求を制御しきれないからというのを外すことは難しいし、その原因もまたソイルが発端になっているところは否定できない。俺はぼんやり考えている内にうたた寝していたらしい。担当者に声をかけられて不満げな顔で数秒見つめてしまった。既に周りの人間はほとんどいなかった。役人は閉業の時間を淡々と伝えて、番号が呼ばれたら早く来て欲しいと暗に示した。担当者が紹介する仕事のほとんどが化学工場での勤務だった。ライン作業や製造、生産管理や設備保全など、中でもすぐにつける仕事だ。辞めていく人間が多いのだろうし、どんな仕事か想像はつくが当座の資金が必要なので面接後に即日勤務できるものに応募した。生産管理アシスタントとしての夜勤のポストだ。手続きを終えて帰りがけに一日分の生活費を差っ引いてラップトップ用のバッテリーを購入した。途中で見られなくなったメールの中身がまだ気になっていた。
 手当たり次第に開くのは止めにして、最近の動向が分かるメッセージを探すことにした。全く無味乾燥な文書ばかりだ。同じ肉体の人間なのだから俺の行く末の可能性は大だ。件名が堅苦しくて自動配信の業務用メールと勘違いしていたが特定の個人から来ているメッセージがあった。伊藤瑞樹という人間からだった。「この間伝えた『世の果ては君と』の書評を書いてくれない?連絡待ってる」とあった。過去のメールを遡ると俺は「今人気の小説は?」と聞いていた。もちろん答えは『世の果ては君と』だった。ちょっと前に賞を受賞したらしい。となると俺があの五十冊を注文したことになる。伊藤瑞樹はライターで近頃、独立して自分のサイトでサービスを始めたらしい。やりとりから分かったのは俺が久しぶりに伊藤瑞樹とコンタクトを取ったということだ。その割に伊藤瑞樹が俺に送ってきたメッセージは好意を感じさせる砕けた書き方だった。メールを遡って確認していると新居に越したことを知らせるメールを見つけた。記載されたメールアドレスと住所をメモし、ラップトップを閉じた。過去を知る人間と会話ができる。クローゼットにかけてある良さそうな服を引っ張り出して着替え、もう一度部屋の中を見渡した。五十冊の本が収まりそうな箱はない。
 俺は近くのコンビニで手に入れたビールを飲んで気を紛らわせた。俺は警戒されるかもしれない。久しぶりに連絡をとった相手が突然家に来るなんて気味が悪い。記憶をなくす前の俺が親しかった人間と接触する折角のチャンスがなくなりかねない。頭を下げまくって、事情を説明する他ない。いや、だがむしろ相手はライターだ。俺が入院した経験を記事にさせて欲しいと言って売り込むのも良いかもしれない。だがそこは慎重に。語り過ぎず行こう。伊藤瑞樹のマンションはオートロックだった。部屋番号を押すと女の声がした。
「晃?」
「え?晃?」
「どうしたの?」
「間山です」
「いや、分かってるって。だから、どうしたの?…もしかしてあのメールの件?」
「そうだね…。そうそう。他にも話したいことがあるから」
「なるほど。しょうがないか。下降りるからちょっと待ってて」
 俺は晃という名前だった。呼ばれ慣れてないところで虚をつかれてしまった。相手は女か、俺は何も聞き出せないかもしれない。全くの想定外だった。ヨレヨレのスウェットの上下で現れた彼女は自動ドアが開くなり俺に抱きついて来た。
「何で連絡くれなかったの?どうしてたの?書評の仕事他の人に渡しちゃったよ」
 よく分からないが、俺は両手を棒のようにして八の字に開いている。
「ごめん。仕方なかったんだ」
「どういうこと?」
「長い話になるし、どこか店でも行こうか」
 女性の家だということを知り、とっさに金もないのにその辺のカフェでこれまでの経緯を説明しようとしたのだが、彼女が俺を部屋へ引っ張って行くので仕方なしにされるがまま歩いていると、そのまま家に入ってベッドに押し倒されたので、俺は興奮して二回も彼女を上にして果ててしまった。突然のことで俺は訳が分からなかった。女の体さえ知らなかったので俺は瑞樹に導かれるまま、触った方が良い場所と触り方を試した。たどたどしい俺の動きに彼女は満足できたとは思っていないが心地好さそうに首元に抱きついて来たので及第点だったのだろう。女嫌いで女性とのコミュニケーションに問題がある人間かと思いきやこんなかわいい子と親しくしていたとは過去の俺のイメージを少し変えなければならない。彼女を俺の胸の上に乗せながら、寝る前の子供に聞かせるように今までの災難について聞かせた。彼女は俺の肩の上に顔を乗せてうん、うん、それでと相槌を打った。興味がなさそうに見えた彼女をベッドから下ろし、俺は冷蔵庫を開けて、ペットボトルに入った麦茶を取り出して飲んだ。
「ちゃんと聞く気ないよね」
「聞いてるよ。かわいそう」
 瑞樹は俺をまたベッドへ引っ張って横に寝かせて、顔や体にキスをたくさん浴びせてきた。
「ちょ、ちょっと、待った。待った。こんなこと聞いて何だけど本当に伊藤瑞樹なのか?」
「何?何なの?エッチする相手ぐらいちゃんと選べますけど」
「そうだよな。ごめん。言いたいのは、俺はそれぐらい状況がよく分かってないってこと」
「これくらい優しくしてもまだ不安?」
瑞樹は俺を抱きしめて言った。目の前で頭の小さな裸の女の子が上目づかいでこちらを見ている。頭を撫でながら思わず笑みがこぼれてしまった。
「不安なんて吹き飛んじゃったよ」
「これからどうするの?」
「とりあえず、仕事探して、金作って生活立て直さないと」
「私との記憶は何一つ残ってないの?」
「ごめん。全く」
 瑞樹は本棚に収納してあったプロジェクターのスイッチを押し、ポケットから取り出した小型端末の画面をスワイプさせて保存してあった写真をプロジェクターから投影させた。仏頂面の俺と並んでいる瑞樹や海辺で寝そべる瑞樹、俺の寝顔、ヨーロッパのどこかの街で酒を飲んでいる俺と瑞樹の顔が白い部屋の壁に並んだ。瑞樹が撮影地でのそれぞれの思い出を語りはじめたので適当にうなずいて聞いているふりをした。俺の人となりを知るのには良いかもと思ったが二人が余暇をどのように過ごしたかを聞かされるだけだから、その辺のカップルののろけ話を聞いているのと何ら変わりない。写真二枚分の話で飽きてしまった。俺は瑞樹が物書きの仕事をしていることを思い出して、俺にとって喫緊の話題に話をそらした。
「そういえば書評はどこに載せるつもりだったの?」
「私のサイトだよ。見てみる?」
 瑞樹は「インタールード」というサイトを開いて、別の人間が書いた『世の果ては君と』の書評を表示させた。
「俺が入院した時の体験記は金になるかな?」
「運営して間もないサイトだし、大手企業で裏がありそうなライヴレイジを批判したらすぐ潰されちゃうよ」
「いや、そんな大げさなことはしないよ。良いようにしか書かないから」
「確かにその方がいいけど、晃の存在自体本当は周りに知られたくないんじゃないのかな」
「どうして?ただ、記憶を失って入院しただけなのに?」
「それだよ。晃は、政府系の仕事も請け負っている企業の欠陥になるわけじゃない。だから、広めて欲しくないと思う」
「そんなこと、俺には関係ないだろ」
「分かるけど仕方ないの。必要なのはお金でしょ?」
「そうなんだ。金がなくてやばい。電気、ガス、水道全部止まってる」
「それだけ?」
「そうだね。今の所は銀行から金を引き出すやり方もわからないし、借金があるかもわからないけど」
「なら、しばらくここで暮らしなよ」
「え?良いの?」
「遠慮なく。二人で住むにはちょっと狭いかもしれませんが」
 瑞樹の家は引っ越して間もないらしく、まだ箱に詰め込んだままの荷物があった。日中家にいないことの多い瑞樹は荷物さえ整理すれば俺の家にある最低限の荷物は出せるくらいのスペースがあると言った。瑞樹の部屋は1LDKほどの広さでリビングには雑然と並んだテーブルと二脚の椅子、ソファーが並べてある。買ってきたものをソファで食べてそのまま寝てしまうこともあるらしい。アパートの五階にある部屋からは高速道路の先にある工場地帯が小さく見えた。
「あのさ、別にやましいものがあるわけじゃないけど、あんまりじろじろみないでよね」
「いや、でも俺が片付けるんだよ。手で持って並べるんだから目に入るでしょ」
「そうじゃなくて、見ないでって言ってるの」
「分かったよ。中開けたり、探って調べたりしないようにするよ」
「そういう理屈っぽいところは前のままなんだね。そういうところ無くしてほしいのに」
「嫌なら戻ろうか?」
「そういうことじゃないって。水のシャワー浴びて、真っ暗な寒い部屋で寝させられないし、ここにいて欲しいの。言わなくても分かってよ」
「分かったよ。じっと見ないように片付けて、素直に柔らかくしゃべるようにするよ」
「それはそれで当てつけな感じがする」
「え〜っと…」
「まぁ、良いよ。気にしないで。今日のところはこれくらいしよう」
 翌朝、瑞樹は昨日の惣菜の残り物や目玉焼きを用意してテーブルに並べた。朝食はとても有難かったが、朝だというのに同僚の愚痴が止まらなかった。辞めて別の会社に行けば良いのにと言うとそれは違う、辞めないで認めさせると息巻いた。俺としても口喧嘩で見送るのは避けたかったので、それ以上は口を慎んだ。口を出せる立場じゃないことを悟って今後は控えようと思った。
 瑞樹の家で暮らすことになったので一度家に帰って必要なものを取ってくることにした。一週間程度の着替えとラップトップ、気になった本を数冊バックパックに詰めた。何か必要なものがないか部屋の中を見回すと女性もののファッション雑誌が埃かぶった書類ボックスに入っているのが目に留まり変に思ってなんとなしに詰めた。他にはいつ必要になるか分からないがアプリや端末の使用方法などの本も持ち帰ることにした。
 瑞樹の部屋にはリビングを扉一枚隔てた向こうに洋室があり、置いてある段ボール箱の中には季節違いの服や普段使いじゃない化粧品、食器、調味料、雑誌や本などが入っていた。隙間を埋めるようにして詰められたぬいぐるみやクッションは早々にソファの上に出してやった。リビングやキッチンに出されていた棚にはものを入れられるスペースが残っているので次々に入れたが置き場所に困るものの方が多かった。段ボールの中を覗きながら収納方法を思案していると部屋の隅に封が切られていないスチールラックが出てきたので仕方なしに組み立てることにした。瑞樹一人では重いだろうし、組み立てに苦労しそうな代物だ。俺との生活を前提に引越しをしたのかと頭をよぎったのですぐに振り払った。
 段ボール箱の中身出し終え、どこに何を入れたか分かるように大まかにメモを残した。瑞樹の家はオートロックなので、瑞樹が帰る頃に戻って来れば良いと思って外に出た。俺は家の中にずっといられない性分のようだ。しばらく瑞樹と暮らすのだし、生活必需品をどこで手に入れられるかチェックするという大義名分のもと近所の商店街をぶらつき始めた。
 瑞樹が住んでいる街は首石町とは違って落ち着いた住宅街だった。中華料理屋やパン屋、ファミリーレストランなどが点在する大通りや駅前から伸びる古びた商店街が子供の頃に家族と暮らしていた街を彷彿とさせた。両親との思い出よりも街の風景の方が鮮明に思い出せる。どんなに退屈でも友人たちと何度も往来した場所の方が記憶に残りやすいのかもしれない。
 しばらく歩いたので時間を潰せるような店を探していると行き来する人がまばらな中、瑞樹の部屋にあったぬいぐるみをリュックにつけた女性の背中を見つけた。背格好も瑞樹と似ているので声をかけようかと思ったが、この時間に瑞樹はいるはずがない。俺は自然と彼女の後をつけた。駅前にある喫茶店にまで入り、空いた店内で斜め向かいに彼女の顔を確認できる位置に席をとった。袖にフリルのついた白いブラウスにやや厚みのある柔らかい素材のベージュのミニスカート。彼女の席にはコーヒーが置かれ、せわしなく小型端末を動かしていると入り口の方からベージュのブラウスとピンクのミニスカートに小さめのリュックを背負った女性がやってきた。先に来た女性と同じテーブル席に着いた。二人が席に着いて談笑しているところを気づかれないようにチラチラ観察し続けた。二人はとてもよく喋って、よく笑った。会話の内容まで分からなかったが、俺が他のところに目をやりながら声だけを聞いていると抑揚や笑い方が瑞樹に似ていた。二人のうち一人ならそれでも奇妙に思わなかったかもしれないが、二人とも瑞樹に似ている。笑いながら首を傾げて向かいの相手を見る仕草が瑞樹そのもので俺は驚いて覗くように自分のテーブルに身を乗り出してしまった。最初に見ていた子に感づかれたのか冷たい一瞥をもらう瞬間に俺はそばにあったコーヒーを口に運んでごまかした。間も無く彼女らは喫茶店を出た。
 瑞樹は自分に似ている人を見かけたことはないらしいし、服装が近い人が近くに住んでいることも意識したことはないと言った。ただの流行りだと思っている。
 どこかに似ている人がいるのは何も不思議ではない。でも、俺の記憶が更新されてしまったからと言って、初めて見た女性の仕草にこれほどまでに惹きつけられることもないだろう。
 週末まで暇だった俺は社会勉強のつもりで記憶が空白になっている期間の日本の状況を検索した。高校の頃から広がっていた格差はさらに広がり、それに伴い少子化は加速して人口は減少、企業は倒産が相次ぎ、海外企業の支店は撤退し、逆に安い賃金を求めた海外企業が倒産したまま残された国内企業のビルを取り壊し、工場用に買い取って海辺の土地が整備され始めている。国は少ない人数で効率的な動きができるようにライヴレイジに協力し、ソイルを全国に広めたのだった。ライヴレイジと国の関係はズブズブだ。元々ベンチャーの開発企業だったライヴレイジは内部統率がまだ整っていない時期に一躍大企業になったため社員の起こした傷害事件や婦女暴行、不正賭博などの事件がうやむやに終わっており、スキャンダルの記事がネットに上がっているものの法的に問われているものは少ない。その中には俺が入っていた病院についての記述もあり、ライヴレイジの欠陥品処分工場と書いてあった。
 瑞樹がデートに誘ったのは港町付近にある遊園地だった。観覧車からは海沿いに広がる街並みが見渡せる。街並みと言っても廃墟や売地も含めてのことだ。虫食いだらけで人口的に作られた通りがよく見える。瑞樹は普段のブラウスやスカートではなくリラックスしたロングTシャツにジーンズといった格好だ。観覧車が頂上に来て、そばに寄り添ってきた時には左手にはめた見慣れない指輪に気がついた。
「指輪きれいだね」
「そう?ありがとう」
「何でここ選んだの?」
「やっぱり覚えてないよね」
「何のこと?」
「最初にデートしたとこなんだ」
「ごめん。思い出そうとしても部分的にも無理だし、懐かしい感じもしないんだ」
「もしかしたらと思ってさ。ちなみにこの服はデートの時に着たやつで、指輪は誕生日に買ってくれたやつ」
「そもそも、どこで出会ったの?」
「晃は会社の取引先で働いてて、プロジェクトが終わった時に仲良くなった」
「俺は何の仕事してたの?」
「調査会社だよ。全然知らないんだね」
 確かに俺は正式な履歴書を探ろうとしていなかった。知ったところで意味がないからだ。蓄積した知識なしに同じ仕事はできない。だが、俺が病院送りになった理由を探る上では必要だ。
「その会社は何て会社なの?俺の役割は?」
「今、デート中だから後にして」
 瑞樹が涙を流してしまった。矢継ぎ早に聞いてしまったせいかもしれないが、他にも理由はありそうだ。そんな風に見えたところでもはや確かめることはできない。瑞樹次第で俺の生活はままならなくなるんだ。別の機会を待つしかない。
