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【SS】クマローの行き先

高校から帰ってくると、わたしは自室のドアを開け、部屋の左手にある学習机を見て驚いた。
そこには、わたしがクマローと呼んでいる熊の姿をしたぬいぐるみが置いてあるのだが、今日のクマローは変だった。

わたしは、すぐさま駆け寄ってクマローの片腕を触った。
右腕の付け根のところ。
そこが少しだけ破けているのだ。
いや、昨日もクマローには触ったから、こんな傷は昨日なかったと、はっきり断言できる。
なのに、なぜ今日になってクマローの片腕が傷ついているのか。

わたしはクマローを抱きかかえながら、ある考えに行き着く。
それは、年下の弟が勝手に部屋に入り、クマローのぬいぐるみに手を伸ばして乱暴に扱ったのではないかという疑惑だ。
弟はまだ小学生ということもあり、学校から帰ってくると、家のソファやベッドの上でぽんぽん跳ねているのを見かけたことがあったのだ。
さすがに母が仕事から戻ってくると、跳ねるのを止めるのだが、わたしが言っても聞かないため、そのまま見過ごしていた。
わたしはクマロ―を手にしたまま階下まで行き、リビングルームに入って行った。
弟はソファの上に座り、携帯ゲーム機を手にして遊んでいた。イヤホンで音を聞いているため、何のゲームかはわからない。
わたしは、つかつかと弟に歩み寄った。
「これ、見て」
クマローを弟の前に突き出し、わたしは証拠として突きつけた。
弟が顔を上げる。イヤホンを外した。
「勝手に部屋に入らないで。クマローの腕を傷つけたの、あんたでしょ」
弟はちらっとクマローを見ると、「ううん」と言いながら頭を左右に振った。わけがわからない、と言った表情だ。
わたしはクマロ―を突きつけるのを止めた。
「そう。なら、いいけど。また、こんなことしたらただじゃ置かないからね」
そう言い残すと、わたしはクマロ―とともに自室に戻った。

翌日のことだった。
わたしは高校から帰って自室のドアを開けた。嫌な予感がドアを開ける前からしていた。
クマロー。腕の様子がおかしく、わたしはすぐさま近寄った。
よく見ると、クマローの腕が今度は千切れかけている。
傷はもっと大きくなり、既に中の綿わたがうっすらと見えている。
わたしはクマロ―を手に、階下まで走って行った。
「説明して」
クマローを、ソファの上に座っている弟の前に再度突きつけた。
弟は驚いた様子でイヤホンを外した。
「どうしたの、それ」
クマローの右腕を指さして彼は言う。
「どうしたのって……クマローの様子が昨日から変なのよ」
わたしはクマロ―の片腕を少し持ち上げた。
「ほら。昨日はここまで傷が大きくなかったのに、家に帰るとこうなっていたのよ」
詰められた綿わたが腕の付け根部分にのぞいている。弟からも、それは十分に見えただろう。
なんて痛々しいぬいぐるみの姿だろうと、わたしは思った。
「ぼく、何もしてない」
弟は言ったが、わたしはいまいち信じきれなかった。
「でもね、わたしが帰ってくる度、こうなのよ。このぬいぐるみを買ったのは数年前だけど、いつも机の上に置いているし、大切にしているから傷がちょっとでもあったら、すぐにわかるの」
弟は驚いたまま、ソファの上で両膝を抱えこんだ。
「お姉ちゃんの部屋には入っていないし、ぬいぐるみを触ったこともない」
弟はちょっと悲しげに首をやや傾けた。
「なんで信じてくれないの。ぼく、そんなことしないよ」
わたしは言葉に詰まってしまった。
最初は弟がしたことだと頭に血がのぼっていたが、よく考えてみると、弟のこの態度は変だ。かえって、わたしが弟を罪のないことでなじっているようにも見える。
だったら、一体、誰がクマローを……。

