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「自由から逃走する者」 「自由へ立ち向かう者」 どっちを選びますか?

オレはこの施設に来て毎日思う…

何でこんなことになったんだろうって…

心も体も蝕まれ

徹底的に自由は奪われ

自分自身をも失う…

こんなことになるなんて知っていれば誰も戦場になんか行かないだろう

でも…皆「何か」に背中を押されて地獄に足を突っ込むんだ

大抵その「何か」は自分の意思じゃない

他人や環境に強制されて仕方なくだ

ただし自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ

その地獄の先にある何かを見ている

それは希望かもしれないし

さらなる地獄かもしれない

それはわからない

進み続けた者にしか…わからない

進撃の巨人24巻 エレン・イェーガー

 

  

 あなたは「何か」に背中を押されている”皆”ですか?

 それとも、”進み続ける者”ですか?



 僕は、後者でありたいです。

 自由から逃走する者ではなく、

 自由に立ち向かうものでありたいです。



 

 エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を読みました。

 

そして、葛原先生の「けテぶれ学習法」を読みました。 

 

 前者はめちゃくちゃ難解で、ほぼ理解できていないと思います。でも、全く関係のないと思っていたこれらの2冊を並行読書していて大きな着想がありました。

 僕がこのアカウントで繰り返し話題にしてきた

 「主体性」

 「自ら学ぶ力」

 「管理教育の弊害」

 「理想の社会」

  「自由」

 「孤独による不安」

 「自分が望んでいるもの」

 これらのバラバラと思っていたトピックをつなげた上に、一つの結論を与えてくれました。

 ここで得た着想を、共有できたらと思います。この記事の主題は、

 

「自由から逃走するのではなく、自由に立ち向かうためにはどうしたらよいか?」


 です。

 

 本題に入る前に、2つの前提をつくらせてください。

 まずは、主題に含まれる言葉の意味を定義していこうと思います。

 ○自由を、「より高い、どのような力にも服属しないこと」とします。「より高いどのような力」とは、教会、国家、良心などのことです。人類はこれらから自由を得るために戦い、実際に自由を獲得してきました。しかし、その度に新たな「より高い、どのような力」が現れます。現在僕たちの前に立ちはだかっている「より高い、どのような力」とは世論です。よって、今回僕がこの記事で述べる「より高い、どのような力」を世論とします。

 ○自由からの逃走を、「自由によってもたらされる不安と孤独に耐えられず、自我を失う道を選ぶこと」とします。

 ○自由に立ち向かうを、「自由からの逃走」の対立概念とします。具体的には「自我を失わないかつ、不安と孤独にも打ち勝とうと努力する道を選ぶこと」とします。

 この定義に則って、記事を進めていきます。

 
 次に、題材を設定しようと思います。

  というのも、抽象的なことを抽象的に述べられる自信がないので、この記事をより地に足のついたものとするために、具体的な題材を設定します。

 当初進撃の巨人のエレンを使おうと思っていたのですが、題材としてより適切な人物を見つけました。それは僕です。

 「お前のことなんてしらねえよ!!」

 そう思われるかもしれませんが、勘弁してください・・・。それ以外でこの難解な着想を説明できそうにないのです。

 というわけで、強行的に僕を題材に記事を進めさせていただきます。

 

 


 これで前提は揃いました。本題に入ります。

 「自由から逃走するのではなく、自由に立ち向かうためにはどうしたらよいか?」

 です。よろしくお願いします!!


 僕の過去の記事を眺めていると、二つの感情がせめぎ合っていることがわかります。

 一つが、「認められたい」という感情です。

 教師としての力を評価されたい。男性として、パートナーに選んで欲しい。ということをかつて記事に書いてきました。

 二つ目が、「自分らしくありたい」という感情です。

 自分を変えたくない。自分を諦めたくない。自分の意思を貫きたい。といったことをかつて記事に書いてきました。

 そしてこれらの感情はそれぞれ、「自由からの逃走」、「自由へ立ち向かう」を意味する感情です。

 「認められたい」気持ちを短期的に満たそうとするならば、僕は自分らしさを捨て去り、世論(周りが求める人物)にならざるを得ません。これはまさしく、自由によってもたらされる不安と孤独に耐えられず、自我を失う道を選ぶことです。

 「自分らしくありたい」気持ちを短期的に満たそうとするならば、僕は孤独と戦わなくてはいけません。これはまさしく、自我を失わないかつ、不安と孤独にも打ち勝とうと努力する道を選ぶことです。

 僕は「認められたい」を選べば自我を失い、「自分らしさ」を選べば孤独になります。どちらを選んでも、それなりの代償を伴います。

 では、僕はどちらを選べば良いのでしょうか。

 結論から言えば、「自分らしくありたい」気持ちを優先すべきだと考えます。

 