 過去のデートを再現するように瑞樹に導かれてレストランに行った。俺に頼る金がないことを知っているので料金は全て瑞樹持ちでステーキを食べた。瑞樹はとても満足そうだった。ステーキの次は駅前のコンビニでアイスを買って海沿いを歩きながら食べた。
「私たちこれからだね」
 夜の波頭はどこまでも黒く広がる海に浮かび街明かりを跳ね返した。冷たい風を凌ぐのに瑞樹の腰に手を回し、体を寄せて歩いた。
 瑞樹が慌ただしく動いているので目が覚めた。今日が平日か休日かなんて曜日感覚は忘れ去られていたことだった。病院では行うことは毎日同じだし、いつ散歩しようが俺の自由だったから、日によって何か行動を変える必要がなかった。瑞樹は義務に迫られて生きている。俺は瑞樹に習って生活を合わせなければこの先支障があるはずだ。彼女の生活スタイルを模倣することが手っ取り早いリハビリになりそうだった。彼女は俺が遠慮なくいただく気でいた冷蔵庫の食料やテーブルに置いた合鍵のことを早口で伝えた。それにしても親しくしていたのに俺が入院したことすら知らなかったのは不思議だ。俺には生きている親族もいないし、身につけていたものに身元が分かるものは全くなかったのだから、仕方ないと言えば仕方ない。まるで自殺でもするかのような状態だ。いや、自殺なら身元がわかるようにする。ともかく俺は自分勝手なやつだったらしい。わずかに残った記憶を瑞樹に見せたらどう思うだろう。今まで通り俺を好きでいてくれるだろうか。きっと以前の俺は瑞樹を議論の相手と見なしていなかったのだろう。だから、瑞樹は俺が何を考えているのか知らなかったんだ。
 化学工場はライヴレイジからは離れていたが、同じ埋立地の一角にある。受付の案内で通された部屋は一見清潔感があるようだが、しばらく什器を変えていないようで所々黄ばんでいた。隣接する工場の作業音が海風に乗って響いてくる。無機質な空間が海の向こうまでつながってつぎはぎの人工物で世界が覆われていくようだ。面接官は時間きっかりにやって来た。ライヴレイジが役所に問い合わせて公のデータを引っ張ってきただけの自己紹介をすると面接官はクリップボードに挟んだ用紙に適当にメモをとりながら、体力的な自信や健康面の不安があるかどうか質問してきた。もちろん、俺がライヴレイジにいたことは伏せながら、体力維持に努め、健康的な生活を送っていると答えた。男は持っていたクリップボードを脇に抱えて、工場内に俺を案内した。面接官とのやりとりはほとんど形式的な応対にとどまり、書類だけで合格していたような感じだ。男子用のロッカールームで用意された全身を防護服のように包む作業服と薄いネットキャップを身につけると従業員がぞろぞろと入ってきた。そいつらも荷物を置いて作業服を着るのだが、終始無言のままロッカールームを出て行った。そもそも仲良くするつもりのない俺には都合が良い。面接官から指示のあった場所で指導を受け、検品と入出庫管理の作業に加わった。何に使われる薬品かは専門的すぎるので説明を受けていても理解できていないが、シャンプーやボディーソープの元となる薬品を製造し、別の企業が運営する工場に送るらしい。コンベアーのそばでライン作業をするスタッフから少し離れ、陳列棚に囲まれた広いスペースでパッケージされた製品をテーブルに広げ、俺を含めた数人の男たちが製品をチェックすることになった。パッケージには製品番号と読んだことのないカタカナの羅列で閉じられ、わずかに粒子の形や色が異なるのが鈍い照明によく照らされた時に分かった。周りは慣れているので追いつくのに必死だった。とはいえその中でも遅い奴がいる。何か悩み事があるのか知らないが、早くなったり遅くなったりペースが安定しない。だから、俺の作業スピードとさほど変わらない。俺の遅さが目立たなくて良いのだが奇妙だ。しばらくして、俺だけテーブルの前で作業している班から離れて箱の数と行き先をチェックする作業に入った。製品番号やロット数の記録に目を瞬かせながら、同じ場所を何度も往復した。永遠に同じことが繰り返される悪夢的な考えが思い浮かんでは目の前のことを意識して振り払った。確実に数は減っているのだから、終わりに向かっている。だが、力の抜きどころも分かっていない新入りの俺の集中力が長時間維持できるはずはない。どうにかしてミスを起こさないように何かしら面白いものをこの工場内で見つけようとあちこちに視線を向けて気を紛らわした。工場はとても広く、作業で使わない場所がいくらもある。俺は遠回りしてあたりを見ながらトイレへ向かった。このフロアでは手や体を洗うものや鼻や口を洗浄するのに必要な化学薬品の原料を扱っていることが分かった。香料の違いや洗浄力、体のどの部位へ使用するかという用途別に区画分けされている。もしかしたら、別のフロアに行けば人間には有害なものも扱っているかもしれない。少し歩いたところで作業場所からは死角の位置にネズミの這う音か虫の鳴き声のようなものが聞こえてきた。作業していた時から何の音か気になってはいたのだが、音がだんだん近づいて来る。もはや空調ではなさそうだった。この後、作業中に突然飛び出して来られるのも嫌だし、俺はその音の出どころを突き止めるために耳を傾けた。飾り気のない錆びた組み立て式の棚に折りたたみ式のプラスチックケースが積まれて並んでいる。初めて来た仕事場で怠けていると思われないように、端の方から棚の間を一つ一つ、一瞬だけ視線をやる。トイレに行くとリーダーに告げて数分が経っていた。音が断続的にだが継続的に聞こえ、さらに迫って来た。床に何か動くものが見えて、俺は目を疑った。確かに人間だった。例の変なペースで作業していた男がプラスチックケースに入った麻袋を破き、その中に顔を突っ込んで呼吸していた。俺は大丈夫かと叫んだ。俺の声が届いたようですぐに同僚が駆けつけて、強引に男を麻袋から引き離し、仰向けにした。男の顔は薬品で真っ白だった。さっきまでパッケージに入れていた製品の原料だ。同僚の反応を見ていたが驚くというよりは呆れているような印象だ。仰向けになった男は顔についた粉を舐めながら恍惚とした表情を浮かべている。俺を面接した社員が割って入った。
「こいつもか」
「ん?前にもあったんですか?」
「異常薬品嗜好者が増えてるってニュース聞いたことありませんか?」
「何ですかその…」
「異常薬品嗜好者は経口摂取を目的に作られていない薬品を経口摂取しようとする異常な食欲のことで、何に対して反応するかが絞りきれてないんです」
「薬品につられてここで働こうと?」
「さあ、本人もこんなに欲しくなるって知らなかったかもしれませんね」
「ソイルのせいだろ」
 今まで口を開かなかった同僚の一人が初めて喋った。同僚は続けた。
「ソイルが頭の中に入ってから、隣接する部位が異常な反応をしているんだ。何も入れなきゃ良かったのに」
「それはあくまで噂だろ。ここ数年で出た説だし、ソイルはもっと前からあった」
 別の男が言った。
「ライヴレイジがその情報を握りつぶしてるかも知れない」
 俺と同僚たちは社員の指示で口を薬品まみれにした男を持ち上げ、医務室まで運んだ。そのあとロープでぐるぐる巻きにしてベッドに縛り付けた。あとで警察が来るらしい。社員は気楽にやってくださいと言ったが、すぐに切り替えられるはずはなく俺は柳井の事を思い浮かべた。ライヴレイジが何か隠しているのは疑いない。
 リラックスした同僚たちはそれぞれに話し始めた。粉を食べまくった男の話は休憩時間にちょうどいい緩和剤になった。さっきまでしかつめらしい顔をしていた大柄の男が俺に近づき、どこから来て、何でここを選んだかとかいわゆる新入り向けの質問をした。
「首石町の方から来て、それで、ええっと…、金なくて、そんで」
「大丈夫か?事故にでもあったのか?」
 通常、ソイルが機能していれば思い出して話すまではもっと早いはずだった。昔はエリートの特徴だった早口で単刀直入な無駄のない会話が基本的には誰もができるようになっている。記憶があるふりをするのはなかなか難しい。
「引きこもってて人としばらく話してなかったので」
「…そうなのか。まあ、じきに慣れるよ。悪い奴らいないから」
「ありがとうございます」
「さっきは驚いただろ」
「驚きました」
「俺が入る前にもあったらしい。突然だったよな」
「誰でもあんな風になる可能性あるんですかね」
「さあね」
 男はそれ以上話しかけて来なかった。ライヴレイジのことを隠しているせいもあって、俺のそぶりから本心を見せていないように感じとられたということなのだろうが、何か俺に後ろ暗いものがあると怪しんだのかも知れない。緩んだ顔が硬直していくのが分かった。誰でも雇われるような職場だ。初日の人間には警戒を解けないのは当然か。
 久しぶりに他人の指図を受けて話したくもない人間と数時間過ごしたのでとても疲れた。気晴らしに近所を散歩して帰ることにした。今日は平日のようだ。くたびれた服で人々が忙しなく歩いている。俺は何となく惹かれる景色の方に向かった。彼はもともと殺風景な場所が好きなのかも知れない。何度も見た記憶の中の公園もどこか不穏さが漂っていた。霞みがかってビルの狭間にあるいつも薄暗い公園で、街の中でぽつんあるせいか家族連れだけでなく、若いカップルも来ていたがどこか不釣り合いのような気がする場所だった。
 通りにはドラッグストアを何軒も見かけた。薬だけを売っているのではないのだろうが、それにしても多い。通りすがる人間に聞いてみたくなったが、そんなこと聞いたところでなんの参考にもなるまい。一人の感想なんて聞いても俺と大して変わりやしない。
 瑞樹の家に向かう道すがら立ち止まってビルの隙間を見ている中年の女性がいた。気になって同じ方向を見てみると人一人がようやく入れるぐらいの幅にビルの隙間から溢れる朝日を浴び、横になって空を見上げる男がいた。浮浪者が寝ているだけかと思ったが、腹の部分に穴が空いて、目を見開いたまま動いていなかった。
「死んでるよ」と女は言った。
 下腹は腐敗しているようで中から腐肉を食べていたカニが三、四匹出て来た。
「誰か呼びました?」
「呼ばなくていいよ。こんなのどこにでもある」
 男の背後にはドラッグストアの袋と「混ぜるな危険」の文字のケースが倒れていた。
「漂白剤?」
「バカでしょ?」
 女はこれ以上言うことがないという感じだった。独り言のように俺のそばでつぶやくと笑いをこらえているのか涙を隠しているのかわからないが口元を手で隠しながらとぼとぼ歩き出した。
 俺は通勤の流れに身を任せた。通り過ぎていく建物を眺めた。空飛ぶ車が現れる気配は未だにない。風化し管理が行き届かなくなった廃ビルが所々に目につき、複数の言語の宣伝文句が飛び交っている。製品の機能性を謳うCMの音声だ。街並みの概観は数十年前と同じかそれに毛が生えた程度で大した進歩はない。大量に販売されているのは見慣れた安物ばかりだし、新しいものは一部のどこかでこの流れの外にあるのだろう。むしろ廃ビルの出立の方が死をモチーフにした多様な形をデザインしている。少し足を休ませたかったので時計塔の先にある小さな本屋に入った。並んでいるのは高級な特装版やオブジェとしても置いておけるきらびやかなデザインの本ばかり。手頃な文庫は片隅に積まれていた。単行本を手に取るのは金持ちと決まってから久しい。地図は相変わらず形が変わらない。データとして持ち運ぶことの不自由さもまたあるが紙の地図は折ってくしゃくしゃにして放り投げようが壊れて見えなくなるなんてことはない。硬くて小さい手のひらサイズのモニターとは違う。俺は以前の活動範囲らしい地域に絞って、地図を二、三手にした。マーキングして使う算段だ。店内には俺以外に二人先客がいた。二人とも金持ちそうだ。というのは店の目立つところの棚にある単行本を立ち読みしているからだ。俺は店内を歩き、並んだ本に目を走らせた。数十年前なら単なるペーパーバックの中身のない恋愛小説が豪華な装丁とともに書店の中で幅をきかせていて笑える。複雑さが流通の滞りになった世の中をとてもよく表している。俺は古本で充分だ。会計に向かおうとしたら、先客のいい格好をした男が顔面と上着に火がついた状態で俺に寄りかかろうとしてきたので、俺は慌てて飛び退いた。男がそのまま本屋の中心に置いてあった平台に倒れると本に火が燃え移った。男の手にしていた本のタイトルは『世の果ては君と』だった。俺は尻餅をついて、床に落ちていまだに燃えているその本を見ると、中に細い導線と金属片の燃えかすが挟まっていた。店主が慌てて消火器で火を消しにかかった。顔面に消化剤が吹き付けられた男は焼ける痛みの後に窒息の恐怖が襲って来たに違いない。息苦しそうにむせながらあたりの本を散らかしていた。俺は震えながら立ち上がって店から逃げ出した。店から飛び出して企業ビルの林立する通りを走り、日陰で湿った高速道路の高架下で腰を下ろした。しばらく呆然として、体を動かせなかった。悪夢だ。もしかしたら、事件関係者としてライヴレイジの連中から注意を引くかもしれない。俺は被害者なのに。これがきっかけで施設に戻されることがあってはたまらない。
 なんとなく表通りの方へ向かって歩き出した。狭い道の先に母親と子供が行ったり来たりしているのが目に入った。近づくとビルの隙間から丸い緑の塊になった枝葉が飛び出した。母子は公園のアスレチックを利用していたのだった。思ったより広くて、入り口の簡易な地図を見るにぐるり回ったら三十分以上はかかりそうだ。遭遇するとは思っていないが、視聴覚検証で現れた中年の清掃員の姿を探した。誰も見当たらず、高温に温度調整をされた植物園で眠気が強まり、すぐに外へ出た。ベンチで地図を広げこの公園の場所にチェックを入れた。次に向かう公園を探していると池を囲うように刈りそろえられた植木に目が止まった。庭師がハサミで剪定している。淀みのない手さばきで弾かれていく枝葉は遊歩道の脇にまとまっていた。徐行した軽トラックが止まり、運転手の男が枝葉を集めて荷台に放り投げた。工場なんかよりあんな仕事でも良かったなとぼーっと眺めていたが、自然と手がかりが目についていたらしく、男の特徴は違うが制服が例の清掃員の服装と同じだった。幸いなことにトラックは歩く速度と同程度の速さで園内を進む。俺は気付かれないように車が先に行くまで待った。来園客として散歩しながらでもトラックの行方は追える。トラックが園の外に出ると公園の入り口とは反対側にある関係者用の扉を開けて入った。扉の向こう側では荷台に積まれた枝葉を一か所に重ねている。積まれた枝葉は既に人の背丈ぐらいには集まっており、ボクシングのリングぐらいの面積はあった。場所は確認できた。夜勤明けの体をベンチで休ませた。
 木陰に鋭い日差しが差し込んできて目が覚めた。体のだるさが抜けないので時間を見たが二、三時間しか過ぎていなかった。関係者用扉の様子を見ると若い男が二人やって来て。入れ替わりに軽トラックの運転手が出てきた。扉の中には従業員用のロッカーなり、事務所のような設備がありそうだった。人の入れ替わりからするとこの後数時間は誰も来ないだろうと思い、俺は諦めて近くにある別の公園へ向かった。こんなに必死になる必要はないかもしれないが、過去に俺の行動は裏があるし、いつか足枷になるはず。少なくとも何をしようとしていたのかは知っておきたい。それも柳井が陥った状況に関係があるかもしれない。いくらか開けた通りにやってくると視界の先に茂みが見えた。先ほどまでいた公園ほどではないが整備には人が必要な場所だ。
「間山さん」
 俺には聞き覚えのない声だったが、足を止めた。声をかけたのは探していた当の清掃員だった。見た目は五十から六十の間と言ったところだ。