ガチャッと硬質な音がして、玄関から声がした。
聞き慣れた声でもあり、わたしには瞬時に声の持ち主がわかった。
「ただいまー。二人におみやげ買ってきたよ」
明るい母の声がリビングルームに響いた。
手には、ケーキ屋で購入したと思しき四角い箱を下げている。
母はわたしと弟を交互に見て言った。
「どうしたの、二人とも」
「これ」
わたしはクマロ―を母に見せる。
「昨日からクマローを傷つけている奴がいるの。今日なんか、片腕がこんな状態に」
クマローの右腕をわたしは持ち上げた。
その痛々しい様に母が目を丸くする。
母は手を伸ばしてクマローに触る。
やっぱり、母は優しいな、とわたしは思う。
クマローの傷をまず確かめてくれるのだから。

母は何度もクマローの傷を触り、わたしの顔を見て言った。
「これ、お母さんのせいだわ」
わたしは母の言葉に目を丸くした。母はなおもクマローの傷を触り、言った。
「クマローの頭の上にあった小さなシミを何度も洗って取ろうとしたんだけど、できなくて乾燥機に入れて乾かしたのよ。二日続けてね。クマローは乾燥機OKだからすぐに乾いてくれたんだけど。忙しいから腕の傷には気づかなかった。ごめんなさいね」
母の言葉にわたしは呆然とした。
クマローをわたしの手から奪うと、母は言った。
「お母さんが縫って直してあげる。少しかかるから、その間はケーキでも食べて待っていて」
母はケーキの箱をリビングルームの机の上に置いた。
全身から力が抜け、その場に座り込んでしまうかのような思いがする。
クマローの傷ついた片腕。その原因が母にあったとは。

わたしの視線に気づいたのかどうか、母は突然、後ろをふり返った。温かな微笑みさえ、浮かべている。
「このぬいぐるみ、クマローっていう名前なのね。知らなかったわ」
手の中のクマローを母は優し気に見つめた。
「お姉ちゃんが子どもの頃に飼っていたハムスターの名前と同じ。確かにどっちも茶色い姿をしているわね」
母はそう言い残すと、リビングルームを離れた。
部屋のドアが微かな音を立てて閉まる。

残されたわたしは悲しい思いにとらわれ、立ち尽くしていた。
あんなに大好きだったクマロー。最近では、もう思い出すこともなくなってしまった。
つぶやくように、ふと、そう思ってしまう。

クマローは、わたしが子どもの頃に飼っていたハムスターの名前だ。
フワフワしていて、手のひらにのせたり、ひまわりの種が大好きな子だった。えさをやる瞬間がとても好きだった。
でると、一瞬くすぐったそうな顔をするのが好きだった。

けれど、一年くらい経ったある日。
クマローはわずかな兆候さえ見せず、その命を全うしてしまった。
お別れは中々できなかったけれども、母に言われて、庭の片隅にお墓をつくることになった。
お墓の周りには花を植えてあげた。
お別れするには花を手向けてあげなければ、と思ったから。

わたしはリビングルームの窓の外、ここからは決して見えない庭の一角に思いを馳せた。
クマローはいつでもそこに眠っている。
時間が経つにつれ、庭の一角を訪れることやクマローのことを思い出すこともなくなっていた。
だからこそ、数年前にクマローと似た茶色いぬいぐるみを見たときに、わたしは心を動かされた。
家族でショッピングモールに行ったときに大切にするからと、このぬいぐるみを親に買ってもらった。
クマローはお墓を抜け出して、ぬいぐるみとなってわたしの元に帰ってきた。
わたしにはクマローと出会えた瞬間がいつまでも忘れられないのだ。

後ろをふり返って弟を見る。頭を下げると、わたしは言った。
「ひどいこと言って、ごめん。悪いのはお姉ちゃんだから」
弟は、わたしの顔をちらっと見て生意気そうに言った。
「だから何もしてないって言ったのに」
照れも少しは入っているのか、頬杖ほおづえをつきながら言うところが自分の弟ながら愛らしい。
わたしは「ケーキ用のお皿、持ってくるね」と弟に声をかけた。
部屋を離れようとして、わたしは一瞬足を止める。
窓の外の奥。
ここからは見えない庭の一角の方へ視線を向けた後、わたしはクマロ―の顔を思い出して、リビングルームを後にした。



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