 仮に、「認められたい」状態を優先したらどうなるでしょう。

 おそらく、安心と安全を保証されます。周りと同調した状態は安らぎを与えてくえるかもしれません。誰かが勝手に背中を押してくれる状態は楽かもしれません。

 でも背中を押された先にどんな運命が待っていたとしても、残るのは「自分で選択しなかった」「努力しなかった」という後悔だけです。

 また、それで「自分を諦めた」という事実は隠せたとしても、その罪悪感はずっと残り続けます。 死ぬ間際に「もっと好きなことやっておけばよかった」と思うに違いありません。

 
 だから僕はもう一つの気持ち、「自分らしくありたい」を優先します。孤独になります。

 そして、孤独と戦いながら、

「自分らしくある、かつ周りから認められる」状態を目指します。

 

 じゃあそれは何によって可能になるか。


 主体的な学びによって可能になると言います。

 「けテぶれ学習法」では、主体的に学ぶことの意味の一つの側面として「学ぶことを通して自らを知ることができるから」と述べています。

 これは僕も「なるほどその通りだ」と思いました。主体的に学ぶことによって、自分の傾向を掴みます。自分の頭の中を言葉にします。それを通して自分とはどのようなことに興味があり、どのようなことに適性があるのかが見えてきます。要するに「自分との対話」が生まれるのです。「自分との対話」において自分を知ることができれば、「自分らしさ」を社会で、能動的に表現する術が見えてきます。自分らしさを表現し、それが必要とされることほど幸せなことはありません。

受動的な学びではダメです。自分と学ぶ内容を結びつけない、受動的な学びでは「自分との対話」が生まれません。

  主体役な学びを続けることによって初めて、誰かに背中を押されるのではなく、自分の意思で、人生を進み続けることができるのです。

 
 
 ここまで記事を進めてきて、主題への結論が見えてきました。

 「自由から逃走するのではなく、自由に立ち向かうためにはどうしたらよいか?」

 結論は、シンプルでした。

 主体的に学ぶこと。それだけです。



 主題からは逸れますが、この結論は、僕が管理教育を疑問視する理由にもつながっています。だから少し触れさせてください。

 先にも述べたとおり、子どもたちが幸せになるためには「自分らしさを社会で表現し、役立てる」術を身につけさせてあげなくてはいけません。

 つまり主体的に学ぶ力を身につける必要があるのです。

 でも、管理教育では先生に指示された内容を、指示された通りにアウトプットすることが強く求められます。

 子供達は「自分との対話」の機会を得られず、自分とは何者なのかわからないまま、社会という自由な場へ放り投げられることになります。

 その際、大半の子供は「自分を諦める」道を選ぶでしょう。だって学校でずっとそれを求められてきたのですから。主体的に行動しないから、幸せになれないことを環境や他人のせいにし続ける、苦しい状態になるでしょう。

 そしたら社会は「出る杭は打たれる」状態になります。「俺は自分を諦めてるんだから、お前も自分を諦めろ」と足を引っ張りあう状態になり、社会は一向に成長しません。閉塞感渦巻く、暗い社会になります。

 だから教育が必要なのです。子供たちが主体的な学び手となるために、子どもが学びの主人公となれるような仕組みを作っていかなくてはいけないのだと思います。

  

 

 

これらを踏まえて、最後に再度問わせてださい。


オレはこの施設に来て毎日思う…何でこんなことになったんだろうって…
心も体も蝕まれ徹底的に自由は奪われ自分自身をも失う…こんなことになるなんて知っていれば誰も戦場になんか行かないだろうでも…皆「何か」に背中を押されて地獄に足を突っ込むんだ
大抵その「何か」は自分の意思じゃない他人や環境に強制されて仕方なくだ
ただし自分で自分の背中を押した奴の見る地獄は別だ
その地獄の先にある何かを見ているそれは希望かもしれないしさらなる地獄かもしれない
それはわからない進み続けた者にしか…わからない

進撃の巨人24巻 エレン・イェーガー

 実は問われていることはシンプルです。

  あなたは学ばず、流されますか?

  それとも、主体的に学び、行動し続けますか?


 

 僕は・・・後者を選びます!!

 

 もし、同じような選択をする方がいらっしゃったら、一緒に頑張りましょうね!!






 余談です。僕には、見ていて辛くなる人と、見てて羨ましいと感じる人がいます。

 辛くなる人は、超具体的になりますが、2年目になって他の先生と同じようなことしか言わなくなってしまった後輩です。

 去年までは「こうしたい」「ああしたい」っていう思いをもっていたのに・・・。みんなが求める2年目の先生になってしまったように見えます。



 反対に羨ましくなる人は、低学年の子どもです。子どもを見ているとワクワクして同時に羨ましくなります。

 低学年の子どもたちは自分が人生の主人公であることを疑いません。全力で自分を世界に表現しようとします。この世界に自分を描き出すことができるのです。

 まだまだ自分との対話が足りてないので、描いている自分が全然違うんですけどね(笑)。でも、子供はそれで良いんじゃないかなって思ってます。「自分は無敵だ」くらい思ってて欲しいものです。

 このような子どもが、自分を諦めないかつ、自分を正確に描けるようにするために、子供主体の学びの環境をつくってあげるのは我々大人の仕事ですよね!

 








 

 

 




 

 

 

 


 

 

  

 

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