「間山さん。戻って来られたんですね」
「お元気そうですね」と他愛ない受け答えをした。
「ええ、こちらは健康そのものです」
 男は快活に笑って見せた。俺と再び会えたことを喜んでいるようだ。
「私を探していたんですか?」
 清掃員の男は声を落として言った。俺はうなづくと清掃員はため息をついた。
「間山さんと別れて既に六ヶ月が経っています。状況が変わりました。いろいろ知りたいことが多いと思いますが、外へ出歩かない方が無難です」
「計画が進んでいるんですか?」
「順調です。私が全て進めておきました。特に本屋には近づかない方が良い」
 原田さん、お疲れ様ですと清掃員の仲間が俺と話している男に声をかけた。清掃員は原田というらしい。原田は控えめに会釈をするとそれじゃあと俺に言って公園の中に入って行った。知ったふりをして聞いたもののよく分からなかった。俺が注文した『世の果ては君と』に仕掛けをしたのはあいつか。新作ではあるが棚に並んでいるのだし、事件そのものが連続して起こることはなさそうだ。とはいえ五十冊まとめて買った俺が真っ先に疑われるだろう。何でまたあんなおっさんに協力したんだ。本屋に恨みを持ったり、しょうもない価値観へ反感を持つことは分かるがこんなことで一石を投じることにはなり難い。しょうもない価値観がもてはやされるのはそもそも素晴らしさなんてどうでもいいからだし、セレブリティへのルサンチマンが表立った事件として突きつけられたとしても、しょうもない価値観を持った人は自分たちがしょうもない価値観を持っているという意識を持たないし、素晴らしい価値観を持っているという自負がその価格や装丁に伴っていると感じているはずだ。そういうわけでしょうもない価値観を持った人間同士の経済を邪魔する人が現れても、法的に村八分にするだけだろう。俺や原田は最初から村八分にされているのだから何でも来いだろうがな。さっき原田が言ったことからすると恐らく俺は試作品か何かで事故を起こし、気絶して施設へ入ったと考えられそうだ。いずれは犯行声明を出すだろう。首謀者が原田と俺のどちらかわからないし、確認しようとしたところで原田に勘ぐられ、騙される可能性もある。もし俺が犯行声明を出すならどこかに書き散らした文章があっても良さそうだ。
 瑞樹は酔っ払って帰って来た。食べるものを何も用意していないことに気づいた俺は瑞樹の家で食事をしようにも、食材の調理方法がわからず、仕方なしに急須にお湯を入れてお茶を飲んで瑞樹の帰りを待っていた。瑞樹が言うには俺が自炊するようになったのはここ数ヶ月の話だった。俺に料理を教えたのは瑞樹で楽しそうに思い出を語った。もしかしたら、俺の最良の部分は消えた俺の記憶にさえないのかも知れない。全てを間違って覚えているのだ。誰も手にしていない、最良のものは自分には見えていていつか手に入ると生きる糧にしていたにもかかわらず、わかっていたはずのその最良の部分さえ本当は最良ではなかったのかもしれない。とたんに俺の全てを彼女に知って欲しくなって、今日起きたことを話そうとしたが、知らない方が良い事もある。
「俺の好物は何だったの?」
「何だったっけ。うーん、フォーが好きって言ってたかな」
「エビのスープのラーメンは?」
「ああ、それか。私が連れてったとこだ。でも、大体、一緒に行ったところは美味しいって言ってたし、どれが本当に好きなのか分かんなかった」
「気が多いんだか、気を使ってるのか」
「今の晃はさあ、私のこと好きなの?」
「そうだね」
「何それ、全然気持ち感じないんだけど」
「いや、ちょっと待ってくれ、俺には全然、瑞樹との記憶がない訳だし、積み重ねは大事でしょ」
「あっそう、まあいいけど」
 瑞樹は俺に寄りかかって目を瞑ってしまった。仕方なく俺は瑞樹を抱きかかえてベッドへ運んだ。瑞樹に毛布をかけているとぼんやりと目を開けた瑞樹は俺に冷凍庫のチャーハンを勧めた。
「勝手に温めて食べてても良かったのに」
「俺のものじゃないから」
「住んで良いって言ったんだから、よそよそしくしないで」
 瑞樹は毛布をはいで力を込めた歩みで風呂場へ入った。
「あのさ、怒ってるの?」
「怒ってない。ベッドに入れてくれたのは嬉しいけど、ちゃんと顔洗ってから寝たい」
「本当に怒ってないよね」
「しつこい」
「ごめん」
 俺はチャーハンを食べながらこれから瑞樹に与える俺の印象は裏切りの連続だ。俺はあらゆる文脈を失っている。瑞樹の好意にはそっけない反応しか出来ていないし、何一つ好みを知らない。これで同じ家で時間を過ごすとは奇妙だ。と言っても過去の俺に戻ることを試みればそれなりに振る舞いは真似できるかもしれないが、そんなことをやったって行き着く先は明るくはない。寧ろ俺は今の状態を楽しむ事が過去の俺にとっても希望になるはずだ。そう思いたい。俺は今までの選択の中で最善でありたい。瑞樹が開こうとした本を俺はとっさに奪い取った。
「ちょっと、何なの!」
 俺は細工が仕掛けられていないか調べた。ページの間には何もなさそうだったし、付箋がいくつか貼られていた。
「読みたいならそう言えば良いのに」
「やっぱり、俺の趣味じゃない。こういうのが好きなんだっけ?」
 瑞樹は素早く俺の手から『世の果ては君と』を奪い返した。
「仕事だから読んでるだけ」
「もう終わったんじゃないの?」
「見る人が増えてきたからちょっと気になってね」
「自分のサイトだし心配だよな」
「そういうこと」
「変なこと聞いたな」
 読みたい人間が増えれば被害者も増える。だからと言って瑞樹にサイトを閉鎖しろというのは気が引けた。そもそもそんな仕掛けのある本がなければ、しょうもない本がなければ良いのに。
 既に工場の出勤時刻は過ぎていたが、電話で辞める旨を伝えた。上司はあんなことがあったからもう来ないと思っていたと言った。そもそも諦めていたらしい。何の抵抗もなくあっさりと終わった。上司は慣れたものだった。
 新しい仕事をもらいに職業紹介所でも安いペラペラの紙資料をいくつも受け取ると、外に設けられたベンチでざっと目を通した。小型端末が震えて瑞樹からの着信を知らせると俺は水を得た魚のように血の通った人間との会話を楽しみたくなって電話に出た。瑞樹は仕事帰りで会いたくなったらしい。ぼーっとしていた俺はなんの反応もする気がせず、聞き流すように聞いていた。会えなくなる前の俺は仕事終わりに職場のそばまで迎えに来てくれたと都合よく昔の俺を持ち出すのが気に食わなかったが重い腰を上げて駅に向かった。難儀なことしていたもんだな。
 瑞樹は職場のそばにあるレストランでワインを飲んで俺を待っていた。到着したところではしゃぐこともなく淡々と世間話をして、俺の知らない世間の常識を教えてくれた。例えば識字率が低下して小学校の授業が中学校にも延長したり、高い金を払って知識を身につけても仕事に就くこととは何の関係もなかった大学はなくなって民間企業が経営するレクリエーションサロンが出会いの場になったり、国が出版物の保管をやめて、民間の基金によって保管することになったせいで大幅に書庫を縮小することになり、格安で売りに出された本が高騰したとか。世の中から学者と言える存在がいなくなったから、知識の応用ができる人や指導者と言える人間がいなくなったことなど。脳は大きな記憶の貯蔵庫になったのだが、道具を扱う技術者と説明書がなくなってしまった。瑞樹は自分のしている仕事に意味を見出すのは難しそうだった。単純で感情的な、何も得られるはずはない分かりやすい記事をアホに向けて書いているんだからどうにかして欲しいらしい。俺は相槌を打ちながら出されたサラダを取り皿に分け、甘辛いタレがかかったどこの国のものともわからない豚肉料理を食べた。俺は瑞樹の話を聞いていて贅沢な悩みだと思った。何の取り柄もない人間からするとクソみたいな仕事でもあるだけいい。全てがクソになりきっていないところに問題点を見出せていないクソ人間たちの見識のなさが正にクソだった。ゆったりと料理を口に運ぶ瑞樹はとても穏やかな表情をしている。もとの生活サイクルに戻っていて、突然やってきた俺を意識せずにいるようだ。グラスに入ったワインを飲み干すのを見守って店を後にした。
 一時間以上ラップトップの前で何もできずにいる。開いたままのホーム画面はアプリのアイコンがなくなっており、メールボックスの受信メール量に比して、一見ラップトップの使用頻度が少ない印象だ。特に買ったばかりというわけでもない機器の使い込んだ雰囲気からも大量にデータを消しているとしか思えない。運良くブックマークの方は整理されていなかったのでちまちましたことをやるのに抵抗のない暇な俺はサイトを一つ一つ当たって自動パスワード入力に頼り、ウェブ上の行動を追った。あるビジネス向けサイトでインタビュー方法についての記事をお気に入りに入れていたのが分かった。調査会社に勤めていたので仕事で必要になったのかもしれない。当然なのだがラップトップとアカウントが見つかったクラウド上には音声データは無かった。録音機材を持っていれば話は別だ。
 家の中にいて重苦しくなった空気を変えるために意味もなく外に出て歩き出した。相変わらず空虚な街だなと頭に思い浮かんだが、それは俺の頭なの中のことだった。俺の頭が空虚だから周りが空虚に感じるんだ。シャッターが閉まったパン屋の休業を知らせる張り紙を見て、学生の頃にアルバイト探しで張り紙を頼ったこともあるなと思い出した。店が並ぶ通りまで出て、一つ一つ見て回った。駅前近くにあるコンビニに日中勤務の張り紙がしてあったので店員を尋ねた。仕事の経験を聞かれるので、仕方なく経験はなかったがありますと答えた。
 偽造履歴書作成をなんとか終えてコンビニへ持って行った。面接では用意した架空の来歴を滔々と述べた。仏頂面の店員がレジ前まで俺を連れて行くと金銭授受のテストを行うと言い始めたので平静を装って若い時のわずかな記憶を頼りにいわゆるコンビニ店員の挨拶を行うと初めて眼にするレジ用デバイスを前にして硬直した。動かし方のわからない操作パネルに動揺し、当てずっぽうにボタンを押して、一人目の客対応のテストにもかかわらずその日の売り上げを締めてしまった。店員は俺に経験があることを再度確認したが俺は譲らず経験があると答え、事故にあってやり方を忘れたというと店員は引き取るように裏口のドアを開けた。数分食い下がってソイルが新しいものに入れ替わっていることを伝えても信用されずやむなくコンビニを後にした。
 バックパックに詰め込んだまま用はないと思っていたライヴレイジのパンフレットを取り出した。グラデーションで奥行きを出したグレーに淡い青や緑のラインが重なり彩られた幾何学的な立体が並べられた表紙を開き、隅にある電話番号をじっと眺めた。俺は小型端末を取り出して電話をかけた。
 俺が仕事を得るのに困っていることを話すとこれまで幾度となく同じような状況の人間から聞いてきたことがあるかのように江沢の相槌はとても早かった。前置きとして依頼する仕事は行政関連の仕事だと話し、「地域のために」働く仕事だと言った。江沢の含みのある言い方に警戒心を抱いたが、俺としても世のため人のためになるなら、働きがいがあると思った。施設で一緒だった人間も数人働いているらしいので勤務したいと申し出た。
 待ち合わせ場所の道路脇に止まったバンの前で江沢が辺りを見ながら立っていた。
「お久しぶりですね。お元気そうで」
「今日から始まるんでしたっけ?」
「今日は見学してもらいます。作業を見てから決めてください」
 江沢は持っていた紙袋から作業着取り出し、バンの中で着替えるようにと言った。バンの後部座席には作業着を着た鈴木が頬杖をついて窓外を眺めている男がいた。自信はなかったが思い浮かんだ名前で呼んだ。
「鈴木くん?」
「え?ああ!間山くん?施設にいた人間が来るとは聞いていたけど間山くんとはね」
 鈴木が着ていたものと同じ全身を覆うつなぎを広げた。それまで着ていた服を紙袋に入れて作業着に着替えると足元にビニールで包装された防塵用の白いマスクが落ちた。
「これでどこ入るの?」
「人の家入って片付けするんだよ」

 江沢は作業内容をざっと説明した。海外出張中だった妻が家に戻ると部屋の中で死んでいた夫を発見したようだ。俺たち3人でゴミで散らかった家と死んだ四十代男性の遺体を片付けに行くらしい。
 先に江沢と鈴木で遺体を車まで運び、部屋を掃除する。施設で見た人間たちのようにソイルの機能に問題があり、生活に支障が出て部屋が汚れてしまった可能性があった。江沢と鈴木が防塵マスクをつけたので俺もポケットから取り出してつけた。
 夫は書斎部屋の中心で丈夫そうな白いビニールに包まれて横になっていた。部屋の印象からは生活範囲が狭そうな人間のように見えた。飲み食いの残骸やビニール袋に入った日用品の包装紙が机の周囲に山のように積まれている。部屋のドアから遺体までの通り道にあったゴミを鈴木が足で寄せる。遺体の足の方へ回り、江沢が遺体の頭部の方へ回って遺体を持ち上げた。江沢が車のキーを俺に差し出したので俺は先に部屋を出て車のトランクを開けた。江沢と鈴木が笑いながら遺体を運んで来た。トランクの前で遺体を前後に振って弾みをつけると「いち、にの、さん」と中にトランクに放り込んだ。
 部屋掃除が終わる頃に件の未亡人がやって来た。綺麗になった部屋には満足している様子でしつこいほどに感謝の言葉を述べた。江沢と鈴木はそのままライヴレイジへ向かって遺体保管室へ遺体を運ぶので俺は家のそばで降りた。江沢の代わりに運転席に入った鈴木がラジオをつけるとカフェで火災が起きたと伝えた。体が燃えた男性が近くにいた女性グループに助けを求めたところ二人にも燃え移って、男性は死亡し、女性二人が重症になった。男が燃えた原因は読んでいた本からの発火だとアナウンサーは言った。
「これ本に仕掛けがついてるらしいですね」
「収まるのは時間の問題ですよ。警察も頑張ってますから」
「間山くんも本よく読むんでしょ?気をつけた方がいいよ」
「ベストセラーが狙われてるらしいけど、興味を持つ本は大体売れてないから心配ないよ」
「確かにいつ開かれるかわからない本には仕掛けないわな」
「本のページをめくる動作は誰がやっても似ているので、仕掛けた人や仕掛けられた本が見つけにくいらしいですね」
「仕掛けのあった本があった店に共通してきていたやつを捕まえればいいんじゃないんですか?」
「その線も追っているだろうけど出版されてからしばらく経っていたら、売れ行きの悪い店は一旦問屋に返すし、本一冊一冊にナンバリングがしてあるわけじゃないから大変なんらしいですよ。本屋で怪しい動きをしている人がいたら、通報してくださいね。間山さん。一応われわれも警察とは協力関係なので」
「もちろんですよ」
 江沢から次回の片付けから作業に加わるか尋ねられたので、俺は承諾した。瑞樹は会える時間が少なくなると言った。
 俺が最初に作業する家は敷地が広く荒れまくっているため別班の応援が入ることになった。別班の二人は数年仕事についているベテラン。鈴木は掃除する範囲は広いだけで特にやり方は変わらないと言った。先に家の前に到着したので応援が来るまで待機した。家の前と言っても邸宅自体は柵の向こう側百メートル先にある。既に鍵は受け取っているので、別班が到着次第揃って中に入る。ベテラン作業員は野口と蛭間という男二人だ。二人が乗ったバンは約束の時間ぴったりに到着した。どういう訳かとても楽しそうに俺たちに挨拶をして来た。鈴木は彼らのノリに抵抗はなさそうだった。むしろ何も表そうとしていなかった。
 邸宅は三階建てでそれぞれのフロアに十以上の部屋がある。住人の四十代女性は一階の広間で空になった消毒用洗剤を片手に持って倒れていたそうだ。直接の死因はパンを喉に詰まらせての窒息死だったが、その前に食器用洗剤を多量に飲んでいたので喉の粘膜がやられて詰まりやすくなっていたらしい。遺体は既に白いビニールに包まれているので死に顔を見ることはない。ゴミの溜まっている部屋は、一階の映写室と客間、二階のトイレと寝室が中心だった。各部屋でへそから下が埋まる量のゴミが溜まっている。ゴミが溜まって十年以上は経っていそうだ。まず、一番の臭素である遺体を俺と鈴木でバンへ運んだ。
「二階はあの二人に任せて、俺らで一階やって昼になったら上の様子見に行こう」
「了解」
「あいつらどう思う?」
「陽気な人たちだね」
「確かにな。でも陽気な人間の中には裏のある奴もいるから油断ならないんだよな」
 俺が先に一階へ戻ろうとするとまだ歩み始めていなかった鈴木の方を振り返った。締め切った二階の窓を見上げて鈴木は両手を腰に当てて一呼吸した。
 ゴミの量は確かに多かったが部屋の外は落ち着いているので臭くて窮屈な部屋で何時間も過ごす必要はなく、幾分気持ち的には余裕があった。何かを書きなぐったようなノートの切れ端や高価な額装が施されたイラストが燃えかすになっていたり、「勇ましい男」と太めのマジックで部屋の壁に殴り書きされていたところを眼にしたので心の歪み具合が思いやられた。よそ見していたせいか鈴木からお前大丈夫かと余計な心配をさせてしまったので、観察し続けることはためらわれた。映写室の前には律儀に大便をビニールに溜め込んだ紙袋が四つ置いてあった。二階は寝室のそばにトイレがあるが一階のトイレは客室や映写室からは離れていたからだろう。清潔さを保つ基準は不可解だが最低限のことはやっていたという意味で多少の気休めにはなる。部屋の床には何の液体かわからないシミがところどころついたままだが管轄外のため放っておいた。
 一階の残りは鈴木に任せて二階へ様子を見に行った。住人の足跡を辿るように散乱したゴミを見ながら階段を登る。二階のトイレは汚いままだった。陽気なおっさんたちの割に静かなので妙だった。奥へ進むと入口とは反対側の鎧戸を開けて腕を組みながら外を見ている野口がいた。ぶつぶつ何か言っている。頭のシワが真剣そうだ。
「野口さん、寝室大変でした?」
「え?ああ、そうなんですよ。思ったより手間かかっちゃって」
「次がトイレですか?」
「ええ、他の部屋見て回ったら子供部屋もすごかったのでどうしようかと思ってたんですよ」
「そうでしたか。急いでやらないとまずいですね。手分けしてやりましょう」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 鈴木は既に玄関先へゴミ袋をまとめていつでも運べるように準備していた。二階の進み具合を伝えると当然そうだろうと受け入れている様子だった。どこをやるかについてはこれから聞こうとしていたが、鈴木は真っ先に俺たちでトイレをやろうと言った。どちらかといえば子供部屋が良かったが、強い語気だったので不満をいう隙がなかった。もしかしたら、この部屋の中では一番綺麗かもしれないという一部の望みはあった。トイレを臨時のゴミ置き場にしていて排泄行為をする場所じゃなくなったという仮説を信じたかった。
 実際トイレは大便と生ゴミの集積所だった。便器が詰まって使えなくなったら、便器以外の場所で排泄行為を行なって、それに耐えられなくなったら匂いがきついものを適当に放り投げてゴミ捨て場にしたような感じだ。
「どうする」
「とりあえず、中入れるようにしよう。手前の方から廊下に出して行く」
「マスク付きの防護服使う?」
「とりあえずは良いよ。この階の窓全部あけてきて」
 俺は鈴木の言われた通り二階の窓という窓を時計回りに開けて行った。意味もなく切り刻まれた壁紙やドアに釘打ちされたぬいぐるみを横目に正面玄関の真上にあるテラスの大きな窓を開けるとこもっていた空気が抜けていった。野口や蛭間がここを開けていないことが意外だった。真っ先に開けるべきなのはベテランならわかるはずだ。先ほど野口がいた鎧戸までやってくると聞いたことのない男の悲鳴が聞こえた。おっさんがゴキブリかネズミでも出たのかもしれないと思って別の部屋の窓を開けていると窓外に大きく膨らんだ分厚いキャンバス地のバッグを担ぐ野口の姿があった。遺体は一人分と聞いていたのでもし子供部屋に別の遺体があったら警察に連絡する必要がある。さっきの悲鳴のこともあったので気になって子供部屋を覗いた。子供が暮らすには大きすぎるほどの部屋には勉強机、ベッド、それからウォークインクロゼットと化粧台がひざ下程度のゴミの中にあった。ゴミ袋には血痕が染み付いていて、顔中血まみれで歯が欠けた蛭間はぐったりと垂らした手に子供用のティアラと首飾りを握っている。胸ぐらを掴んでいた鈴木は鬼の形相で次の一撃のために体をしならせて握りこぶしを引き絞っていた。俺が部屋の中に入る時には既に蛭間の意識はなく、鈴木は何度も殴り続けている。
「な、何があったの?」
「こいつらは何度も訪問先の家で盗みやってたんだ。ここを片付けるのは必要な仕事だったけど、こいつらの処分も江沢さんから任されてたんだよ。驚いたか?」
「いや、まあ、驚いたけど、やりすぎじゃない?」
「さあな」
 蛭間はまぶたを開いたまま赤く染まった目をどこともなく見つめて動かないでいる。視線の先には本当に存在しているのかわからないこの子供部屋の主らしい、少女の肖像画が飾られている。
「でも、人の持ち物パクってるやつが見つかったら、俺らの仕事なくなるんだ。江沢さんと警察の関係もな」
気がすんだらしく鈴木は蛭間をゴミの上に放り投げた。
「あとは野口に全部やらせよう」
「呼んでくる?」
「良いよ。勝手に来るだろ」
 野口は空っぽになったバッグを持って意気揚々と鼻歌交じりにやってきた。鈴木がこれまでの行状について把握していることを野口に伝えると顔面に一撃を加えた。何が起きたのか分からず怯えて壁に張り付いた野口を力づくで外まで連れて行った。バンの中にしまった盗品をバッグに入れさせ、野口は一つ一つ盗んだものを元あった場所に戻すのだが、何度も謝って命乞いをするのを俺と鈴木は無視した。哀れだった。かといって同情するわけでもない。もしかしたらこの窃盗自体、ソイルのせいかも知れないんだ。盗品を戻し終わると鈴木は防護服とマスクなしでトイレに入れて掃除しろと命令した。能天気なおっさんをトイレに突っ込んで掃除させる時の怖気を振るう様子は笑いをこらえるのは難しかった。俺と鈴木は予備に用意しておいた白い遺体袋に蛭間を入れて子供部屋の掃除をのんびり始めた。部屋のゴミは二人掛かりなら一時間もかからず終えられる量だった。テラスでトイレ掃除が終わるのを待つことにした。いつもなら人体生理工学研究の献体として遺体を処理していたが殴り殺した蛭間は献体に値するものではない。処理をどうするかが気になった。
「ソイルさえ抜き取ればあとは焼くだけだからこの家の主人と一緒に焼けば良い。江沢さんからも了承を得てる。安心しろ」
「抜き取って終わり?もっと研究するんじゃないの?」
「医者を交えて死因の確認はするけど建前みたいなもんで、やることはあの施設と大して変わらなねぇよ」
「もっと体や脳との関係とかいろいろ見るのかと思ってたけど」
「そんなの見たってしょうがねぇよ。体に合わない奴は割合的には必ず出るんだから」
 臭いのきつさに廊下でうなだれていた野口を鈴木が蹴り飛ばしてトイレに押し込んだ。最初見たときの量と比べるとまだ半分は残っていた。暗くなり始めたので、作業のペースを上げた。玄関先からバンまでの移動でもかなりの重労働だ。トイレとどちらが楽かどうかははっきり言えない。鈴木と交代で様子を見にトイレへ行くと野口は姿を見せない蛭間のことを聞いてきた。俺は同じように片付けをしていると答えた。ショックで手を止められても困る。
 バンの後部座席には仕切りがきっちりしているが、臭いはどこからか漂ってくることがある。だから、トイレ掃除を行った野口はゴミや遺体と一緒にトランクへ押し込んだ。俺は鈴木の運転するバンを追って、後ろで野口が乗ってきたバンを運転する。久しぶりの運転だったが、ついていけば良いので気が楽だ。信号待ちの時に何気なく運転席周りの引き出しを開けて中を確認すると特定の住所に丸がしてある地図が出てきた。丸のそばには数ヶ月先の日付が書いてあった。隣にはレンタル倉庫の名前が刻まれた鍵。信号待ちの時に調べたら丸で囲われた住所は質屋だとわかった。片付けの時に盗んだものを時間差で売りに出す計画だったんだろう。俺は臨時収入の好機に恵まれた。
 「人体生理工学」の部屋へ入る時に鈴木へ相談したところ、鈴木も乗り気だった。要は野口と蛭間がやったことはなかった事にするのが今回の一番の目的だ。なら、野口の命も倉庫の鍵もなかったことにした方が良い。車中で瑞樹との待ち合わせを思い出したので、隙を見て何度もメッセージを送ったが返信はない。留守電に言い訳と謝罪の言葉を残したが不安なままだ。憂鬱そうな俺の顔を見て鈴木は金が入るんだからもっと素直に喜べと言った。トランクから再び外に放り出した野口に臭い方のゴミを運ばせ、俺と鈴木で残りを処分場に捨てる。野口の人生最後となる労働が終わった。鈴木が後で燃やせるように雑巾をグローブがわりにして野口を何度も殴打している間に死体安置室へ女性と蛭間の遺体を運ぶと細いノミとメスで女性の後頭部を割ってソイルを取り出し、同じく蛭間から引き抜いたソイルを入れ替えた。鈴木には死体用焼却炉に遺体を運んで蛭間を焼いておくと言ったのですぐさま蛭間を焼却炉に突っ込み、女性の遺体を安置室に入れた。今日は片付けだけでも体力が必要なはずだが、鈴木にとっては殴るのが楽しいらしく疲れを忘れるらしい。明け方一番のバスで俺と鈴木はライヴレイジを出た。
 吹き抜ける風で目が覚めた。瑞樹が家を出たところだった。部屋へ脱ぎ捨てたままのつなぎのポケットからソイルを取り出してしばらく手にしていなかった地図本に挟んだ。生ゴミか腐乱した人の匂いがこべりついたつなぎを洗濯機にかけて、身支度を整えると原田のいる公園へ向かった。
 2回目の訪問はより一般の来園客として振る舞うよう気を配った。炭酸飲料とホットドッグを手に、ヘッドホンをつけてベンチに寄りかかる。そして、ぼんやりと事務所の方向を見て原田が出てくるのを待つ。うたた寝をしかけて、重たくなった瞼の間に規則的な動きをする初老の男が眼に入った。原田は落ちた枝葉を拾って麻袋に詰めていた。原田が近くの清掃にやってくるまでは知らぬふりでいることにした。ホットドッグを食べ終わり、空のペットボトルを手にしてあたりを見回した。
「すいません。ゴミ箱どこですか?」
「私の方で捨てますのでこちらに入れてください」
 原田はポシェットに入っていたゴミ袋を出して俺の前で口を広げた。ポケットから地図に挟んだソイルを原田に見せた。
「これの事を教えてください。つい最近頭がおかしくなって自殺した女のソイルです」
 原田は俺の顔を一瞥すると事務所とは反対の方へ歩き始めた。
「間山さん。来ないようにと言ったじゃありませんか」
「俺が施設に入った理由も知っているんですか?」
「そのうち分かります。そんなものしまってください」
 原田は立ち止まって間山が握っていたペットボトルと包装紙を掴んで袋の中に入れた。原田が頭上を見上げると街灯の監視カメラを伸びた植木の枝葉が隠していた。
「これを見たって悩み、苦しむ様が映っているだけです。そんな姿どこでも見られます」
「原因が知りたいんです」
「ご存知の通りです。ソイルの影響です」
「じゃあ、なんで皆平気で?」
「適さない人間が少数ならほぼ無視されてしまうものです。享受できない人間がいても酒やたばこが存在し続けるように。単純に経済的な理由です」
「割合的に少ないなら問題ないと」
「そういうことです」
「おかしいじゃないですか。ソイルがなければ死なない人たちだったかもしれないのに」
「しかし厳密にはわかりません。先天的に不安を抱えやすい人はいるし、中には死を選ぶことがいてもおかしくない」
「俺間違ってますか?」
「疑問を持つのはおかしくありません。それに不審死については伏せられているわけではありません。時が経つにつれて人目を惹くものではなくなり、ニュースバリューを失いました。騒がれなくなるほど当たり前の出来事になってしまったんです。自然の一部みたいに。ライヴレイジ側へ訴訟する人もいますが低い賠償額の和解に終わるのが常です」
「冷静ですね」
「ええ。改善点を整理してましたからね。ですが大畑は待てませんでした」
「あなたとその大畑さんが作ったと?」
「もう、帰ってください。時が来たらまた会いましょう」
 原田はノロノロ運転でやってきた軽トラックの荷台に乗って行った。握っていたソイルを排水口に投げ入れた。
 マンション二部屋それぞれ一体ずつの現場に来た。かれこれ数十体の遺体を処理したが感覚が麻痺してくるというか、本来感じることのなかった痛みを感じて死んだと考えることが出来なくなってくる。ソイルを長年使用してもライヴレイジに文句を言う人間がいない理由はそもそも人間が痛みや苦しみの理由を考えにくい作りで、ソイルだろうが人間関係だろうが経済的困窮だろうがどっちへ転んでも本当のところは誰にも追及しきれないし、ソイルがなくても数パーセントの人間は死を望んでいるんだろうと投げやりなことも頭をよぎる。原田の言うように失敗作だったとしても、やってみなきゃ分からないと踏み切る人間が現れるのも分かる。鈴木はエレベーターで遺体を運んでいる時に神妙な顔をして尋ねてきた。
「疲れてるのか」
「いや、大丈夫だけど」
「ずっと袋見てたぞ」
「いやー、死ぬと分かっててやってたのか、そうじゃなかったのかって考えてさ」
「どうだろうな。今日の部屋は特におかしな落書きはなかったし、どんな人間なのか素性はよく分からなかったな」
「ソイルの膨大な記憶を見たところで本人の意志がはっきり分かるわけじゃないし、どこから変質していったかなんて考えてみたらよく分かんなくてさ」
「やめろやめろ。仕事が遅くなるだけだ」
 鈴木と遺体をエレベーターから下ろし、駐車場にあるバンの前で下ろした。
「お前、昨日何してたんだ?」
「何って…散歩して本読んだりとか…」
「江沢さんが書類の戻りがないって困ってたぞ。職員の方でも朝晩訪問したけど誰も出てこないって。怪しまれたら仕事なくすぞ」
「そういえば、郵便物は取るだけ取ってそのままにしてた」
「しょうもない事でつまづくなよ」
 鈴木の言い方は脅しと言うよりは友人のアドバイスと言ったニュアンスだった。変なところでお役所的な性質もあるらしい。これからは定期的に家に戻った方が良いみたいだ。
 鈴木からの話からするとライヴレイジの関係者が家のそばで待ち伏せしていてもおかしくない。用心のために遠回りだが首石町の隣駅から歓楽街を抜けていくことにした。安価な飲食店が軒を連ねており、飲み明かした中年の男が頭を垂れて歩道の脇で座ったまま寝ているような場所だ。この辺りでは誰もまだ活動を始める時間ではない。目が虚ろな男達が食料雑貨店から数人湧き出て来ては酒を飲んでふらふらしている。俺は男達の視線に入らぬよう道の脇を通ろうとしたが、男の一人が走って近づいてきたので慌てて逃げる仕草をしてしまった。たちまち他の男達と近づいてきた男はどっと笑いだした。俺がこんなクソみたいな連中がいる地域に住んでいた理由が分からない。いや、何らかの意図がなければこんな所には住まないはずだ。数日前、俺がどんな仕事をして何であんな場所で暮らしていたか瑞樹に聞くと、大手の調査会社で働いて別のエリアでアパートを借りていたようだ。だが、どういうわけかこの辺りに住む場所を変えた。何か計画がありそうだったと瑞樹は言った。喧騒や生臭さや人間の醜さが事業と関係あるとしたら慈善事業しか思い付かなかいが、世の中の流れや経済的な流れが変わってしまえば危機に瀕する末端の人々は変わる。末端の人々のみを見ていても何もわからない。常に末端は末端だ。危機的な状況を作り出すのは大勢の何となく生きている人や彼らに指示を与える人、要は流れを生み出す人であって流されやすい末端の人間ではない。不可解ながら付き合わせれなければならない状況に無頓着のまま仕方なく生きていく人々を見て何になるのだろう。でもどうだろう、流れを生み出す人が流れは己から始まるなどと最初から思うだろうか。俺を驚かせて笑った男達も俺を笑う前に誰かを驚かせることが楽しいと知っていたはずだし、そんなおふざけが面白いものと仲間と分かり合える空間があった。しかし、さらにその前におふざけをしたいと欲したわけで、前に楽しんだ奴を見てなければ彼らはおふざけを欲することはできなかった。流れは常に始まっていて既に巻き込まれている。たまにちょっとした支流に下る程度のことはあるだろうが。要は流れの上流にいる人々でさえ流れの只中にいるので結局どこを切り取っても始まりも終わりも示し得るし、また何も示すことがない。
 大通りを横切り歓楽街の入り口に来るとどこかからラーメンのにおいが漂ってきた。辺りを見てみると通りの角にラーメン屋があった。店前にあるメニュー画像をじっくりみて食指が動くものを見比べることにしたが、俺はモニターに反射して映った背後にあるカフェが気になった。看板には薄汚れた白いカタカナで「エデン」とある。もちろん記憶はないのでそこで何をしたかなどは全く分からないが見慣れない古い書体の看板と年季の入った店構えが気に入った。
 煉瓦造りの内装に暗めの照明でベロアのソファとテーブル席が数席並んでいた。俺は店の奥にあるソファ席を選んだ。窓外の様子を警戒しながらメニューを見ていると店員が声をかけて来た。
「ご来店はお久しぶりですよね」
「前にもここに?…ごめんなさい。記憶がなくて」
「えっ?どういう意味ですか?」
「ここに来ていた頃の記憶を失ったんです」
「記憶を失う?どういうことですか?」
 店員に俺の身に起きたことを話したが、記憶がなくなる事を現象として説明する事が難しいとは思わなかった。俺もそうだったが体の一部になっていた装置に無謬性を負わせていた。世の中の誰もが当たり前のように詳細な記憶を即座に返答できるのだから信じられないのも無理はない。事態を飲み込むのは難しそうだったが、俺が知りたいことを単刀直入に店員は話してくれた。店員によると俺はこの席に座って毎日のように、初めて会う人と握手をしては議論を交わしていたらしい。
「なぜかと言われてもそこまでは聞けませんでした。何となく仕事の会話のようにも聞こえたので」
「人と話すのが好きな人間に見えました?」
「ええまあ」
「仕事なら義務的にやると思うんですが…、何となく想像しにくくて」
「いえ、とっても積極的でしたし、楽しそうでしたよ」
 信じがたかったが、とりあえずは店員が知っていることをなるべく多く聞き出そうと努めた。同じことを繰り返し聞いていたせいかもしれないが、店員はインタビューの質問もある程度覚えていた。「どうしたらこの社会が良くなると思いますか」と質問していたなどと店員から聞いた時にはちゃんと耳に届いていたにも関わらず聞き返してしまった。
「大層な話ですね。笑いそうになりませんでした?」
「お客様は気迫たっぷりでこの人はこの後何か変える人かもしれないと思いました…でも、店を出ていく頃にはどこか寂しそうに見えました」
「何か言われて気に障ったのかな。その時、私は手元にラップトップを置いていました?」
「何にも無かったような…でも小さなマイクがそばにあった気がします」
「録音してたんですね」
 俺は来た道に戻って再び歩き始めた。無駄に鳴り響く馬鹿でかい音量のポップスにうんざりしては辺りを振り返りつつ前へ進んだ。いつの間にかあたりは暗くなっていた。日が落ちて来たのではなく、高いビルの陰に入ってしまったらしい。遠くない背後で聞こえた物音がだんだんと近づいて来る。この辺では比較的大きな食料品店の中に入った。入ってみて気がついたがここは瑞樹の存在を知る前に利用するつもりでいた店だった。家まではそんなに離れていない。入口から真っ直ぐ突き当たりまで走ると商品棚の隙間から来た道を覗いた。他の客たちの間から江沢の顔が右に左に動いていた。俺は構わずそのまま歩き続けて反対側の出口から店を出た。人集りで道がふさがっているが、別の道がなさそうなので狭い隙間へ強引に肩を入れて進む。人影のない場所が見えたので安堵したが、争い合っている二人の男に挟まれてしまった。人集りはこいつらのせいだった。スキンヘッドの大男と細面の男が殴り合っている。劣勢なのは明らかに細面の男だ。スキンヘッドに突き飛ばされて野次馬にぶつかった。間に入ってしまったので俺もスキンヘッドの男に殴り飛ばされた。隙を見て抜け出そうとしたが、細面の男が俺を掴んで無理やりポケットに錠剤の瓶を詰め込んで、逃げていった。こいつらは薬の奪い合いをしていたらしい。待てといった時にはスキンヘッドの男から二発目を食らった。どんなにアピールしてポケットに入れられた瓶を渡そうとしても血走った目からは反応がなく、俺は周りを取り囲んでいる見物人に向かって錠剤の瓶を掲げた。
「今からこれを投げる。取ったやつが全部持っていけば良い」
 俺はスキンヘッドの背後の空へ向かって瓶を投げた。すると一斉に野次馬が瓶の方へ走り、スキンヘッドを飲み込んでいった。出来た隙間を縫って路地裏に滑り込む。古びた一軒家が並んで何年も人が世話していないと思われる樹木や雑草がじめじめと淀んだ空気を醸している。生臭い匂いに飛び回るハエ。生命力がみなぎっていると言っても良いかもしれない。通りがかった空き家から突然腕が伸びて家の庭に引きずりこまれた。
「どうして逃げるんですか?」
 息の上がった江沢は聞いた。
「江沢さんだってこそこそつけてきて、何なんですか」
「あなたの家に向かっていたら見かけたので話しかけようとしただけですよ」
「何の用ですか?」
「ここ最近家に戻っていませんよね?どこで寝泊まりしているんですか?」
 江沢はいつもと同じようにしわのないのっぺりした表情だが、多少落とした声の内容は退院した元患者へちょっとした様子見程度に行う世間話ではないらしい。聞かれるだろうと思っていたことを聞かれたので、用意していた答えを返した。
「家には帰っていましたが、ハガキを返しそびれていたんです。申し訳ありません」
「仕事のない午前中にも職員からの電話があったはずですが居留守ですか?」
「たまたま、トイレに入っていて聞こえなかったとか、そんなことはよくあるじゃないですか」
「未だに電気代や水道代を支払っていないのに?」
「何の話です?」
「ごまかさないでください。数ヶ月はあなたの生活に関しては見守る権利があるんです。一応、施設を出たばかりの元患者ですので」
「わかりました。はっきり言ってください。どうしたら良いんですか?」
「ちゃんと家に帰って規則正しい生活をしていただければ良いんです。近くの公園や知り合いの家に行ってばかりいないで将来のことを考えて行動してください。それと原田という人物をみつけたら報告してください」
 江沢はライヴレイジの白衣を着た原田の写真を俺に見せた。
「何なんですかこの人?」
「私たちは警察と協力関係があるので、彼らが警戒している人物の情報が入って来ます。原田には現在捜査中の連続放火について容疑がかかっているんです」
「私には関係ありませんし、会うこともないでしょうよ」
「そうでもありません。過去にも元患者に自分の活動に協力するよう声をかけたことがあります。間山さんだってその一人になるかもしれません」
「そもそも、人付き合いは苦手ですし、面倒なことになりそうなら、尚更付き合うことなんてありませんよ」
「なるほど。苦手ですか?頻繁に同じ家へ出入りしてますよね」
「全部お見通しみたいですね」
「私も暇ではありませんので、あなたのことを始終追い続けているわけではありませんが、多少は把握しています。あなたを縛り付けるために監視している訳ではありませんからね」
「もしその原田って人に協力したら柳井さんの奥さんのように?」
「どういう意味です?」
「彼女は私のことを全く覚えていませんでした。ソイルをどうにかしてリセットしたんじゃないんですか?」
「まさかそんなことしませんよ。彼女は以前と同じく健康ですよ。お通夜で一度話したことがあるだけならピンとこなかっただけじゃないですかね」
「どうだか」
「そんなことよりすべてはあなた次第です。もっと前向きに生きてください」
「過去に縛られない生き方?」
「記憶は人を縛ることもありますから、新しい一歩を踏み出すのは難しいことです。ですが、あなたはとらわれることなく生きることができる」
「私はそんな小難しいこと言ってるんじゃない。あなたが信じられないんです」
「私なんかどうでも良いじゃないですか、あなたはあなたを信じれば良い」
「無理ですよ。俺には人生なんて選べない。鍵穴が決まっているのに鍵の形はお好きなものが選べますと言っているようなものじゃないですか。結局変えられるのは持ち手や色みたいに鍵穴とは関係ないところなんだ」
「じゃあ、鍵穴は誰が作るんです?」
「あなたたちです。ソイルを作り出して多くの人が使うようになった。あとはソイルの使い方をアドバイスするだけだ。数ヶ月で蓄えた僅かな俺の知識が言ってます。陳腐に聞こえるかもしれませんが、要は声がでかい金持ち。歴史上常にそうだった」
「彼らだって最初から金持ちだったわけじゃないでしょう」
「金持ちが誰かを助けてやって、新たに金持ちができる。誰を選ぶかで決まるが、あなた方に憧れる小さなあなた方が後続して行くんだ」
「反動的ですね」
「良いですよ。別に、柳井さんみたくショートしなければ」
「彼はずっと明晰でした。悩みが多かっただけです。快癒に向かう知識がなかったんです」
「まだそんなこと言って」
「間山さん」
 俺は江沢が言い終わる前に庭から飛び出した。何を言っていたかなんてどうでも良い。あんなやつと関わりたくない。気味の悪い脅迫なんかして来やがって。
 追っ手がいるとは思いはしないが、内心怯えて走り続けている。少し話過ぎてしまった。息が上がってペースが落ちて来たが構わず走り続けた。アパートの敷地に入り、壁に寄りかかって休んでいるとちょっとした異変に気付いた。アパートに似つかわしくない車が停まっている。俺の部屋まで続く廊下にはスーツ姿の男が辺りを落ち着いた面持ちで観察している。アパートの前でどうしようもなく立ち尽くしていると後ろからバイクに乗った先ほどのスキンヘッドが迫ってきた。思ったより執着心の強いやつでちょっと失望した。見た目の荒々しさとは裏腹にねちっこいやつだなんて。片手で投げてきたヘルメットをギリギリでかわしてアパートの三階まで一気に駆け上がった。部屋の前にいた男が俺に気がついて警察手帳をかざして来たが、無視してドアの鍵を開けた。冷静に俺を呼び止める警察官をスキンヘッドの男がひっぺがすと警察官が応戦し始めた。ドアを閉め、すぐさま録音機材や原田の計画に関わりそうなものを机の引き出しや本棚から手当たり次第に掴んではバックパックに詰め込んだ。何が必要で何がいらないかなど構っていられない。ガシャンと大きな音がすると割れた窓ガラスから血だらけになった警察官の頭が飛び出てきた。スキンヘッドは割れた窓ガラスを蹴ってさらに穴を広げている。今にも入って来そうだ。俺は仕方なく、ベランダへ駆け込み、日が落ちてくすんだボロい家並みを見下ろした。アパートと他の敷地を隔てる塀と塀の向こう側に伸びている小道の隙間を着地点に定めた。バックパックを胸に抱えてベランダから飛んた。背後からスキンヘッドが何か叫んでいる。着地で足の裏がヒリヒリしてるがどうにか大丈夫だ。あいつは俺の部屋に入ってしまった。部屋をめちゃくちゃにするに違いない。最悪だ。俺は服を擦りながら狭い通りを走った。
録音機材には音源がそのまま残っていた。慌てて飛び出したせいでイヤホンがなかったので瑞樹にヘッドホンを借りて聴いた。俺は会話の内容よりも過去の俺がどんな言い回しをしてどんなトーンでしゃべって、どんな笑い方なのかが気になってしまって集中できなかった。全く理知的で誠実な人間の話し方をしており今の俺とは別人だった。ただ、やっていることに関しては全く生ぬるいとしか言えない。あなたはこの社会に不満を持ちますかだとかあなたの理想の社会はどんなものですかとか、その社会に近づけるためにはどうしたら良いと思いますかなどと各人に聞いていた。大方、相手は体の良いことを言っているだけで何も考えていないのと同じように聞こえた。引き出しに録音機材と一緒に入っていた記録用ノートを合わせてると、会話の内容と全く関係がないメモが書いてあった。
「きらびやかな服装を好む人は話し方にはどこか余裕があって行動の指針は損得勘定が基本にあり、向上心は兎角効率よく金を稼ぐ知恵を得ることに終始しているし、ボロボロの服を着ている人は芸術家肌で世間とは離れたヒエラルキーの中で独我的な感性があり、だからこそ作品の価値を高められると信じている。奇抜なデザインの服を着る人はアパレル関係者で外見の美しさを過大評価して「美」を誰にでも分かる表層的な価値観に貶めるし、会計士や銀行員は3Dグラフィックの表計算用小型端末と鋭指向性マイク付きのヘッドホンを掛けて理念よりも正攻法のやり方や規則に重きを置き、とても厳格で無駄を省くことに敏感で抽象的な美学的感性がとても貧しい」
質問が馬鹿すぎて呆れていたが、返って回答者の画一的な特徴がわかったようだった。むしろ、この記録が必要なことだったのだと思う。このインタビューで計画の正当性を確かめていたのだろうか。それぞれが交わらない価値観を持っているのだから互いに介入させるための複雑さをもたらし、固定化した思考を崩すことが出来ると。港近くで働く工員へインタビューをした後にため息交じりの声で俺は所感を音声データとして残していた。「創意工夫のある新しい商品は開発できないし、新たな発展はしないが、優秀な工場はいくつか現れた。最小限の作業で効率よく動くための技術や知識は高められ、与えられた業務についてはよりよく解釈する従順な人間が増えた。自分にとって不都合な状況に晒されても新たな乗り越えるべき組織や能力の機能的な障害と理解して前向きに対処している。無能な幹部たちの誤った判断とみなし、問題提起する人間はとても少ない。こんなことを友人に話したところで相手にされないだろう。それほどまでに他人のことはどうでもよくなっている」
リビングのテレビでは本屋での火災が続発していると報じていた。仕掛けはわかっているようだが、犯人の目撃証言は未だになく、いつどこでという法則が全く読めていないようだった。だが『世の果ては君と』から火が出たということは分かったようだ。作者への怨恨や作品内容への憎悪などで捜査されるだろうと議論している。本屋の男の記憶はまるで頼りにならなかった。大体がどんな客が来ていたかの記憶だが、すべて女性の事しか話していない。コメンテーターは冷やかすように美人の顔しか覚えていないんだろうと言っていた。人間の記憶量はソイルのおかげで増えたが忘れられなくて困るということはない。それは意識的に興味のあることをより多く記憶するだけで、興味がなければ覚えないかすぐ忘れるという機能がちゃんと働いているからだ。瑞樹の家に住むようになって以来新聞を欠かさずチェックしていたが、音楽レーベル同士の盗作に関する法廷闘争は多いし、街中で芸能人が一般人に追われることも多くなった。反面、コレクターにとってソイルはとても役に立っていた。本物と贋作を見分けるのにも使えるし、今まで手に入れた物を省き、新たな品物を手に入れるのにも役立つ。だから古いスタイルが判別しやすくなった分、見かけだけが新しいものが生まれやすくなり、流行り廃りのサイクルは早くなった。見かけ上の新奇性に飢えている人ばかりだ。もちろん質なんてものはなおざり。本屋の客層がハイエンド化した事も頷ける。ソイルで知識をより詰め込みやすくなり、もっと心地よいものを体験するために一人一人がコレクターになった。だが共有可能な範囲でのことだ。犯罪だってその類を出ないかもしれない。忘れられない騒ぎを繰り返し、騒ぎを目的化したコピーキャットを増やし、その悪夢から逃れようとする人々の到来を待つといった長大な計画があったとしても単なる妄想には当たらないかもしれない。俺は家の引き出しから持ち帰ったものを山積みしたところから二、三のノートを取り出してパラパラめくった。読んだ本の感想やちょっとしたアイデアの箇条書きが書き散らしてあったが、中には原田との会話についても言及したものもあった。そもそも原田が公園で本を読んでいた俺に声をかけたのが最初の接触だったらしい。俺はそこで働いていた原田を冷たく追い払うことで本を読む場所として最適だったその公園へ行きにくくなるのを避けたかったようだ。そもそも仕事以外で人と話すことが少なかった俺は、世間話程度ならと多少は許容していたらしい。最初は適当に話を聞いていたらしいがその内に原田がちょっと前まで脳科学の教授をしていたのが分かった。原田は大学で起きたトラブルのせいで退職に追い込まれてからというもの清掃員として働いていた。俺と原田はライヴレイジへの嫌悪感という点で共感していたし、自らをコントロール仕切れていると思っている人々へソイルが広まり始めてから一層危機感を抱くようになっていた。人間が意識的に計画しようがしまいが、行動するときに何を好み、何を嫌悪してその行動を選択するのかといったものが父や母といった家族や誰かしらの先達を意図しようとしまいと見て覚え、良き行いとして繰り返していった模倣に過ぎないのでそれは全くの当人の発想ではない。既に清掃員として公園で働いていた原田は来園する人々について「彼らは彼らの家族の中での最良でしかない」と嘆いていた。俺は俺で金持ちの家族の最良な投資家あるいは放蕩息子としてのアーティスト、堅実な営業マンの息子としての真面目な経営者、貧乏人の息子としての優れた技術の窃盗犯、彼らは皆敵同士として何代にも渡って、何の自覚もなく争い、侮蔑し合い、嫌悪し続け、ユーモアを含んだ会話は出来ないだろうし、したいとも思わないだろうと言っていた。インタビューの後に原田との出会いを振り返ったのかどうかは日付がないので分からないが、俺と原田の間で今後の計画が企てられることを匂わせるものだ。別のノートにはライヴレイジの社長とその娘のプロフィールが箇条書きされていた。

大畑和也―ライヴレイジの社長、脳科学者でありソイルの考案者
大畑怜―大畑和也の娘、今後小説を発表する予定

俺は『世の果ては君と』を取り上げた。著者の名前は大畑怜だった。ポケットに入れたままの小型端末が震えた。画面を横切る赤い帯に「SNSで犯行声明」とある。細かい文字を追う前にリンク先に飛んで音声を聴いた。聴いたことがあるような声だったが、全く知らない人間の声のようでもあった。その音声は「ライヴレイジの大畑和也に告ぐ。ソイルについて隠蔽したことを公表しない限り本を燃やし続ける。これ以上ひどくならない内に対処しろ」とループした。
「通知見た?」リビングにいた瑞樹がぎょっとした顔で尋ねてきた。
「見た。どっかで聴いたことがある声なんだけど、思い出せなくて。分かる?」
「こもってる感じだけどめちゃくちゃ晃の声に似てた」
「俺の声こんなだったっけ」
「晃がやったんじゃないよね?」
「うん、俺じゃない…と思う」
「何か心当たりあるの?」
「多少はね。通報する?」
 瑞樹は顔を横に振った。
「追われるよね」
「俺はまだ監視の対象だから、施設に戻らされるかも」
「逃げよう」
「無理だって」
「俺はどこかに隠れて落ち着いたら戻ってくるから。その前に頼み聞いてくれないかな」
 俺は瑞樹に大畑怜へのインタビューのセッティングをするように頼んだ。俺がまとめた質問リストを瑞樹が代わりに聞くというものなのでもちろん会うのは瑞樹と大畑怜だが、実際の目的は違う。瑞樹はそそくさと小型端末を手に電話をかけた。
 原田との接触はなるべく避けたかったので瑞樹と大畑怜が会う日時をノートに書き封筒に入れて近所のコンビニからバイク便を通して公園の事務所へ送った。
 本屋は閉店時間でもないのにシャッターを下ろし、防護服を着た屈強な男達を客に迎えていた。原田には次の手があるのだろうが、本屋の客は減るだろうし、別の本に仕掛けるにしても、本を棚に入れるのは難しそうだ。かといって大畑和也がすぐに応えることは考えにくい。どこかで大畑和也を追い詰める次の行動があると思うのだが。本屋のシャッターが開き、店員はやじうまの人間達に安全性をアピールし始めた。ここにある本は昨日の内に全部チェックしましたとか大畑怜や大畑和也の関わった本はございませんとか言っている。店の裏手から本を回収した小型トラックが通りを走って行くのが見えた。
「大畑怜のアポはどうだった?」
 路地裏の静かな場所で電話をしていた瑞樹が曇った顔をしてこちらを見ている。
「まだ気持ちの整理がついてないみたい」
 地響きと共になにか大きなものが地面に落ちたような轟音が肌を撫でた。周囲を見ても何か飛び散ったものがあるわけでもなく、何が起きたのか分からないでいると、通りの先で煙が立ち上っている。倒れた小型トラックの荷台に穴が開いて煙が出ていた。
「晃、行こう。怜さん会うって」
「いや、俺は良いよ。場所には行くけどコーヒーでも飲んで待ってるよ」
「ダメだって、本当はあなたが聞きたいことなんだから」
 大畑怜は人通りの多いカフェを取材場所に指定した。訳ありの話をするにしては都合が悪そうな場所だ。人目を気にしているのはむしろ俺の方だった。瑞樹はどんどん前に進んで行く。あたりを詮索するようにしていた俺は席の隙間を縫って瑞樹の後ろに続いた。隠れて襲うにしてもこの場所では難しそうだ。天井の高い煉瓦造りの建物の中を進むと俺よりも少し背の高い女が口元だけ動かして微笑みながら瑞樹に手を振っていた。
「久しぶりですね」
 大畑怜は俺にも軽く会釈をしてきたので、俺はあいさつ共々瑞樹との関係を適当に伝えた。彼女は品を保ちながら、野心をもつ器用なタフガイと言った感じだった。カフェに溶け込むほどにはカジュアルな装いでいたが、背丈と顔立ちは周囲の男の目を否が応でも惹いていた。それはそれで意図通りではあるのだろう。この場所で早速話に入るのかと思ったが、奥に会議室があるらしい。
 瑞樹は施設に入っていた俺のことを説明し、今回のセッティングが俺の発案であり当該の放火事件についても触れることになると言った。
「注文、頼んできますね」
 立ち上がりかけた俺を瑞樹は座っていろと手で合図した。想定した動きではなくなったことに動揺していたので、意味のないことを聞いてしまった。
「今日肌寒くないですか?」
「ええ、ちょっと寒いかも知れませんね」
 大畑怜は苦笑いしながら言った。俺はいたたまれなくなり、トイレに行くと言って席を外した。瑞樹は人混みの中でカウンター前の列に並んでいる。店内の席は9割型埋まっており、盛況だ。俺はインタビューの録音を思い出した。あたりの客層を見てみると確かに彼らが何を話して何を話題にしているのかは言われなくても分かる気がした。テーブルに向かい合っている人々はどこかしらが似ていて、似ているが故に一緒にいるように思われた。見た目といい、格好といい同じピースがつがいになっていない俺は何となく場違いな気さえしてきた。人は元からそんなものだと思ったが、どうも薄気味悪かった。店内をぼんやりと見ていると席を探しているのか所在無く立っている中年の男と目があった。原田だった。俺を見つけたのかこちらへ歩いてきた。俺はここに来る前から原田に遭遇した時の態度を決めていた。記憶が残っている体で原田の行動に反対すること。俺が口を開くやすぐに原田が聞いてきた。
「何でこんなことを?」
「俺にも何かできないかと思って」
「私には私の予定ってものがあるんです」
「でも、良いチャンスだと思ったから来たんだよね」
「それより大畑怜はどこです?」
 複数人が入れる大会議室で部屋の真ん中にテーブルが置いてある。原田は部屋に入るなり奥にいる大畑怜を睨みつけた。俺は原田がどんな行動を起こすかまでは予想がついていない。大畑怜に何か言ったところで父がライヴレイジの何かを変えることになるかは疑わしいが、不特定多数の人間を燃やすよりは直接的だ。
「間山さん、この人誰ですか?」
「しらを切るつもりですか」
「本当に知りませんし」
「協力的じゃないですね」
「父の古い友人だからってすぐには信用できません」
「あなたが和也に言えば変わるかもしれない。実際、ソイルには欠陥があることはあなたも分かっているでしょう」
 原田は大きくなりそうな声を抑え、冷静さを装うとしていた。大畑怜は俺の方を見て、こちらに駆け寄って来た。
「場所変えましょう」
 俺は会議室の扉を開けようとした彼女の腕をつかみ室内に戻した。
「もう少しお願いします」
 原田は表情一つ変えずに俺を見ている。
「どうして?ちょっと離して下さい」
 大畑怜が俺の手を無理矢理離そうとするのでより力を込めた。
「欠陥についてはまだ詳しく聞いていなかった」
「あなたがこちらに戻ってからどうしてこんなことにって、何度も思いませんでしたか?」
「ああ。それもこれも全部ソイルのせいだっていうのか?」
「嗜好性は偏り、薬品中毒になり、同質化を好む。そんなことは今までもあったという人はいますが、それは過小評価です」
 疲れたのか大畑怜は腕を振るのをやめていた。
「あなたは少数の異常行動に敏感になりすぎている。改良しているしいずれ解決することなのに」と大畑怜は言った。
 原田は使い込まれたハンマーを手で踊らせている。
「確かにそうとも言えます。だが、いつ解決するかは誰にも分かりません」
「人間が作ったんですから、完璧はないでしょ」
「幾人かのソイルを破壊してみましたが、彼らはとても健康です。引き返すことは時に重要です」
「たくさんの企業が同じことを始めればもっと素晴らしいものが作れるはず」
「不特定多数を巻き込んでおいて、不特定多数に解決を委ねるとはずいぶん勝手ですね」
「もういいでしょ。パパのところに行って話せば、私、関係ないんだから」
「和也は先を越されると思って焦りすぎました」
 大畑怜は俺の脇腹を殴り、俺の腕を振り払った。痛みをこらえながらすぐに手を伸ばし、両腕を拘束すると原田の前に突き出した。
「もう少し、付きあわせてもらう」
「良いですよ。人手はあった方がいい」
 原田は大声を出そうとした大畑怜の口を押さえ、ハンマーで体を何度も叩いた。大畑怜のこわばった筋肉が緩まり、一人では立ち上がれない状態になっていた。
「まだ抵抗しますか?」
 大畑怜は何の返答もしなかった。俺と原田は彼女に腕を回して無理矢理立たせた。ぶらぶらさせた腕に原田は注射器を刺した。
「それで次はどうする?」
「ついてきてください」
 原田は会議室の扉をあけると目の前には瑞樹が二人分のコーヒーを持ってい立っていた。慌てた俺は力を緩めてしまい大畑怜は原田の方へ倒れてしまった。瑞樹はコーヒーをテーブルに置いて大畑怜を立ち上がらせた。
「怜さんどうしたの?」
「見なかったことにしてくれ」
「は?」
 原田は大げさに好々爺のような表情でアイタタタタと言った。
「お嬢様は少し前に体調を崩されていて、心配になって様子を見たら案の定このご様子で」
「そ、そうなんだ。これから病院に連れて行くところだから」
「じゃあ、私も一緒に行く」
「瑞樹は良いよ。俺とお付きの人で運ぶから。俺も話したいことまだできてないし」
「でも、心配だから良いでしょ?」
「親族以外には居場所を知られたくありませんので、こちらの方も途中でお引き取りいただきますよ」と原田は俺を一瞬睨んで言った。
「な、なるほど。そうでしたか。なら、晃、気をつけてね」
 俺と原田は大畑怜を抱えて会議室を出た。不安げな表情で俺の背中を見つめて立ち尽くす瑞樹を置いて、エレベーターに入った。
「もう少し機転を利かせてください」
「仕方ないだろ。びっくりして何が何だかよくわからなかったんだ」
「彼女どうするんですか?疑われるかも知れませんよ」
「心配ないよ。いざとなれば俺を売れば良いんだし。これ以外に方法はないのか?」
「これくらいしか思いつきませんでした。優しい父としての和也の感情に頼ります」
 狭い階段を降りると目の前にバンが停まっていた。俺と原田は大畑怜の片腕をそれぞれの肩に回し、酔っ払いを無理やり歩かせるような具合にバンに載せた。
 原田は改めて滔々と自己紹介を始めた。脳科学者でソイルの開発に関わっていたが、大畑と意見が食い違い、開発現場から締め出され、別の研究からも追いやられて清掃員として働きながら悶々としていたところ、たまたま出会った俺と計画を練ったらしい。生気の無い顔をした俺を仲間だと思ったと。
「私や間山さんがマークされる前にソイルを壊す予定でした。間山さんはソイルが破壊され、記憶を無くすのも覚悟の上でした」
「どうやって俺の記憶を消したんだ」
「さっきも言った通り、私は開発の場にいた人間です。機械の壊し方も知ってます。これから行く場所に道具があるので見せますよ」
「それは助かるね」
「私に協力してくれたらすぐ終わります。安心してください」
「計画は順調ってことか」
「私に当たっても何も取り返せませんよ」
「別に当たってるつもりはない」
「結局何かにすがりたい。ただそれだけのようですね」
 必要なことを言い終えると原田は落ち着き払った様子でこれからの手はずを頭の中でおさらいしているようで、俺との会話は頭の端っこを使って適当にあしらってる感じだ。
「今の俺は子供のような状態だ。すがりたい気持ちがあったってしょうがない」
「私がもう一度あなたに会うと思ったのは、あなたは常に不安に苛まれているからです。それはきっとソイルがあろうとなかろうと変わらない」
「不安なんて多少なりとも誰だってあるだろう」
「過去のことを振り返らずに欲望のままに楽しむ事も出来たはずなのに、あなたはここにいる」
「記憶の中の俺は不満だらけだった。不満だらけの人間が生きていた場所でのうのうと生きられるか」
 バンは素朴な落ち着いた雰囲気の住宅街をゆったりと走っている。途中大畑怜が起きそうになると原田は彼女の腕をまくり、注射をした。大畑怜の顔には血は出ていないものの、擦り傷が多数あった。それでも、スカーフで顔を覆っていたが知る人間が見たら大畑怜だとすぐに分かるだろう。バンがアパートの前に止まった。
「こんなところで良いのか?」
「このアパートは出来たばかりでまだ他の部屋に人がいません」
「いや、そういうことじゃなくて」
「言いたいことは分かりますけど、心配入りません。ほら、そっち持って」
 後部座席のドアが開き、原田と大畑怜を持ち上げてエレベーターまで運んだ。原田は五階建ての最上階のボタンを押した。暖かい日差しが心地よく午睡を誘う陽気だ。小鳥のさえずりがロビーに響いている。
「力緩めないでください。こっちが重くなる」
 俺は慌てて背筋を伸ばし、大畑怜の体を持ち上げた。
「やっぱり、私に頼ろうとしてる」
「ちょっとしたことでつっかかるなよ」
「冗談ですよ」
 庭付きの広い部屋の窓はカーテンで覆われている。引越ししたてのような部屋にはちょっとした荷物とソファのみが置いてあった。大畑怜をソファに横たえた。小さな寝息とともによだれを垂らして眠っている。原田はテーブルに乗せてあったバッグから結束バンドを取り出し両手、両足を拘束した。半開きのスポーツバッグの中を興味本位で覗いてみると、中には寄せ集めのガラクタで作った手製のスイッチが入っていた。
「テレビ点けて下さい」
 そばにあったリモコンを手に取り、テレビを点けた。議論する必要のない話題で議論の真似事をするスキャンダル番組がやっていた。落ち着き払って原田は言った。
「変化はなさそうですね」
 原田は想定内といった風でバンから降りたのと反対側のカーテンを少し開けた。数軒の低い住宅屋根が並ぶ先にある頭一つ出た建物の中で、学生らしき若者が講義を受ける姿が見えた。大学のキャンパスだ。原田はバッグを手に取った。
「それはちょっと前にトラックに仕掛けたやつか?」
「あの場所にいたんですね。確かにそうです」
「次は何する気」
 ゴミ箱にはフロイトの『精神分析学入門』の本のスリップが束で捨ててあった。
「見てれば分かります」
 原田は大畑怜の胸ぐらを掴んで二、三回平手打ちした。薄眼を開いた彼女に小型端末のキーを解除させ大畑和也を出す様に命じた。顔を横に振る彼女は手にした端末をわざと何度も落とした。俺は原田に言われるがまま彼女を羽交い締めにすると原田はバッグの中からハンマーを取り出し、大畑怜の足の指を一本づつ骨が砕かれるまで叩いた。悲鳴が外に漏れない様に俺は大畑怜の口を塞いだ。密着した彼女の首筋からはストレスからくる脂汗と体臭が混じった高級な香水の香りが漂った。俺は足をばたつかせないように綺麗に剃られたふくらはぎを締め付けた。気を失いかけた彼女を揺すりながら、大畑和也へコンタクトを取るよう原田は急がせた。大畑怜は震える手でキーを解除した。娘からの連絡に大畑和也は最初そっけなかった。原田はあらかじめ用意してあった編集済みの音声をスピーカーから流し、大畑和也に言った。
「二時間後に会見を開かなければ、新たな被害者が出る」
 大畑和也は音声を聴いている間は冷静さを保っていたようだが、娘の顔と潰れた足の画像を見て心底動揺した様子だった。
「わかったから、それ以上は娘に何もしないでくれ」とだけ大畑和也は言った。
「それはあなたの行動によります」と原田は言ってすぐに端末の電源を切った。
「また、待ち時間だ。もう彼女離して良いですよ」
 俺は気を失った大畑怜を再びソファに寝かせた。涙と鼻水がソファに染みて行った。用意した二時間は会見までの準備を見越しての事と思っていたが、そうでは無かった。窓から見える教室で二時間後に心理学部の授業があるのだ。大畑怜の寝息が昼下がりの牧歌的な時間を演出した。会見のニュースが流れるまでの間、暇らしく俺は施設で目を覚ましてからの出来事を聞かれたのでざっと話した。原田は興味がないのか、この後のことで頭がいっぱいなのか、反応が薄い。それなら聞くなと思ったが、俺は戸惑いながら話し続けた。原田の顔は清々しく、あったかどうか疑わしい甘美な青春時代に浸っているような若々しさがあった。そんなことよりも、目を覚ましそうな大畑怜のちょっとした体の動きが気になった。いや、窮屈そうにしている大畑怜の姿態に見入ってしまった。原田は俺が江沢から追跡された件で聞き返してきた。俺は江沢の風体について教えてやった。あの神経質そうな程に綺麗に剃られた揉み上げや常に湿り気のある髪型と細身のスーツの素材などのことも忘れずに。原田は江沢と会うことを予感しているのだろうか。神妙な顔つきで伸びてきたあご髭を触っている。点けていたテレビからは未だに会見の知らせは飛び込んでこない。俺は持っていた小型端末で調べてみたが、目に留まったのは瑞樹からの数十件に及ぶ呼び出しだった。俺は完全に犯罪者扱いだろうと思った。事実そうなのだから仕方ない。
 原田は思い出したように立ち上がり、バッグの中から細長い菜箸のような金属の棒とコインほどの小さい楕円形の金属板を出した。俺の記憶を飛ばすのに使った道具だ。原田は俺の頭を使って使い方を説明しようとしたので慌てて身を引いた。原田は大いに笑った。実に気味が悪い。緊張が突然緩んだからとは言え極端だった。心理学部の授業で生徒たちが開く『精神分析学入門』に仕掛けた薄い金属板のような発火装置を俺に見せてきた。
「さっきのスイッチでこれは燃えるんじゃないのか」
 原田は発火装置の切れ込みを見せて言った。
「ええ。ですがこれを折り返さない限り無線を拾わないようになってるんです」
 原田は手に持った発火装置を俺に渡した。
「どこかで使うことがあるかもしれないので、持っていてください」
 俺は着ていたジャケットの内ポケットにあったメモ帳に発火装置を挟んだ。
 大学のキャンパスで心理学の授業が始まった。教壇へ向かって生徒達が座っている。とうに二時間を過ぎていた。原田はバッグからスイッチを取り出して押した。教室の中で生徒たちが走って行ったり来たりしている。窓を開ける生徒の体が燃えている。原田の仕掛けは成功した。窓のそばにいた生徒が窓から飛び降りて地面に落ちた。近所を散歩している犬が吠えた。
「あとはリアクションですね」
「若い奴らを犠牲にしても平気そうだな」
「心理学の連中に遺恨を残す形にしたいんでね」
「脳科学者の大畑和也対心理学者?」
「過去にライヴレイジの活動について論陣を張ったのは心理学者が中心でした、またその火種になればと」
 原田は大畑と共に研究していた時分の事を独り言のように語った。原田はソイルの持つ危険性を予見していた。数人の被験者を用いたテストでネガティブな結果が出ていたにも関わらず、大畑は個人的なつながりのある官僚達に働きかけ、検査をパスさせていた。ソイルにより記憶が増幅された人間は記憶の嗜好性が強まり、逆に嫌悪の対象も増えた。元々、人格傾向として自虐的な振る舞いが多い人間は悪夢と自殺願望が増幅される。恰好の例が施設で自殺した柳井だった。
「そうです。あなたが死ぬ瞬間を目撃した男はなるべくなら彼らにとって隠しておきたい人間なんです」
「だとしたらもっとたくさんの人が同じ目にあっているんじゃないのか」
「人間ですから治る人もいます。自殺したって本当の原因が何かなんて分からないじゃないですか」
 ドラマが途中で黒い画面に変わり、眼鏡をかけた中年男がテーブルに置かれたマイクを前にして座っている映像に切り替わった。この男が大畑和也だった。原田は前のめりになってテレビを見た。口元は微笑んでいる。心理学部の生徒が燃えてから三十分経っていた。視線を手元のメモに向けながら大畑和也は喋り始めた。
「お集まりいただきありがとうございます」
 大畑和也は咳払いをし、マイクの隣に置いてあったコップに入った水を飲んだ。
「私が開発したソイルは…」
 大畑和也は文字通りの意味で燃えた。本題に移ろうと話し始めた瞬間、体の内部から燃えた。みぞおちの辺りが黒ずんだあと喉から火を吹いて全身が燃えた。周囲のメディア関係者が慌てて火を消そうとしているところで会見映像は途切れ、ドラマが再開した。原田はテレビを叩き、チャンネルを変えた。他のチャンネルでは緊急速報で通知が画面脇に表示されているだけだった。俺はかけるべき言葉が分からなかった。消防車や警察車両の警報音が住宅街にこだましていた。
「とりあえずここを出よう。あれは誰が?」
「知りません。和也の取り巻きの誰かでしょう」
 原田はうなだれながらもそばにある荷物を持って立ち上がった。
「交渉の相手はいなくなった。終わりです。何もなかったことにされる」
「逃げながら勝機を探す?」
「さあ、研究室の爆破でもしますか?」
「現実味がないな」
 俺と原田は車で数キロ先のターミナル駅で別れることにした。大畑怜は足かせになるだろうと思いソファに横たわらせたままにした。
「あなたの持っている端末をください」
「どうして?」
「あなたが追跡されるのは防ぎたい。私が持っていることでしばらくは目眩しになるでしょう」
 俺は原田に小型端末を渡した。原田がどこへ行くかは聞かなかったが、本来の血が通ってない表情を取り戻したように見えた。単に装っていたか、死を悟ったからなのかもしれない。行先よりもどこか遠くの方を見ていた。原田とはもう会わないだろう。俺との出会いの目的は今日のためにあったのだし、全ては失敗に終わった。
 最後に挨拶だけでもと思い瑞樹の家へ向かった。部屋の中へ駆け込むと瑞樹はリビングでうつ伏せの状態で倒れていた。着ていたワンピースの背中に空いた小さな穴から血が垂れてカーペットに染み込んでいた。俺は彼女の死体を目の前にしてもそれほどショックを受けなかった。動悸していたがこれはただここまで走って来たからだし、次に何をすべきか順序立てて考える余裕はある。大したことはない。彼女と暮らした時間は心地の良いものだった。まだ生暖かい瑞樹の手を握ったら動けなくなってしまった。
 濡れた路面が街灯の光を反射して、道先を照らしている。誰かが身を潜めているように感じ、堪らず走り出した。路面に映った灯りは背後へ消えてはまた前に現れた。乱れた呼吸の中、一晩過ごすのにちょうど良い場所を思いつき、脇道に入った。警察の装甲車が行き交っていた。物々しい雰囲気に気圧されるようだ。近くの停留所に止まったバスに飛び乗った。
 この辺のバスは時計塔のあるロータリーで折り返していくつかのルートに別れている。しばらく乗っていれば街の様子が見られる。窓外では肩から銃をかけた警官が高校の通学路に立って辺りを見渡している。俺はその警官の顔をじっとバスの中から見ていたが、気に留められはしなかった。
 暗闇の中、遊歩道を照らす僅かな明かりを頼りに公園の備品庫に向かった。風が吹いているせいか頭上にある枝葉が擦れる音がした。足を止め周囲を確認してから再び歩き出した。俺が動いた影を人間だと認識する時にはすでに身動きが取れなかった。掴んだのは江沢で部下らしき人間がそばにいるらしく拘束され、ワゴンに引きずり込まれた。助手席に江沢が座り、鈴木が運転席に乗っていた。俺のいる後部座席との間には透明な仕切りがはめ込んである。
「休むって何をしてるかと思えば原田とつるんでたとはな。無駄なことしやがって」
「…」
「ばあさんのソイルを抜いたのもお前だろ。あの後、社員への説明が大変だったんだからな」
「…」
「なんか言ったらどうだ」
「間山さん、探していたんですが、全然見つからないので大変でした」
「…」
「何か気になることは?」
「ライヴレイジに行くんですよね?」
「ええ、不服かとは思いますが」
「瑞樹も江沢さんが?」
「やはり出入りしていたんですね。残念です」
 江沢は鈴木にスピードを上げるように合図した。
「トップがいなくなって大変ですね」
「後任については大畑社長と話していたところだったので、多少早まっただけです。返って今の社長は何でも聞いてくれるのでやりやすいかもしれません」
 車は高速に入った。江沢がチラチラとバックミラー越しに俺を監視している。俺は内ポケットに入れようとしていた手を引っ込めてジャケットの襟を持ってシワを伸ばすふりをした。視線を外し、部下に話しかけたタイミングで内ポケットからメモ帳を取り出した。挟んでいた発火装置を抜いて端を折り、透明な仕切りにあるわずかな隙間から滑り込ませた。しおりのような見た目の発火装置は江沢の足元に落ちた。座っていた場所を運転席の後ろ側へずらし、窓の外を眺めた。工場の並ぶ土地で建設中の建物に囲まれたライヴレイジの建物が見えた。俺は内ポケットのスイッチをジャケットの上から押した。発火装置から火花が吹き出て、動揺した鈴木はハンドルを左右に大きく振った。江沢はパンツに燃え移った火をはたいて消そうとするがすぐにジャケットも燃え始めた。窓からの風で助手席にいた江沢だけでなく鈴木の服にも燃え移りそうだった。火を避けようとしながらハンドルを切り、蛇行を繰り返し、鈴木が車を路肩へ寄せると今や全身が燃えた江沢が熱さに耐えられず、すぐに車を降りた。鈴木も江沢の火を消そうと慌てて飛び出した。思いつきでやったので自業自得なのだが後部座席にも多少煙が回ってきた。運転席側の温度が上がると後部座席も熱くなった。車のロックが外れることを期待して、意識が遠のきながらも蹴りを食らわせていると車内管理システムがダウンする音とガシャッという音とともにドアが開いた。外には月明かりにぼんやりと湯気がたっている黒い塊がある。俺は高速の出口へ向かって走った。誰かが俺に向けて銃らしきものを撃って追ってきた。慌てていたのか全くおかしな方向で弾の当たる音が聞こえた。背後で車がものに当たる音が響き、ブレーキが鳴った。きっと鈴木は銃を取り出す前に停止板を置いた方が良かったのだ。
 数日間、備品庫に引きこもっていると清掃スタッフから原田からの届け物を受け取った。いびつに膨らんだスポーツバッグだ。中には手紙が入っており、俺の記憶を消した時に使った例の銀に光る菜箸の使用方法が書いてあった。ちょっとした感謝の言葉と哀れみを誘う言葉が前置きとして長々と書かれていたので使用方法の部分だけ切り取ってあとはほとんどゴミ箱に捨てた。最後のページには次の行動について書いてあった。

…ライヴレイジへの交渉は不可能になりました。これからやれることは私の持っている研究結果を公表することです。既に報道機関各社へ資料を送っています。ただ、これが思惑通りに公表され、ソイルの使用中止につながるかは分かりません。あなたへデータのリンク送ります。滞りがありましたら、あなたに公表してもらいたいです。最後まで見届けていただけたら幸いです。
原田幹雄

原田の同僚に小型端末を借りて外の情報を確認していると本屋の連続放火犯が捕まったというニュースを見つけた。放火犯は原田とは似ても似つかない別人の顔で「三橋」という名前の男で本屋の連続放火を行った人物として逮捕されていた。また、原田の同僚は園内の掃除の時に俺を探っている人間と会ったというので、行く当てはないが次の晩には備品庫を出た。
 街から離れて郊外の落ち着いた場所を目指した。空腹で動けず道端で幾度か立ち止まっては壁に寄りかかって歩き続けた。晴れ渡った空に涼しげな風が吹いている。電車に入ると若い男女が俺から離れて行った。都合がいいと思って空いた席に座ると今度は正面の座席に座っていた女がこちらを睨んでいた。ようやく俺の体臭と風貌の汚さに思い至った。だが、今更何かできるわけでもない。空いた席に座って帽子を目深にして瞼を閉じ、外界を追いやった。
 あまりに静かなので目を開けてみると車窓からは海が見えた。乗客は俺だけだった。ブレーキ音とともに電車が止まった。降りたホームには潮風が吹いていて、風が運んだ砂が体に張り付いた。無人の駅でシャンシャンと降りた時から聞き慣れない物音が俺のバッグから響いた。バッグの中を確かめたら、家の鍵が入っていた。初めて見る鍵だった。原田の手紙をもう一度見たら、破った切れ目に住所の一部が書いてあった。俺は身を隠す場所の住所を捨てていたのだった。誰もいなかったので声に出して自分を罵った。
線路は海に沿った道路と並走する様に走っていてすぐに砂浜に出られる。通りかかったドラッグストアに入りサンドイッチとコーヒーと掃除用品の棚にあったいい匂いのするボトルと粉の入った箱を買った。さわやかでフルーティーな香りが食欲をそそった。それが洗剤だということは分かっているが、うまそうなのだ。別に死にたいのではない。古びた住宅街を抜けると海の家が点在する砂浜に来た。白く低い建物が砂浜に沿って長く伸びて建っている。出入り口の鍵がかかっているので回り込んで塀の低いところから登って入った。観光客向けの案内所とカフェが併設された施設だった。籐のロッキングチェアに座って食事をした。粉を貪って、ボトルを飲み込むとツーンと鼻を抜ける刺激臭で気が遠くなり、意識を失った。
 目を開けると従業員らしき中年の女がそばに立っていた。俺は狭い休憩室の様な部屋にいた。何となくだが意識朦朧としたままここまで歩いた記憶がうっすらある。
「まだ寝てていいよ。他に誰も来てないから」
「だけど、邪魔でしょ」
「人が来たらそこにある水着で泳いで来たら良いよ」
 それとなく体臭をどうにかするよう言われたみたいだ。俺は半身を起こすと積まれた段ボール箱の場所を確認して再び横になった。段ボール箱の外には「水着 処分」と書いてあった。
 騒々しい音がして目が覚めた。周りには誰もいないし、施設内の物音もしない。洗面台のコップを手に取って水をがぶがぶ飲んだ。俺の頭はおかしくなっているのは分かる。ネジが外れていたのは最初からかもしれないが。原田に出会う前からずっと飢えて、何か奪われている気分だった。段ボール箱から水着を取り出して施設の外に出た。
 沖に赤とオレンジの配色が眩しい平たい円形のものを見つけた。砂浜に埋まっていた海水浴客向けのパラソルが浮き上がったのだろう。俺はパラソルに向かって泳ぎだした。パラソルは波に打たれ小刻みに揺れ、前に行ったり後ろに戻ったりしている。砂浜からしばらく泳いだがまだたどり着かなかった。ほんの数メートルが縮まらない。俺は疲れて体を浮かべた。原田が送って来た手紙の内容がまだひっかかっていた。研究結果を公表するだけでは何も変わらないという印象が拭えない。原田は耳を傾ける人がいると思っている。それは楽観的だと思った。もし俺にファンがいたら、少しは話を聴くかもしれない。アホみたいな夢想だがそれくらいに可能性は乏しい。可能性があるとしたら美貌があって分かりやすく単純な小説を書く人気作家ぐらいのものだ。海水が口の中に入り溺れるかと思うほどむせた。慌ててばたつかせるとパラソルに手が当たった。
 おばちゃんは夫と二人暮らしだった。息子は家を出て都心で働いている。俺は野宿できそうな場所と案内所でネットを使いたいと言っただけだったが、空いていた息子の部屋へ泊まるように勧められた。俺はおばちゃんに連れていかれるまま家に向かった。おばちゃんの夫は一瞬ムッとした様に見えて大きな身振りで手招きして家に入れと俺を招いた。築数十年の二階建てで俺が泊まれる部屋は二階にあった。部屋は息子が出て行った時のままでミュージシャンやアニメのキャラクターのポスターが貼られていた。ほこりひとつないのは夫婦がたまに覗いて掃除をしていたからだろう。机と椅子に、それからベッドはまだまだ使える。少し狭いが贅沢なぐらいだ。おばちゃんにお願いして借りたラップトップを開いて大畑怜を検索した。
 大畑怜の活動を見たところしばらく大きなメディアに出ていない。リンク先のブログの投稿は三ヶ月前のもので買い物帰りに近所のカフェでケーキを食べたことを記した日記だけだ。住所の一部も検索した。他県のローカルな住宅地と別荘地が出て来てどちらも身を隠すのには適していそうだった。しらみつぶしに原田のふりをしておばちゃんの家から電話をかけた。バカみたいな芝居をし続けて、すぐに日が暮れてしまった。久しぶりの人の手で作ったまともな食事をとった。
 定年でリタイアしたおばちゃんの夫は趣味として近くの畑で二人分の野菜を獲りに行くのが日課だ。だから、おばちゃんが観光案内所に行き、夫が畑に行くと俺が家に残る。知らない人間を一人家に置かせるほど警戒心は緩んでいない夫は俺を連れ出して一緒に畑仕事をさせた。
 俺がおばちゃんのいる案内所に行くと言ったら夫は少し寂しそうだった。だが、毎日畑仕事に誘う必要がないことは分からせて良いだろう。初めて案内所の中に入った時『世の果ては君と』を本棚に見かけたので借りに行くつもりだ。今まで興味がなかったので読んでいなかったのだが、時間を潰すのにはちょうど良かった。
 『世の果ては君と』は地球全土を巻き込む災害で住む場所の少なくなった人々が食料や生活に必要な道具を管理する数少ない技術系の企業の抑圧に苦しめられる中、主人公とその恋人が民衆と共に立ち上がり社会を作り直して行くというのが大まかな話だ。今の世の中を過剰に表現するとともにどこか父親への批判が混じっている様な世界観で詳細な心理描写は好感が持てたが、起きていることがロマンチック過ぎてどうにも笑うのを堪えられなかった。現実では敵役は悪ぶらないし、人はまとまりにくい。そんな世の中で見る彼女の極端な夢は単純に殺し合いができる世界だ。爽快だが何も残らない。だけど人間なんてしょうもないなと自覚することができるので良いのかもしれない。壮大な物語は飾り付けされたちょっとした個人の愚痴に過ぎない。ちょっとしたこと過ぎて大仰に語って恥ずかしさをごまかしてさえいる。大したことのない積み重ねにいらだっていたと知られないようにあまりに大きな一撃を食らっていると表現したいようだ。溜まりに溜まった彼女の愚痴でも聞いてやっていたら、友達になれたかもな。
 案内所の閉店時間が来ておばちゃんと家に帰った。今日の出来事を夫に語り、夫はキッチンのそばの机で野菜を切りながら話を聞いていた。俺は手紙の事で思い出したことがあり、すぐさま二階に駆け上がって別荘地を再び調べ始めた。手紙を破る前、中身をざっと読んでいた時に湖とボートをイメージしていたのを思い出したのだ。地域を絞って管理会社に確認を取るとようやく原田の別荘が特定できた。俺は清々しい気持ちで居間に降りて本の続きをだらだらと結末が知りたいだけで読みはじめた。珍しく家のインターホンが鳴った。俺しか出られなかったので仕方なくドアを開けて配送物を受け取った。差出人は会社の名前で箱は家で見かけたことのあるダンボールだ。匂いといい重さといい中身はおそらく夫の収穫した野菜だろう。俺は居間の隅にダンボールを置いた。夫婦が戻って来たら伝えることにして再び本を読み始めた。
 俺に覆いかぶさった瑞樹が体中を撫で回すのでくすぐったくなって半身を起こした。パジャマ姿の瑞樹がキスを連発してくるので勢いに押されてまた横になった。何も抵抗できないほどの強引さなので息ができないほどだったが心地いい。また、あの安っぽいがよく眠れるベッドで眠りたかった。瑞樹はいつの間にか俺の頭を押さえ込んで全体重をかけていた。だめだ。苦しい。瑞樹は何か唸り声をあげている。
「おぉ、おぉ」
 息が詰まりながらも瑞樹に近づいて耳を傾けた。

 俺の目の前には天井に伸びた俺の両腕と冷たい目をして、俺を見下ろすおばちゃんの顔があった。喉が痛い。いびきのせいだった。おばちゃんの視線の冷たさは俺の異様ないびきにあるのかと思ったが、明らかに雰囲気が違った。俺はあんな冷たい目を久しく見たことがなかった。悪夢にうなされていただけで冷たい表情になるのは信じがたい。むしろ笑って欲しいものだ。普段と違うゆっくりした動きで料理をテーブルに並べるおばちゃんが口を開いた。
「それ、お父さんが送った野菜です」
 俺は何のことなのかすぐには分からなかった。当然そばに置いていた段ボールのことだった。
「ちょっと関係のあった会社なだけで送ってるんです」
「定年になってからしばらく経つんですよね」
「ええ、だからおかしいなと思って聞きました」
「お父さん、家庭でのことを業務と思っていたんです」
「それはどういう意味ですか?」
「自分の生活ぶりを誰かが見て評価してると思ってたんです。それで世話になっているからって、野菜を送って」
 俺は似た症状の人間に会っている気がした。
「病院には行ったんですか?」
「ええ、行ってはみたんですが、異常はないみたいで」
「どうしてでしょうね」
「あなたが来てからなんです」
「どういうことですか?私のせいで旦那さんがおかしなことになったと?」
「わかりませんけど、あなたが来てからお父さんは私のことを妻とは思わなくなりました」
「俺は何もしてませんよ」
「そんなことはわかってます。あなたが悪い人だとも思ってません」
 おばちゃんはテーブルに顔を埋めて動かなくなってしまった。
「どうしたらいいかわからなくて。ごめんなさい。出て行ってほしいんです」
「旦那さんがソイルを使い始めたのはいつですか?」
「え?そうね…、多分五十過ぎてからだと思います。私もその頃に入れました。それが何か?」
「もし、二人で今よりちょっと若い頃の気分を味わえたらどう思います?」
「え?いや、もう何が何だか」
 俺は部屋へ戻るなりスポーツバッグを漁って菜箸を引き抜いた。野菜を切り終わった夫はリビングで晩酌を始めていた。
「旦那さんをこっちへ」
 おばちゃんは缶ビールを手にした夫の手を持って、横になれるスペースへ引っ張った。俺は菜箸にコンセントをつないで夫の頭に楕円の金属部品を当てた。
「これは何なの?」
「これからあなたは旦那さんにソイルをつけてからのことを教えてくださいね」
 俺はおばちゃんの手をとって夫の体を抑えさせた。
「ちょっと待て、俺にも説明しろ」
「大丈夫ですよ。大丈夫」
 俺は菜箸を夫の鼻の中に突っ込んでスイッチを押した。
バチン。
 夫は意識を失って体の力が一気に緩んだ。おばちゃんを呼び寄せ、夫の目が覚めたら今がいつで、今まで何が起きたか話す様に言った。
 俺はさながらライヴレイジのになった気分だった。おばちゃんが案内所で働いている時間には、まだ意識が薄らぼんやりしている夫へ、おばちゃんが書き残した一年毎の夫の足跡を綴ったノートを読んで聞かせてやったり、夫の質問に対しては答えられる範囲で俺なりに見方の偏った世の中のことを教えてやった。そんなことを数日繰り返している内に夫は外へ出て畑仕事をし始め、俺はちょっと前に夫から教えてもらった畑仕事を教えた。体の方がよく覚えていて、大した時間をかけずに一人で畑仕事を行えるようになった。正常運転の夫を見ておばちゃんは快活さを取り戻した。暇になった俺は大畑怜の本を返しにおばちゃんと一緒に案内所へ行った。次に読む本を探してみたが食指が動くものはなく、代わり映えしない見掛け倒しの大仰なタイトルとキャラクターの感じ方の表面的な繊細さを誇張する代物ばかりだった。
「はい。これ」
 おばちゃんは大畑怜講演会の招待状を持って来た。
 講演会は今まで検索しても引っ掛からなかったグループが運営していた。運営会社は自然資源の保護を掲げる団体で関係者をたどると瑞樹が関わっていたサイトともつながりがあった。フライヤーのURLは少ないページ数のサイトだが、大畑怜は細々と日々の出来事や世の情勢についてエッセーを書いていた。文脈からライヴレイジへの反感を滲ませる内容もあった。この講演会もその企画の一環で開かれるようだ。
 講演会へ向かう準備をしていたら、おばちゃんがノックせず部屋に入って来た。
「出て行って欲しいなんて言ってごめんね」
「え?ああ、大丈夫ですよ。気にしてませんよ」
「言わなきゃと思ってたんだけど切り出せなくて」
「所詮赤の他人ですし、仕方がないですよ」
「息子が連絡くれないから寂しかったけど、あなたが来て良かった。ありがとね」
「そんなお礼なんて」
「今日、楽しんで来てね」
 市民会館で行う小規模な講演会だからかも知れないが満席でまだ彼女の人気はそれなりにあるようだ。とは言っても講演会について掲載するメディアで期待されていたことと言えば事件について何か発言があるかどうかということで、彼女自身に興味を持っていなかった。実際にはほとんど小説の執筆過程などの話に終始したのでメディアにとっては期待外れだっただろう。家族の話になっても数分空白の時間が訪れ、母親との関係を中心に話して父との話を暗に避けていた。不仲であっても父の死に動揺するのだなと少し幻滅した。もしかしたら彼女は独特な感性を持っている芸術家肌のセレブリティで、だからこそ父と不仲になったのかもと思っていたのだがそうでもなさそうだ。
 俺は早めに講演会を切り上げて、駐車場に出た。すっかり日が暮れていた。黒光りする上等な車の前で身を潜めて大畑怜を待った。体が強張ってきて手に汗をかいてきた。スポーツバッグに入れたレンチを握りしめたまましばらく経ったので金属の匂いが握った手から上ってきた。彼女はスーツの男と並んで俺がいる黒い車の方へ向かって歩いてきた。男は彼女を励ましながら運転席側のドアへ近づいてきた。俺はドアに手を掛けた男の後頭部をレンチで殴った。俺の顔を見ようとして振り返る仕草はしていたが、繰り返し殴るのに耐えきれず膝から崩れ落ちた。大畑怜は目を見開いて硬直したままじっと血だらけの男を見ていた。すぐに振りかぶって大畑怜を殴ろうとしたが、体を丸くして目を瞑って震えていたので、男の手から車のキーを引き抜くと彼女を無理やり立たせてトランクに押し込み鍵を閉めた。エンジンを点けて原田の別荘へ車を出した。
 街灯や住宅はほとんどない真っ暗な道を進んだ。ちょっとした山の麓に茂みを見つけ、車を止めてトランクを開けた。大畑怜は涙を流して目を瞑っていた。俺は無抵抗の彼女を抑え、菜箸を彼女の鼻に突っ込みソイルを壊した。意識を失った彼女を後部座席に引きずり、横に寝かせた。再びハンドルを握って車を出すと彼女に聞かせるように思いつきの作り話を聞かせた。
 異質で奇妙で反時代的な行動は魅力的で真似したくなる。柳井の妻や俺は異質である事をやめさせられた。最初から過去なんていらなかった。これまでの道のりを一切忘れるチャンスだったのに。結局江沢の言っていた通りになって癪だが、本当に新たな人生を送れるかもしれないのだ。学ぶためのリスクは多分にあるが、死を意識した人間にとってはありがたい。大畑怜は湖畔にある別荘で新たな世界認識を獲得しようとしている。俺が施設でやらされたように自分を取り戻す事はさせない。奪われ今ではどこにもなくなった世界を毎日大畑怜に教え、気づくように促している。実際に奪われた世界は最初から存在しない。そんなものはなくたっていい。あっても良さそうで面白ければいい。これから作るんだ。かつてあったのに時を経てどうかして今日の世界になってしまったと大畑怜が考えられれば彼女を通じて伝播していくはずだ。ちょっと信じ難い話でも彼女が信じる限り、彼女を信じる人は同じファンタジーを見るだろう。信頼とはとてもあいまいで非論理的だ。家族や友人、恋人、論理的に歪んでいても倫理的に下劣でもお互いに信頼し合っているやつらはいる。だから論理はいらない。彼女は歪んだ巫女になれればいい。バカみたいな事を言っているが俺のやれることはこれくらいだ。それに彼女とおままごとをやるのはとても楽しい。何だっておままごとだ。手を握り、同じベッドでいることも。彼女に筋書きを覚えてもらったら、今度は俺が学ぶ番だ。ソイルを持たない異質な人間としてライヴレイジを訪れる時には俺たちのような人間が世界を歩き回る事を望んでいる。
(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?